第十一話∶堕ちたアイドル、砕けたサイリウム
【光を失った太陽】
パンドラ本部の休憩スペース。
いつもならゲームの電子音やアニメの感想戦で賑わうその場所は、通夜のように静まり返っていた。
テーブルには、真っ二つに折られたオレンジ色のサイリウムが転がっている。
その横で、橘陽翔は、フードを深く被り、膝を抱えて座り込んでいた。
「……陽翔くん」
私が声をかけても、彼はピクリとも動かない。
その背中からは、いつも彼から溢れ出ている「根拠のない自信」や「ウザいくらいのポジティブさ」が完全に消え失せていた。
『アイドルグループ「ギャラクティック・ドリーム」の星空きらら、活動休止』
ニュースの見出しが、脳裏をよぎる。
推しの活動休止。それはファンにとって、ある日突然、空から太陽が消えるのに等しい。
しかも、その原因が悪意ある誹謗中傷――マエストロ配下の「炎上請負人」や、ネットの闇が生み出したノイズによるものだとしたら。
陽翔の心が壊れるのも無理はなかった。
「……俺は、何を守ってたんだ」
掠れた声が、フードの下から漏れた。
「世界を救う? ヒーロー気取りで? ……一番大事な推し一人、守れなかったくせに」
「……陽翔」
「ほっといてくれよ、雑食。……今の俺には、光なんてねえよ」
彼は、折れたサイリウムをゴミ箱に投げ捨てようとした。
その時、施設内に警報が鳴り響いた。
『――特異点反応、確認。場所は、湾岸エリアの大型ライブハウス「ゼップ・オーシャン」』
栞さんの緊迫した声がインカムに飛び込んでくる。
『反応パターンは……陽翔くん、落ち着いて聞いて。そこにいるのは、ノイズに取り憑かれた「星空きらら」本人よ』
「なっ……!?」
陽翔が弾かれたように顔を上げた。
その瞳は充血し、絶望と、縋るような希望がないまぜになっていた。
「きららちゃんが……そこにいるのか!?」
『ええ。でも、彼女はもう……あなたの知っているアイドルではないかもしれない。マエストロは彼女の「絶望」を核にして、強力なノイズ要塞を構築しているわ』
「行くぞ、陽翔」
いつの間にか、装備を整えた鉄男さんが立っていた。
さらに、雫ちゃんも無言でハンマーケースを背負っている。
「兄貴……。でも、俺……」
「推しが呼んでるんだろ。ファンサ(救済)しに行ってやるのが、オタクの礼儀ってもんじゃないのか」
鉄男さんの不器用な檄に、陽翔は唇を噛み締め、震える手で膝を叩いた。
「……あぁ。行ってやるよ。……文句の一つも言ってやらねーとな」
彼は立ち上がったが、その足取りは重かった。
「センター・オブ・ワールド」の輝きは、まだ戻っていない。
【絶望のアンコール】
ライブハウス「ゼップ・オーシャン」。
本来なら数千人のファンで埋め尽くされ、熱狂の渦となるはずの聖地。
しかし今、そこは冷凍庫のような冷気に包まれていた。
客席には誰もいない。
ただ、無数の「浮遊するアンチコメント」が、亡霊のように漂っているだけだ。
『消えろ』『ブス』『枕営業』『歌下手』。
そんな呪詛の言葉が、ステージに向かって降り注いでいる。
そして、ステージの中央。
スポットライトの下に、彼女はいた。
「……きらら、ちゃん……?」
陽翔が、呻くように名を呼ぶ。
星空きらら。国民的アイドルグループのセンター。
いつも太陽のような笑顔でファンを照らしていた彼女。
だが、今の彼女は違った。
衣装は黒く染まり、ボロボロに引き裂かれている。
トレードマークのツインテールは解け、幽鬼のように揺れている。
そして何より、その瞳。
ハイライトの一切ない、底なしの暗闇。
『……うるさい』
マイクを通さずとも、脳内に直接響く声。
それは、ガラスを爪で引っ掻いたような不快な音だった。
『誰も……私を見ないで。汚い声で名前を呼ばないで』
彼女の背後から、巨大な影が立ち昇る。
それは、彼女自身の影であり、彼女を蝕むノイズの正体――『ファントム・アイドル』。
骸骨のような顔をした、巨大な偶像。
「きららちゃん! 俺だ! 陽翔だ! いつも最前列にいた……!」
陽翔が叫びながらステージへ駆け寄ろうとする。
しかし。
『……ファン? ……ああ、一番嫌いな人種だ』
きらら(ファントム)が、冷たく言い放った。
『勝手に期待して、勝手に理想を押し付けて、少しでも思い通りにならなければ叩く。……あなたたちは、愛なんて語らないで。あなたたちが求めているのは、自分の都合の良い「お人形」でしょう?』
「っ……!?」
陽翔が、見えない壁にぶつかったように立ち止まる。
彼女の言葉は、鋭利な刃物となって陽翔の心を貫いた。
『お金を払えば何でも言えると思ってる。私の笑顔も、涙も、全部消費して……。もう疲れたの。……全員、消えて』
ファントム・アイドルが口を開く。
放たれたのは、歌声ではない。
超高周波の絶望の叫び(スクリーム)。
「ぐああああああ!!」
衝撃波が客席を薙ぎ払う。
鉄男さんがとっさに前に出て盾になるが、物理的な衝撃ではないため防ぎきれない。
雫ちゃんも耳を塞いでうずくまる。
「陽翔! しっかりしろ! スキルで相殺するんだ!」
私は叫んだ。
音には音を。歌には歌を。
陽翔の歌声なら、この絶望を打ち消せるはずだ。
「……無理だ」
陽翔は、膝をついたまま動かない。
「……彼女の言う通りだ。俺は……俺たちは、彼女を追い詰めた加害者の一人なんだ……。俺の声なんて……彼女を傷つけるだけだ……」
彼の心が、完全に折れていた。
推しからの拒絶。
それは、オタクにとっての死刑宣告に等しい。
「……だったら!」
私は歯を食いしばり、前に出た。
陽翔が戦えないなら、私がやるしかない。
私の中には、まだ前回の戦いで得た「黒い炎」が燻っている。
毒を以て毒を制す。彼女の絶望を、私の闇で飲み込む!
スキル発動。
『深淵の劫火』!
私の手から黒い炎が放たれる。
それはファントム・アイドルに向かって一直線に飛んだ。
しかし。
『……ああ、あなたも同じね。ドロドロした欲望の塊』
きららが手をかざすと、私の黒い炎は、彼女の影に吸い込まれるようにして消滅した。
いや、吸収された。
『もっと……もっと憎しみをちょうだい。それが私の歌になる』
ファントム・アイドルが肥大化する。
逆効果だ。
私の力は「負の感情」を燃料にする。
だから、絶望している彼女とは「共鳴」してしまう。闇で闇を払うことはできない!
「くっ……! どうすれば……!」
弾き飛ばされ、床に転がる私。
圧倒的な絶望の前に、私たちは全滅寸前だった。
【最前列の景色】
「……立てよ、陽翔」
私は、痛む体を引きずって、陽翔の胸ぐらを掴んだ。
「お前は、何のためにそこにいるのよ」
「……やめろ、雑食。俺にはもう、資格なんて……」
「資格? ふざけんじゃないわよ!」
パチン!
私は、陽翔の頬を張った。
乾いた音が、静まり返ったライブハウスに響く。
「彼女を見なさいよ! アイドル辞めたいなら、さっさと引退会見すればいい! なのに、なんであんな姿になってまで、ステージに立ってるのよ!」
「え……?」
「彼女は今、歌ってるの! 歌詞は呪詛かもしれない、姿は化け物かもしれない! でも、彼女はまだ『表現』することを諦めてない! 助けを求めて叫んでるのよ!」
私は陽翔の顔を無理やり上げさせ、ステージを指差した。
闇に染まったきらら。
でも、その瞳の奥、デッド・アイのさらに奥で、小さな光が揺れているのを、私の「解析眼」は見逃していなかった。
「お前は言ったわよね。『俺がいる限り、そこは俺のステージだ』って! だったら、推しがどんなに闇落ちしようが、化け物になろうが、お前だけは最前列でペンライト振らなきゃいけないんじゃないの!?」
「……っ!」
「推し変(ファン辞める)すんの? 今、ここで?」
「……するわけ、ねえだろ!!」
陽翔の瞳に、色が戻った。
彼は私の手を振りほどき、立ち上がった。
ふらつく足取り。でも、その目はもう逸らしていない。
「……あぁ、そうだ。俺は単推しだ。きららちゃんが地獄の底で歌うってんなら、俺は地獄の底でコールを入れるまでだ!」
彼は、ポケットから新しいサイリウムを取り出した。
一本じゃない。
二本、四本、八本。
指の間に挟める限界まで持ち、扇状に広げる。
その色は、すべてきららのイメージカラー、オレンジ。
「……きららちゃぁぁぁぁん!!!」
陽翔が叫んだ。
スキル発動。
今回は「タンク(盾)」としてのスキルじゃない。
彼がまだ一度も使ったことのない、純粋な「応援」のスキル。
『限界突破・推し愛(リミットブレイク・アンコンディショナル・ラブ)』!
バキバキバキッ!
彼の手の中で、八本のサイリウムが一斉に折られ、発光した。
その光は、尋常ではなかった。
ライブハウスの闇を切り裂く、灼熱の太陽のようなオレンジの輝き。
『……っ!? 眩しい……!』
きららが顔を覆う。
「聞けぇぇぇ! これが俺の! ファン全員の! アンサーソングだァァァ!!」
陽翔が踊り出した。
それは、洗練されたダンスではない。
なりふり構わぬ、魂の求愛行動。
オタ芸――『ロマンス』!
彼が腕を振るたびに、オレンジ色の光の粒子が嵐となって吹き荒れる。
その光には、一切の「見返りを求める心」がなかった。
「こっちを見てほしい」「認知してほしい」そんな欲望すらない。
ただ、「あなたがそこにいてくれるだけで尊い」という、純度100%の感謝と祝福。
光の嵐が、ファントム・アイドルの影を削り取っていく。
アンチコメントの亡霊たちが、陽翔の光に触れて浄化されていく。
『いや……来ないで……。私は、汚れて……』
「汚れてねえ! お前はいつだって、俺たちの光だ!」
陽翔は、光の波に乗り、ステージへと飛び込んだ。
衝撃波を身一つで受け止め、傷だらけになりながら、きららの元へ。
「きららちゃん!」
彼は、武器を振るうのではなく、ただ大きく両手を広げた。
「お帰り!!!」
その叫びと共に、陽翔の光が爆発した。
会場全体が、温かいオレンジ色に染め上げられる。
【活動休止、そして】
光が収まると、そこには静寂があった。
ステージの上。
ファントム・アイドルの影は消え去り、元の姿に戻ったきららが、陽翔の腕の中で気を失っていた。
「……へへっ。……推しに触っちまった。……出禁かな、こりゃ」
陽翔は、力の抜けた声で笑うと、そのままきららを抱えたまま、ゆっくりと床に倒れ込んだ。
彼のサイリウムは、光を失い、白く燃え尽きていた。
「……陽翔!」
私たちはステージへ駆け上がった。
二人とも、息はある。ただ、極度の消耗で眠っているだけだ。
「……よくやったな、バカ弟」
鉄男さんが、陽翔を担ぎ上げる。その表情は、いつになく誇らしげだった。
私たちは、きららをパンドラの医療班に引き渡した。
彼女の体からノイズは完全に除去された。
だが、心の傷は深い。彼女が再びステージに立つまでには、長い時間が必要だろう。
後日。
パンドラの医務室で、陽翔は全身筋肉痛でミイラのように包帯を巻かれていた。
「……で、きららちゃんは?」
「無事よ。事務所が正式に『長期療養』を発表したわ。……マスコミには『喉のポリープ』ってことになってるけど」
私がリンゴを剥きながら答えると、陽翔は安堵の息を吐いた。
「そっか。……よかった」
「二度と会えないかもしれないのよ? それでいいの?」
「いいさ。生きててくれれば、それで。……俺は、いつまでも待機列で待ってるだけだからな」
陽翔は窓の外を見上げた。その横顔は、以前よりも少しだけ大人びて見えた。
「単推し」の愛は、伊達じゃなかった。
見返りを求めない愛が、最強の呪い(ノイズ)を解いたのだ。
だが、ハッピーエンドで終わらせてはくれないのが、今の状況だ。
ブリーフィングルームに戻った私を、栞さんが待っていた。
彼女の顔色は、これまでになく深刻だった。
「杏奈さん。陽翔くんの活躍で、今回の特異点は消滅したわ。……でも、代償は大きかった」
「代償?」
「これを見て」
モニターに表示されたのは、世界地図。
その各地で、赤い警告灯が点灯していた。
「マエストロは、今回の『アイドルの闇堕ち』実験で、確信を得たようね。『クリエイターや表現者自身の絶望』こそが、最も効率よくエネルギーを回収できる手段だと」
栞さんが地図を拡大する。
「世界中の著名なアーティスト、作家、開発者たちが、次々と原因不明の『スランプ』や『活動休止』に追い込まれているわ。……そして、東京では」
地図の中心、パンドラ本部の周辺に、無数の赤い点が表示された。
「包囲網よ。マエストロは、私たちパンドラを『邪魔なバグ』として認識し、総攻撃を仕掛けてくるつもりだわ」
背筋が凍る。
一条さんはまだ動けない。陽翔もボロボロだ。
戦力は半減しているのに、敵は本気で潰しにかかってきている。
「……それと、もう一つ」
栞さんが、言いづらそうに口を開いた。
「美咲さんの数値が……急落したわ。あと数日……いえ、数時間持つかどうか」
「っ……!」
頭の中が真っ白になる。
連戦の勝利なんて、吹き飛ぶほどの絶望。
タイムリミットは、もう目の前まで来ていた。
「……行きます」
私は立ち上がった。
「どこへ?」
「敵の本拠地です。向こうが来ないなら、こっちから乗り込むしかない。元凶を叩けば、美咲も、みんなも助かるはずです!」
「無茶よ! 場所も特定できていないのに!」
「特定なら、できます」
私は、ポケットから一枚の紙を取り出した。
それは、前回戦った「批評家」黒岩が落としていった、タブレットの破片から解析したデータだ。
雫ちゃんが徹夜でデコードしてくれた、たった一つの座標。
「『未完成の塔』。……マエストロがいる場所です」
栞さんは息を呑み、そして覚悟を決めたように頷いた。
「……わかったわ。全職員に告ぐ! パンドラはこれより、最終作戦『リライト・ザ・ワールド』を発動する! 総員、戦闘配置!」
サイレンが鳴り響く。
日常を守るための、非日常の最終決戦。
もう、誰も失いたくない。
借り物の力でも、偽物でもいい。
私の全てを賭けて、この物語のハッピーエンドを掴み取る。
(第十一話 完)




