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第七話∶裏切りの聖地(アキハバラ)

【融解する電気街】

「……数値が、異常だわ」

パンドラ本部、研究開発室。

九条栞くじょう しおりは、冷めたブラックコーヒー――彼女が「泥水」と自嘲する特製のカフェイン抽出液――を啜りながら、メインモニターを睨みつけていた。

画面に映し出されているのは、東京の東の聖地、秋葉原。

だが、その光景は、いつもの煌びやかな電気街ではなかった。

「空間歪曲率、測定不能。物理法則の書き換え深度、レベル5オーバー。……これじゃあ、街そのものが『フィクション』に飲み込まれてしまう」

栞の指がキーボードを叩く。その爪は、研究のストレスで少し荒れていた。

彼女の背後にあるホワイトボードには、複雑な数式と共に、一枚の古い写真が貼られている。それは、まだ学生服を着た栞と、もう一人の人物が笑顔でピースをしている写真だ。

「……待ってて。あの時解けなかった数式ナゾ、今度こそ私が証明してみせるから」

彼女は誰に聞かせるでもなく呟くと、インカムのスイッチを入れた。

『――杏奈さん、聞こえる? 現場の状況はどう?』

『……最悪です、栞さん。ここはもう、私の知ってる秋葉原じゃありません』

ノイズ交じりの通信の向こうで、私の声は震えていた。

私たちが降り立ったのは、秋葉原駅の電気街口広場。

そこは、悪夢のような「融解」の只中にあった。

「うわ……なんだよこれ。ビルが……溶けてる?」

陽翔が、口元を押さえて呻く。

彼の視線の先、巨大な家電量販店のビルが、まるで夏の暑さに放置されたアイスクリームのように、ドロドロに溶け出していた。

コンクリートが粘液のように垂れ下がり、ネオン看板が歪んで地面に溜まっている。

「物理的な融解じゃない」

鉄男さんが、油断なくライフルを構えながら指摘する。

「見ろ。溶けた部分が、ペラペラになっている」

彼の言う通りだった。溶け落ちた瓦礫は、立体としての厚みを失い、まるで「書き割りの絵」のような平面(2D)になって地面に張り付いていた。

「……次元圧縮現象」

雫ちゃんが、ハンマーを握りしめてポツリと言う。

「……3Dが、2Dにされてる」

「正解よ、雫ちゃん」

栞さんの声が響く。

『今回の特異点の影響は、物理的な破壊じゃない。現実(3D)の情報を強制的に圧縮し、虚構(2D)へと変換しているの。そこに巻き込まれた人間は……』

私は、足元に落ちていた「看板」を拾い上げた。

いや、看板だと思っていたそれは、よく見ると――

「……嘘」

それは、等身大パネルのように平らになった、メイド服を着た店員さんだった。

恐怖に歪んだ表情のまま、厚さ数ミリの板状に圧縮されている。まだ微かに脈動しているのが、かろうじて生きている証拠だ。

「人間を……絵にするっていうの? こんなの、冒涜だよ……!」

怒りで手が震える。

私たちは二次元を愛している。でも、それは三次元(現実)を捨てて逃げ込むためじゃない。現実を生き抜く力を貰うために、二次元を愛しているんだ。

現実の人間を無理やり二次元に変えるなんて、それは「推し活」じゃない。ただの「殺戮」だ。

『気をつけて。その現象の中心点に、強烈なエネルギー反応がある。場所は――「アキバ・ラジオタワー」』

秋葉原の象徴とも言える、あの黄色い看板のビル。

私たちは、ペラペラになった街並みを踏みしめながら、その中心地へと走った。


【理想の果ての魔女】

ラジオタワーの前は、異様な静寂に包まれていた。

周囲のビルはすべて書き割りの背景となり、空だけが毒々しい紫色に染まっている。

その入り口に、一人の女性が立っていた。

豪奢なドレスに身を包み、手には不釣り合いなほど巨大な大鎌を持った、銀髪の美女。

その姿は、この世の者とは思えないほど美しく、そして――

「……アリス、さん?」

私は、思わず足を止めた。

見間違うはずがない。

彼女は「伝説のレイヤー」と呼ばれた、神宮寺アリス。

圧倒的なクオリティと、キャラクターへの深い愛で、秋葉原のカリスマとして君臨していた人物。私も何度も彼女の撮影列に並び、その神対応に涙したことがある。

だが、今、彼女の瞳には、かつての慈愛に満ちた光はなかった。

あるのは、底なしの暗闇と、狂気じみた陶酔だけ。

「あら、杏奈ちゃんじゃない。久しぶりねぇ」

アリスさんは、能面のような笑顔で私に微笑みかけた。

「どう? 素敵でしょう、この世界。煩わしい厚みも、重みも、痛みもない。全てが美しい絵画のように、永遠に保存される世界……」

「アリスさん……あなたが、これをやったんですか?」

「ええ。マエストロ様が力をくださったの。私の『理想』を、現実に上書きする力をね」

彼女が優雅に大鎌を一閃させる。

空気が悲鳴を上げ、衝撃波が私たちを襲った。

「散開ッ!」

鉄男さんの指示で、全員が左右に飛び退く。

アリスさんの大鎌が地面を抉る。その軌跡が触れたアスファルトが、瞬時に「道路のイラスト」へと変化し、ひらひらと舞い上がった。

「触れるな! 触れたら二次元にされるぞ!」

陽翔が叫び、距離を取りながら歌い出す。

『センター・オブ・ワールド』!

金色のオーラを纏い、敵の注意を引きつける。

「あら、元気なアイドルさん。でも、私の世界では『動き』なんてノイズよ」

アリスさんが指を鳴らす。

すると、陽翔の周囲の空間が、漫画の「コマ割り」のように区切られた。

「なっ!? 俺の動きが……止まって……!?」

「コマの中に閉じ込められれば、あなたはただの静止画。次のページがめくられるまで、動けないわ」

陽翔が、空中に浮かんだ「コマ」の中で静止したまま、もがいている。

「陽翔くん!」

「させない……!」

雫ちゃんが死角から飛び込み、ハンマーを振り下ろす。

しかし、アリスさんは動かない。

彼女の体が、まるでホログラムのように揺らぎ、ハンマーがすり抜けた。

物理無効インタンジブル。……私はもう、高貴な概念存在キャラクターなの。下等な三次元の攻撃なんて当たらないわ」

無敵だ。

攻撃は当たらず、触れれば即死(2D化)、遠距離攻撃も「コマ割り」で封殺される。

これが、マエストロの幹部クラスの力。

「どうしてですか、アリスさん! あなたは、誰よりもキャラを愛して、現実に命を吹き込んできた人じゃないですか! なのに、どうして現実を否定するんですか!」

私は叫びながら、スキルを発動させる。

選んだのは、あらゆる幻想を打破する力を持つ、退魔師のアニメキャラ。

『破邪の霊符』を投げつけるが、それもアリスさんの手前で「紙くず」に変わって落ちた。

「愛しているからよ」

アリスさんの声が、冷たく響く。

「三次元は汚いの。老いるし、太るし、裏切るし、忘れ去られる。でも、二次元なら永遠に美しいまま。私の愛したキャラたちは、みんな画面の向こうで私を待っている。……だから、私もそっちへ行くの。この街ごとね」

彼女の背後に、巨大なノイズの影が立ち昇る。

それは、彼女の歪んだ愛が生み出した、巨大な「次元の門」だった。

門が開けば、秋葉原だけでなく、東京中がペラペラの紙にされてしまう。

「そんなの……愛じゃない。ただの逃避だ!」

「黙りなさいッ! 消費するだけのオタクに、私の高尚な愛がわかってたまるもんですか!」

アリスさんが激昂し、大鎌を振り上げる。

その刃が、私と、動けない仲間たちを捉えた。

万事休す。

そう思った瞬間。

ドシュッ!!

鋭い金属音が響き、アリスさんの大鎌が弾かれた。

私の目の前に突き刺さっていたのは、無骨なパイルのような装置だった。

「……え?」

『――遅くなってごめんなさい。計算に手間取ったわ』

インカムから、いつになく真剣な栞さんの声が聞こえた。


【科学という名の魔法】

「これは……『現実錨リアリティ・アンカー』!?」

アリスさんが、忌々しそうに杭を睨む。

その杭を中心に、半径数メートルの空間が正常化し、陽翔を閉じ込めていた「コマ」がガラスのように砕け散った。

「ぷはっ! 助かった! 死ぬかと思ったぞ!」

「栞さん、今の武器は!?」

『私の推し……いえ、私の専門分野の結晶よ。その杭は、強制的に周囲の物理法則を「こちらの世界(3D)」に固定するデバイス。一時的だけど、彼女の「概念化」を無効化できるわ!』

本部の研究室で、栞さんはキーボードを叩き続けていた。

彼女の目は、かつてないほど熱く燃えている。

『オタクが愛するのは魔法や奇跡だけじゃない。私は「科学」という名の魔法を信じてる。この世界のことわりを解明し、守り抜くこと。それが私の推し活よ!』

栞さんの言葉が、私の心に火をつけた。

そうだ。パンドラには、科学オタク(マッドサイエンティスト)もいるんだ。

彼女が作ったこの隙を、無駄にはできない!

「みんな、今だ! 彼女の実体があるうちに叩く!」

「おうよ! 借りはこの一撃で返す!」

「……了解」

「撃ち方、用意!」

陽翔の輝き、雫の重撃、鉄男さんの銃撃。

三方向からの同時攻撃がアリスさんに迫る。

「小賢しい……!」

アリスさんは大鎌で防御するが、リアリティ・アンカーの影響で体を霧散させることができない。

衝撃で彼女の体勢が崩れる。

「杏奈! お前の番だ!」

鉄男さんが叫ぶ。

私は、アリスさんの懐へと飛び込んだ。

彼女は、悲しい目をしていた。

永遠を求めて、現実を捨てた彼女。

その気持ちは、わからなくもない。私だって、辛い現実より推しの世界にいたいと思うことはある。

でも。

「アリスさん! あなたが作った衣装も、写真も、思い出も! 全部、この三次元げんじつにあるから輝いてたんじゃないですか!」

私は、右手にすべての想いを込めた。

今回選んだスキルは、特定のキャラじゃない。

アキバに集う、全てのクリエイターたちの「情熱」そのもの!

『クリエイターズ・ソウル・インパクト』!

私の拳が、アリスさんの大鎌の柄を砕き、彼女の胸――その奥にあるノイズのコアを捉えた。

「……あ」

アリスさんの瞳から、狂気が薄れていく。

その代わりに、涙が一筋、頬を伝った。

「……そうね。布の手触りも、ミシンの音も、カメラのシャッター音も……全部、この世界のものだったわね……」

彼女の体が光に包まれる。

次元の門が崩壊し、紫色だった空が、いつもの東京の空へと戻っていく。

溶けていたビルも、ペラペラになった人々も、元の立体を取り戻していく。

「……ありがとう、杏奈ちゃん。……でも、気をつけて」

消えゆくアリスさんが、私の耳元で囁いた。

「マエストロは……『完成』を急いでいる。次の標的は……もっと、根源的な……」

言葉は途切れ、彼女は気絶してその場に倒れ込んだ。

彼女に取り憑いていたノイズの核は砕け散り、黒い煤となって風に消えた。

戦いが終わり、私たちはラジオタワーの前で息を整えていた。

街は、何事もなかったかのように日常を取り戻している。

ただ、アリスさんだけはパンドラの医療班に収容されていった。彼女の心に残った傷は、すぐには癒えないだろう。

「……ふぅ。なんとか守りきったな、聖地」

陽翔が、自販機のジュースを飲み干して笑う。

私も安堵のため息をつき、スマホを取り出した。

「栞さん、任務完了です。あの杭、すごかったですね」

『……ええ。間に合ってよかったわ』

モニター越しの栞さんの声は、少しだけ湿っぽかった。

『……私もね、昔、救えなかった友達がいるの。非科学的な現象に巻き込まれて、手の届かない場所に行ってしまった子が』

「え……」

『だから私は科学を選んだ。どんな不思議も、数式で解明できれば、いつか彼女を連れ戻せるかもしれないから。……今回のデータで、少しだけその背中に近づけた気がするわ』

通信が切れる。

私は、栞さんの意外な過去に言葉を失った。

いつも冷静な彼女にも、譲れない「推し(願い)」があったんだ。

その時、私のスマホが震えた。

パンドラの医療センターからの緊急通知。

『サイレント・フェード被害者・美咲の容態が急変。感情エネルギーの残存値、危険域に低下。至急帰還されたし』

「え……?」

背筋が凍りついた。

勝利の余韻が一瞬で吹き飛ぶ。

アリスさんの最期の言葉が、脳内でリフレインする。

『マエストロは、完成を急いでいる』

タイムリミットは、私たちが思っているよりもずっと近くまで迫っていたのだ。

私は秋葉原の空を見上げた。

いつもの青空が、今の私には、ひどく冷たく、遠いものに感じられた。


(第七話 完)

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