第十話∶炎上(バーニング)・グラフィティ
【不在の証明】
集中治療室のモニターが刻む、規則正しい電子音だけが、重苦しい沈黙を埋めていた。
ガラスの向こうには、全身を包帯と生命維持装置のチューブに巻かれた一条蓮が横たわっている。
その姿は、いつもの完璧で冷徹な「氷の執行官」からは程遠い、ただの傷ついた青年だった。
「……情けねえな、俺たち」
橘陽翔が、壁に拳を押し当てて呟く。
彼のトレードマークであるオレンジ色の髪も、今日はどこか色あせて見えた。
「指揮官一人守れねえで、何がパンドラだ。何が世界を救うだ……」
「……自分を責めないで、陽翔くん」
雨宮雫が、ぽつりと慰める。だが、彼女自身も愛用のハンマーケースを抱きしめる腕に力が入っていた。
あの日、廃映画館で私たちは敗北した。
「批評家」黒岩の論理的攻撃の前に、私たちの「好き」という感情は無力だった。
そして、その刃を身を挺して受け止めたのが、感情を持たない一条さんだった。
(私が……もっと早く動いていれば)
悔しさが込み上げる。
私は自分の掌を見つめた。
『借り物の力』。黒岩の言葉が呪いのように頭にこびりついている。
誰かの作品、誰かのキャラクター、誰かの物語。
それをコピーして貼り付けているだけの私に、本当の強さなんてあるんだろうか?
「……立ち止まっている時間はないわ」
研究開発室長、九条栞が病室に入ってきた。
彼女の顔色は悪い。徹夜で対策を練っていたのだろう。
「マエストロ陣営の動きが活性化している。……一条さんが倒れたことで、彼らは『パンドラの守りは崩れた』と判断したようね」
「次の手は何ですか?」
「これを見て」
栞さんがタブレット端末を差し出す。
映し出されていたのは、若者の流行発信地、原宿の裏通り。通称「裏原」。
その壁面という壁面に、真っ赤なスプレーで、毒々しい文字が書き殴られていた。
『パンドラは無能』
『オタクきもい』
『世界なんて滅べばいい』
『お前らの好きはゴミだ』
ただの落書きではない。
その文字は、メラメラと赤黒い炎を上げて燃えていた。
物理的な火ではない。見る者の心を焦がし、精神を蝕む「悪意の炎」。
「……『炎上』現象よ」
栞さんが告げる。
「ネット上の誹謗中傷、怨嗟、妬み。そういった『負の感情エネルギー』を物理的に具現化し、街を焼き尽くす。……今回の敵は、これまでで一番、タチが悪いわよ」
私たちは顔を見合わせた。
一条さんはいない。
私たちの「好き」を否定された傷も癒えていない。
それでも、行かなきゃいけない。
それが、彼が命懸けで守ってくれた私たちの「責任」だから。
「……行こう。これ以上、あいつらに好き勝手書かせるわけにはいかない」
橘鉄男隊長が、ライフルを手に立ち上がった。
その背中は、いつもの頼もしさを取り戻そうと必死に見えた。
【拡散する悪意】
原宿の裏通りは、酷い有様だった。
お洒落な古着屋も、人気のカフェも、すべて真っ赤な落書きで埋め尽くされている。
文字から発せられる熱気で、アスファルトが溶け出していた。
「熱っ……! なんだよこれ、本物の火より熱いぞ!」
陽翔が顔をしかめる。
プロテクトスーツの耐熱機能が警告音を鳴らしている。
これは物理的な熱量に加え、精神的な不快指数が限界突破している証拠だ。
「……見て。あそこ」
雫ちゃんが指差す先、燃え盛る壁の前に、一人の男が立っていた。
パーカーのフードを目深に被り、顔にはスマートフォンの画面のようなデジタルマスクをつけている。
マスクには、『w』という文字が点滅していた。
「ヒャハッ! 来た来た、正義の味方(笑)ご一行様!」
男の声は、ボイスチェンジャーを通したような不快な電子音だった。
彼はスプレー缶を振り回し、虚空に文字を書く。
『雑魚乙』。
その文字が実体化し、火の玉となって私たちに飛んでくる。
「回避ッ!」
鉄男さんの指示で散開する。
火の玉が地面に着弾し、爆発する。
燃え上がった炎の中から、無数の罵倒の声が聞こえてくるようだった。
「初めましてぇ! 俺様は『炎上請負人』! マエストロ様から、お前らのメンタルを灰にする仕事を請け負った者だぁ!」
「炎上請負人……!」
「そうさぁ! 人間ってのは面白いよなぁ! 『好き』って感情よりも、『嫌い』って感情の方が、何倍も燃え上がりやすいんだぜぇ!?」
彼が指を鳴らすと、周囲の壁の落書きが一斉に輝き出した。
『パンドラ解散しろ』『偽善者』『税金の無駄』。
それらの言葉が、粘着質な黒いタールのような炎となり、私たちを取り囲む。
「くそっ、消火だ! 雫、衝撃波で吹き飛ばせ!」
「……ん!」
雫ちゃんがハンマーを振るう。
『マレウス・サイレンティア』の風圧が炎を襲う。
しかし。
ボウッ!
風を送られた炎は、消えるどころか、さらに勢いを増して燃え上がった。
「なっ……!?」
「無駄無駄ァ! 『炎上』はなぁ、構えば構うほど燃え広がるんだよ! 反論も、弁解も、攻撃も、すべてが燃料だぁ!」
炎上請負人が嘲笑う。
そうか。ネットの炎上と同じだ。
無視すれば延焼する。反撃すれば燃料投下になる。
どうすればいい?
「なら、物理で叩く!」
鉄男さんがアサルトライフルを乱射する。
今度は「萌えスキン」ではない、ガチの徹甲弾だ。
しかし、弾丸は男の体に当たる直前で、無数の『批判コメント』の障壁に阻まれて消滅した。
「効かねえよォ! 俺様は『匿名』! 実体のない悪意の集合体! お前らの攻撃なんて、画面の向こうには届かねえんだよォ!」
男がスプレー缶を掲げる。
『拡散希望』。
その文字が空に浮かぶと、周囲の炎が分裂し、倍々ゲームで増殖を始めた。
原宿の一角が、紅蓮の地獄に変わる。
「うわぁぁぁぁ! 熱い! 痛い!」
陽翔が悲鳴を上げる。
炎が彼のスーツに引火した。
「お前の歌は騒音だ」という文字が、呪いのように彼に張り付き、焼いている。
「陽翔!」
私は駆け寄ろうとしたが、炎の壁に阻まれる。
「お前も偽物だ」「パクリ野郎」「個性がない」。
私に向けられた罵倒の言葉が、炎となって迫ってくる。
怖い。
熱い。
昨日の黒岩の言葉が蘇る。
『君自身の言葉はどこにある?』
私は、何も言い返せない。
炎上請負人の言う通りだ。私は偽物かもしれない。
だから、この炎は私を焼く。
(……いや)
ふと、一条さんの顔が浮かんだ。
彼は、「無」だった。
だからこそ、どんな悪意も彼を傷つけることはできなかった。
でも、私は違う。
私は「有」だ。
私の中には、たくさんの「好き」が詰まっている。
そして、それと同じくらい、たくさんの「悔しさ」や「コンプレックス」も詰まっている。
「……燃料、か」
炎上請負人は言った。反撃は燃料になると。
なら。
この「悪意」そのものを、私の燃料にすることはできないか?
クリエイターたちは、時として「アンチ」の声をバネにして、傑作を生み出すことがある。
負の感情を、創作のエネルギーに変換する。
昇華。
それは、きれいごとじゃない。
泥水を啜ってでも生き残る、執念の力。
「……やってやる」
私は立ち上がった。
ブレスレットのセーフティを解除する。
栞さんからは「精神汚染の危険があるから絶対に使わないで」と言われていた、開発中の試験機能。
「杏奈!? 何をする気だ!」
鉄男さんが叫ぶ。
「毒を食らわば皿までです、隊長! この炎、私が全部頂きます!」
【禁断の捕食】
私は、炎の中に手を突っ込んだ。
ジュッ、とスーツが焦げる音がする。
熱い。魂が焼かれるような痛み。
「ギャハハ! 自殺志願かぁ!? 燃えカスになっちまえ!」
炎上請負人が煽る。
私は、歯を食いしばって、その炎の核となっている「罵倒の文字」を鷲掴みにした。
(痛い。辛い。悲しい。ムカつく。……でも!)
私は、その文字を握り潰した。
そして、イメージする。
この世界にあるすべての作品は、賞賛だけでできているわけじゃない。
批判も、悪意も、嫉妬も、すべてを飲み込んで、それでも輝き続ける「強さ」を持ったキャラクターたちを。
「ダークヒーロー。復讐者。アンチヒーロー。……清廉潔白な正義だけが、世界を救うわけじゃない!」
私は、自分の魂の形を、あえて「歪める」。
綺麗なだけの推し活じゃない。
ドロドロした感情も、全部私の一部だ。
スキル発動。
『禁断変身』!
憑依対象――『すべての悪役たち』!
「う、うおおおおおおっ!!」
私の体から、赤黒いオーラが噴き出した。
それは、周囲の「炎上」の炎を巻き込み、渦となって私に吸収されていく。
「な、なんだ!? 俺様の炎が、吸われている!?」
炎上請負人が狼狽える。
私は顔を上げた。
視界が赤い。全身に力が満ち溢れている。でも、心臓が早鐘を打って、破壊衝動が抑えきれない。
「……美味しくないわね、あんたの炎」
口から出た言葉は、いつもの私よりもずっと低く、ドスの効いた声だった。
「味が薄いのよ。ただの悪口? 暇つぶしの叩き? ……そんな軽い『ヘイト』で、私の『愛』を燃やせると思った?」
私は一歩踏み出した。
地面のアスファルトが、私の足元から黒く変色していく。
「あ、悪魔か、テメェ……!」
「いいえ。私はただのオタクよ。……でもね、オタクってのは、時には公式(神)にすら牙を剥く、面倒くさい生き物なのよ!」
私は右手を突き出した。
吸収した炎上のエネルギーを、掌で圧縮する。
悪意には、より重い「執念」をぶつける。
オリジナル・スキル(仮)。
『深淵の劫火』!
ドォォォォォン!!!
私の手から放たれたのは、漆黒の極太ビームだった。
それは炎上請負人の放つ赤い炎を一方的に飲み込み、彼が展開していた「匿名性のバリア」ごと、彼を吹き飛ばした。
「ぎゃあああああああ!? なんでだァァ! 俺は匿名だぞォォ!?」
「匿名だろうが関係ない! その腐った根性ごと、特定して焼き尽くす!」
黒い炎が、原宿の空を焦がす。
炎上請負人は、断末魔と共にデジタルの塵となって消滅した。
周囲の落書きも、私の炎に上書きされ、消え去っていく。
敵は消えた。
勝った。
……はずだった。
「……あ、ぐ、ぅ……!」
勝利の瞬間に、強烈な吐き気が私を襲った。
視界がぐらぐらと揺れる。
力が抜ける。それなのに、体の中の「黒い炎」が暴れまわって、止まらない。
(だめ……制御できない……!)
吸収した悪意が、私の理性を侵食していく。
「壊せ」「もっと暴れろ」「お前もあいつらと同じだ」。
脳内に響く声。
「ウガァァァァッ!!」
私は理性を失いかけ、周囲の建物に向かって拳を振り上げた。
敵がいなくなった今、破壊衝動の矛先は、守るべき街へと向いていた。
「杏奈! 落ち着け!」
「やめろ、雑食!」
鉄男さんと陽翔が私を押さえつけようとする。
でも、今の私の馬鹿力には敵わない。二人まとめて吹き飛ばしてしまう。
「……杏奈」
その時。
冷たい感触が、私の火照った頬に触れた。
雫ちゃんだった。
彼女は、私の暴走するエネルギーの只中に、平然と歩み寄ってきた。
そして、保冷剤のように冷たい両手で、私の顔を挟み込んだ。
「……戻ってこい。……ここは、現実」
彼女の瞳は、静かな湖のように澄んでいた。
その静寂が、私の中の嵐を少しだけ鎮める。
「……雫、ちゃん……?」
「……ん。……よく、食べた。……偉い」
彼女は、まるで暴れる猫をあやすように、私の頭を撫でた。
その不器用な優しさに触れた瞬間、私の中の黒い炎が、シュウウ……と音を立てて鎮火していった。
力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。
【消えない煤】
意識を取り戻したのは、パンドラ本部の医務室だった。
隣のベッドには、まだ目を覚まさない一条さんがいる。
「……気がついた?」
栞さんが、心配そうな顔で覗き込んでいた。
「私……暴走して……」
「ええ。間一髪だったわ。雫ちゃんの『精神鎮静』がなければ、あなたは『ノイズ』そのものに変質していたかもしれない」
栞さんの言葉に、ぞっとした。
あの力。
確かに強かった。批評家にも通用するかもしれない。
でも、あれは「毒」だ。使い続ければ、私は私でいられなくなる。
「杏奈さん。あなたは『オリジナルの力』を求めて、禁断の扉を開けた。……でも、それは『闇堕ち』と紙一重よ」
「はい……わかってます。でも、あいつらに勝つには……」
「焦らないで。力には、必ず『対価』がある。あなたが払うべき対価が何なのか、もう一度よく考えて」
栞さんはそう言って、部屋を出て行った。
私は、天井を見上げた。
右手には、まだ微かに焦げたような感覚が残っている。
これが、私の求めた力なのか?
誰かを傷つけ、自分も傷つく、諸刃の剣。
ふと、隣のベッドを見る。
一条さんは、まだ深い眠りの中にいる。
彼の寝顔は、不思議なほど穏やかだった。
「……一条さん。私、間違っちゃったのかな」
答えは返ってこない。
でも、彼ならきっとこう言うだろう。
『効率的ではないが、結果は出した』と。
私は拳を握りしめた。
闇の力でも、毒でもいい。
美咲を救えるなら、私は悪魔にだってなってやる。
そう決意した矢先。
病室のモニターに、緊急ニュース速報が流れた。
『――臨時ニュースです。本日未明、人気アイドルグループ「ギャラクティック・ドリーム」のメインボーカル・星空きららさんが、活動休止を発表しました』
「え……?」
耳を疑った。
きららちゃん? 陽翔の推しの?
『理由は「精神的な不調」とのことですが、一部では、ネット上の深刻な誹謗中傷が原因ではないかと噂されており……』
画面には、うつむいて顔を隠すきららちゃんの写真。
そして、その背後には、見覚えのある「灰色の影」が映り込んでいた。
「嘘……あそこにも、ノイズが?」
病室のドアが乱暴に開かれた。
陽翔だった。
彼は、蒼白な顔でスマホを握りしめていた。
「おい、雑食……! 見たかよ、今の……!」
「陽翔……」
「きららちゃんが……俺の光が……消える……?」
彼の目から、光が失われかけていた。
それは、サイレント・フェードの初期症状。
心の支えを失ったオタクは、脆い。
マエストロの魔手は、私たちパンドラのメンバーの「推し」そのものを、直接狙い始めたのだ。
「……許さない」
私の中の黒い炎が、また小さく燻った。
今度は暴走じゃない。
明確な殺意として。
戦いは、泥沼の様相を呈し始めていた。
(第十話 完)




