第二話:その組織、福利厚生は「推し活」につき
【代償は筋肉痛と共に】
池袋の激闘から一時間後。
私は、高級セダンの後部座席で、生まれたての小鹿のように震えていた。
「……っ、ぐ、ぅぅ……!」
恐怖で震えているのではない。
痛みだ。
全身の筋肉という筋肉が、かつてない悲鳴を上げている。
「痛い……指先まで痛い……。ゼノ様の『星屑のレクイエム』、必要筋力ステータスが高すぎるでしょ……」
私の呻き声に、助手席に座る黒コートの男――一条蓮が、バックミラー越しに冷ややかな視線を送ってきた。
「当然だ。君は普段、運動といえばイベント会場での物販ダッシュと、サイリウムを振ることくらいしかしていないだろう」
「うっ……否定できない……」
「君が行った『推し憑依』は、脳のリミッターを強制的に外し、対象キャラクターの身体能力を再現する荒技だ。君の貧弱な肉体に、歴戦の英雄の出力を流し込んだんだ。全身複雑骨折しなかっただけ、運が良かったと思え」
一条の言葉は正論すぎて、反論の余地がない。
アドレナリンが切れた今、私の体は鉛のように重かった。推しのスキルをコピーできる代償が、翌日の激甚な筋肉痛(確定)とは。
やはり二次元の住人は、フィジカルの基礎設計からして違うのだ。
「到着したぞ。ここが我々『パンドラ』の本部だ」
車が滑り込んだのは、秋葉原の電気街から少し外れた、古びた雑居ビルの地下駐車場だった。
表向きはレトロゲームを取り扱う商社ビルらしいが、地下へ進むにつれてセキュリティゲートが厳重になり、映画で見るような近未来的な施設が姿を現した。
「すごい……秘密基地じゃん……」
「感心している暇はない。すぐにメディカルチェックと、現状の説明を行う」
一条に連行されるようにして、私は施設の中枢へと足を踏み入れた。
すれ違う職員たちは、白衣を着た研究者や、軍服のような制服を着た強面の人たちばかり……かと思いきや。
(ん? 今の人、白衣の下に『週刊少年メテオ』のコラボTシャツ着てなかった? あの受付のお姉さんのデスク、フィギュアで埋め尽くされてない?)
無機質な廊下のあちこちに、隠しきれない「同族」の気配が漂っている。
「ここは……?」
「対虚無特務機関『パンドラ』。突発的に発生する『ノイズ』および『サイレント・フェード』現象に対抗するために設立された、政府非公認の極秘組織だ」
一条は歩きながら淡々と説明を続ける。
「『ノイズ』は、人間の『情熱』や『執着』といった強い感情エネルギーを捕食する高次元生命体だ。奴らにとって、現代社会で最も純度が高く、カロリーの高い感情エネルギー源は何か分かるか?」
「情熱……執着……。あ」
私はハッとした。
「もしかして……オタク?」
「正解だ。特定の対象に人生を捧げ、無限の愛と金と時間を注ぎ込む君たちオタクの魂は、奴らにとって極上の三ツ星ディナーらしい」
なんという迷惑な話だ。私たちが必死に働いて推しに貢いでいるその熱量を、ただ飯食らいの化け物が狙っているなんて。
「だからこそ、我々『パンドラ』の適合者もまた、強力な感情エネルギーを持つ者――すなわち、その道のエキスパートであるオタクたちで構成されている」
一条が足を止めたのは、最奥にあるブリーフィングルームの前だった。
自動ドアが開く。
「入れ。君のこれからの『同僚』たちが待っている」
【混ぜるな危険、オタクの梁山泊】
部屋の中は、カオスだった。
壁一面のマルチモニターには、株価チャートのように変動する謎のグラフと、なぜか深夜アニメの録画リストが表示されている。
そして、円卓を囲むようにして、キャラの濃すぎる面々が鎮座していた。
「おー、来た来た! 噂の『雑食ちゃん』だね!」
最初に声を上げて駆け寄ってきたのは、鮮やかなオレンジ色の髪をツンツンに立てた少年だった。
派手なジャージの首元には、アイドルグループのマフラータオル。リュックには缶バッジが鱗のように装着されている。
「誰が雑食よ」
「一条さんから聞いたぜ? アニメもゲームもラノベも全部食うんだろ? 俺は橘陽翔。戦闘部門所属。俺の推しは、宇宙一可愛いアイドルグループ『ギャラクティック・ドリーム』の不動のセンター、星空きららちゃん一筋だ!!」
陽翔と名乗った少年は、バチーン!とウインクを決めた。
眩しい。物理的にではなく、自己肯定感の高さが眩しい。
「……どうも。天野杏奈です。一応、全ジャンル網羅型です」
「へぇー。いろいろ手を出すってことはさ、結局、誰か一人への『愛』が足りねーんじゃねえの?」
ピキッ。
私のこめかみに、青筋が浮かぶ音がした。
「……なんですって?」
「だーかーらー。推し活ってのはさ、たった一人の女神に全てを捧げるからこそ尊いわけよ。あっちもこっちもフラフラしてるのは、ただの浮気性。そんな半端な覚悟で、世界守れんの?」
陽翔はニシシと意地悪く笑った。
なるほど。これが世に言う「単推し過激派」対「箱推し・雑食勢」の宗教戦争か。
出会って五秒で開戦とは、いい度胸だ。
「あのね、陽翔くん。世界には多様な『萌え』が存在するの。それぞれの作品、それぞれのキャラに、違った尊さと救いがある。それを享受し、全てを愛することこそが、真の博愛だと思わない?」
「はぁ? なんだよアガペーって。オタクが神様気取りかよ」
バチバチと視線が交錯する。
その間に割って入ったのは、白衣を着た長身の女性だった。
「はいはい、ストップ。新規採用者の前でマウント合戦しないの。陽翔くん、君の『単推し信仰』も立派だけど、杏奈さんの『多神教』もまた一つの真理よ」
彼女は、手にしたタブレットを操作しながら、私に柔和な笑みを向けた。
目の下には濃いクマがあり、髪は無造作に束ねられているが、その瞳は理知的な光を放っている。
「初めまして、天野杏奈さん。私は九条栞。ここの研究開発部門のチーフよ。専門は『空想具現化物理学』……まあ、君たちの妄想を科学的に解析する係だと思って」
「妄想を、解析……?」
「ええ。君の『推し憑依』は、脳内のキャラクターデータを、君自身の生体エネルギーを触媒にして現実に上書き(オーバーライト)する現象だと推測しているわ。……素晴らしいわよ。君の脳内、解像度が異常だもの。4K画質どころか、8K、いや、現実に存在しないはずの『キャラクターの体臭』までデータ化してるでしょ?」
「っ……!? そ、それは……!」
図星を突かれて赤面する。
そう、私は推しの香水が出れば必ず買うし、出なければイメージフレグランスを調合するタイプのオタクだ。
「ふふ、恥ずかしがらなくていいわ。その『異常なまでの解像度』こそが、ノイズに対抗できる唯一の武器なんだから」
栞さんは笑い、部屋の隅を指さした。
「あとは……そこにいるのが、戦闘部門のエース。雨宮雫ちゃん」
指された先にいたのは、黒いゴシックロリータ服に身を包んだ、小柄な少女だった。
彼女は自分の背丈ほどもある巨大なケースに寄りかかり、無言で携帯ゲーム機を操作している。私たちが視線を向けても、顔を上げようともしない。
「……よろしく」
一言だけ、蚊の鳴くような声が聞こえた。
人見知りか。あるいは、今はゲームの周回中で忙しいのかもしれない。オタクとしてはその気持ち、痛いほど分かる。
「そして、このチームの指揮を執るのが、そこの筋肉ダルマ……じゃなくて、橘鉄男隊長だ」
栞さんが紹介したのは、迷彩服を着た巨漢だった。丸太のような腕には、無数の傷跡が刻まれている。陽翔くんと同じ苗字だが、兄弟だろうか?
「おう、よろしくな新入り! 陽翔の兄貴の鉄男だ。俺の推しは『サバイバル・コマンドー』の鬼軍曹だ! 戦場は遊び場じゃねえが、推しへの愛があれば弾丸も弾ける! 気合い入れてけよ!」
豪快に笑いながら私の背中を叩く。
痛い。筋肉痛の背中に、物理攻撃がクリティカルヒットした。
どうやらこの組織、まともな人間は一条さんしかいないらしい。いや、その一条さんも、こんな面々を束ねている時点で相当な変人かもしれない。
「紹介は以上だ」
一条が冷淡に区切り、部屋の照明を落とした。
モニターに映し出されたのは、一つのカプセルの映像だった。
そこには、無数のチューブに繋がれ、眠り続ける美咲の姿があった。
「美咲……っ!」
思わず駆け寄ろうとするが、画面の中だ。届かない。
「彼女は今、パンドラの集中治療室にいる。生命活動は安定しているが、脳波はフラットに近い。魂の抜け殻状態だ」
栞さんが、淡々と、しかし重い事実を告げる。
「原因となったノイズは君が撃退したが、奪われた『感情エネルギー』は、まだ戻っていない。彼女を目覚めさせるには、より強力な『ハイ・ノイズ』と呼ばれる上位個体を倒し、奴らが溜め込んでいるエネルギーコアを回収する必要があるわ」
「ハイ・ノイズ……」
「そうだ。そして、奴らは近日中に、再び大規模な捕食活動を行うと予測されている」
一条が私の前に立ち、真剣な眼差しを向けた。
「天野杏奈。君には才能があるが、今のままでは使い物にならない。先ほどの陽翔との口論でも分かっただろうが、君の力は不安定だ」
「不安定?」
「君は『雑食』だ。状況に応じて様々な推しを憑依させられる汎用性は武器だが、それは同時に、一つのスキルに対する熟練度が浅くなるリスクも孕んでいる。器用貧乏で終わるか、万能の切り札になるか。それは、君の訓練次第だ」
陽翔くんが、鼻で笑ったのが聞こえた。
悔しいけれど、反論できない。
さっきの筋肉痛もそうだ。私はまだ、推しの力を借りるための「器」ができていない。
私は、モニターの中の美咲を見上げた。
彼女を取り戻す。
そのためなら、単推し派からの煽りも、地獄の筋肉痛も、全部耐えてやる。
「やります。訓練でも何でも」
私は一条を睨み返した。
「美咲が目を覚ました時、『助けてくれてありがとう』って言われるんじゃなくて、『また変なことに首突っ込んでたの?』って呆れられるくらい、日常に戻してやるんです。それが、私のエゴ(愛)なんで」
「……ふん。口だけは達者だな」
一条の口元が、わずかに緩んだ気がした。
「よし。では早速、基礎訓練を開始する。栞、シミュレーターの準備を」
「了解。杏奈さんのデータに合わせて、特別メニュー『推しカプ破局の危機』コースを用意しておくわね」
「ネーミングが最悪なんですけど!?」
「おい雑食! 足引っ張んなよ! 俺のきららちゃんステージの邪魔したら承知しねえからな!」
「陽翔くんこそ! アイドルの推しなら、ファン(仲間)への神対応を見習いなさいよ!」
こうして、パンドラでの私の初日が始まった。
世界を救う前に、まずは筋肉痛と、この個性強すぎる仲間たちとの戦いが、幕を開けたのだった。
【推しの解釈、あるいは現実との乖離】
パンドラ本部地下三階、第8訓練場。
そこは、最新鋭のVR技術によってあらゆる環境を再現できる、広大な空間だった。
「――起動。仮想敵、三体出現」
無機質なアナウンスと共に、空間に灰色のノイズが実体化する。
池袋で見たものよりは小さいが、その不快な羽音は健在だ。
「まずは君の適性を見る。好きな能力を使ってみろ」
管制室からの一条の声。
隣には、すでに臨戦態勢に入っている陽翔くんがいる。
「へっ、見てな雑食! これが『単推し』の純度ってやつだ! スキル発動! 『センター・オブ・ワールド』!」
陽翔くんが叫ぶと同時に、彼の全身から眩いばかりの金色のオーラが噴き出した。
それはまるで、ドーム公演のスポットライトそのもの。
「うおっ、まぶし!?」
「ハハハ! 俺がきららちゃんを想う輝きは、全ての視線を集める! ノイズども、俺を見ろ! 俺だけを見ろォ!」
陽翔くんの能力は、敵のヘイト(敵対心)を一心に集める「タンク(盾役)」としてのスキルのようだ。
ノイズたちが、蛾が灯火に群がるように陽翔くんへと殺到する。
「すげぇ……あんなにウザいのに、戦術的には理にかなってる……」
「何感心してんだ! 今だ、攻撃しろ!」
「は、はいっ!」
私は慌てて意識を集中する。
どのキャラで行く?
剣士ゼノ様は、今の筋肉痛ボディじゃ無理だ。もっと、体に負担が少なくて、遠距離から攻撃できるキャラ……。
「よし、ここは……大人気スポーツアニメ『ブルー・スプリンター』の天才司令塔、御影くんの精密パス能力で!」
私はイメージする。
コート全体を俯瞰し、針の穴を通すようなパスを繰り出す、クールな眼鏡男子・御影くん。彼の計算能力と、ボールコントロール技術をインストール!
「『アブソリュート・パス』!!」
私は落ちていた瓦礫の破片を拾い上げ、ノイズのコアめがけて全力で投擲した。
脳内では、完璧な放物線が描かれている。
御影くんの指先の感覚、風の読み、すべてが完璧に再現されているはず――
ビュッ!
投げられた石は、鋭い音を立てて飛んでいき――
明後日の方向にある、陽翔くんの後頭部に直撃した。
「ぐあっ!?」
「え?」
「いってぇぇぇ!! おい雑食! 何してんだテメェ! 背中から撃つ奴があるか!」
「う、嘘!? 脳内シミュレーションでは完璧だったのに!」
管制室から、栞さんの呆れた声が響く。
『あー……杏奈さん。君、もしかしてそのキャラのこと、「顔がいいから好き」程度の知識で憑依させてない?』
「うっ……! 正直、アニメは倍速視聴で、主に二次創作のイラストでハマりました……」
『それが原因ね。推し憑依の精度は、対象への「理解度」と「解釈の深さ」に比例するの。表面的なデータだけじゃ、現実の物理法則との誤差が生じて、暴発するわよ』
「解釈の深さ……だと……!?」
なんてことだ。
私の「にわか知識」が、そのままスキルの不発に繋がるなんて。
推し活の浅さが、物理的な死に直結する。それがこの能力の恐ろしさか。
「くるぞ、反撃だ!」
陽翔くんが体勢を立て直す間もなく、ノイズたちが一斉に襲いかかる。
私はパニックになりながら、必死に「深く知っている」キャラを探した。
誰だ? 私が一番、魂レベルで理解しているのは?
骨の髄まで愛し、その呼吸すら想像できるのは?
脳裏に浮かんだのは、結局、彼だった。
隻腕の剣聖、ゼノ。
やっぱり、私には彼しかいない。
「でも、体が……!」
筋肉痛が悲鳴を上げる。
だが、迷っている暇はない。ノイズの爪が、陽翔くんに迫っている。
「ええい、ままよ! もう一回、ゼノ様……お願い!」
ドクンッ!
再び、あの熱が走る。
だが今回は、前回の比じゃなかった。
すでに限界を迎えていた筋肉に、無理やり高出力を流し込む激痛。血管が焼き切れるような感覚。
「ぐ、ぅぅぅ……! 『円月殺法・霞』ッ!!」
私は激痛をねじ伏せ、光の剣を真横に薙ぎ払った。
青い閃光が走り、三体のノイズをまとめて消し飛ばす。
「はぁ、はぁ……やっ、た……?」
勝利の確信と同時に、私の意識はプツンと途切れた。
地面が迫ってくる。
最後に見たのは、目を見開いてこちらを見る陽翔くんと、駆け寄ってくる雫ちゃんの姿だった。
(あ、これ、明日は筋肉痛どころじゃ……済まないな……)
薄れゆく意識の中で、私は美咲の笑顔を思い浮かべた。
待ってて、美咲。
私、もっと強くなるから。
もっと深く、もっと濃く、推しを愛してみせるから。
だから、今はちょっとだけ……休憩させて……。
私のパンドラでの初陣は、こうして「気絶」という情けないオチで幕を閉じたのだった。
(第二話 完)




