第一話:そのスキル、供給過多につき
【灰色の世界と極彩色の脳内】
「――したがって、この時期における王政復古の大号令は、旧体制の限界を打破し、新たな中央集権国家を樹立するための……」
初夏の昼下がり。大講義室に響く教授の声は、まるで睡眠導入剤を散布するドローンの羽音のようだ。窓の外には平和そのものの青空が広がっているが、私の脳内サーバーは現在、処理落ち寸前の高負荷状態にあった。
私の名前は天野杏奈。
都内の私立大学に通う、文学部二年生。見た目は黒髪ロングの、どこにでもいる大人しそうな女子大生だ。
あくまで、表向きは。
(……いや待って。教授の言う『旧体制の限界』って、今週発売された乙女ゲーム『薔薇の枷と月影のワルツ』の、腐敗した帝国騎士団そのものじゃない? そこで若き革命の騎士が立ち上がるわけだけど、彼が剣を取った真の理由が『囚われの幼馴染(男)を救うため』だとしたら、これはもう歴史の教科書じゃなくて聖書なのでは……?)
ノートに走らせるペンは、教授の板書など一文字も写していない。
そこに記されているのは、『帝国騎士団長(攻)×革命の志士(受)における下克上の可能性と尊さについて』と題した、自分でも正気を疑うような長文の考察レポートだ。私の脳内ではすでに、pixivに投稿するための小説プロットが五千文字ほど組み上がり、タグ設定まで完了していた。
そう、これが私の本当の姿。
アニメ、漫画、ゲーム、ラノベ、2.5次元舞台、声優、VTuber……。
二次元と三次元の境界を光の速さで反復横跳びし、あらゆるジャンルに「推し」を持つ、ハイブリッド型・限界オタク。それが私、天野杏奈という個体なのだ。
私の人生における優先順位は明確だ。
衣食住よりも推し。酸素よりも供給。
週五で入っているファミレスのバイト代は、その98%が限定グッズとイベント遠征費、そして円盤(Blu-ray)の購入費へと変換される。実家暮らしを選択しているのは、親への甘えではない。家賃という固定費をゼロにし、その分をすべて推しへの課金に回すための、高度な経済戦略である。
私の人生は、推しによって完璧にデザインされている。一片の悔いなし。
この退屈な世界は、推しを輝かせるための背景美術に過ぎないのだ。
「――ん、あんな。終わったよ。起きてる?」
講義終了のチャイムに気づかず、脳内でのカップリング論争に没頭していた私を揺り起こしたのは、隣の席の親友、美咲だった。
ふわりと揺れる亜麻色の髪、流行を取り入れたメイク、そして春の新色のネイル。彼女から発せられるオーラは、私のような日陰者とは波長が違う「陽」の輝きに満ちている。
美咲は、大学に入学して最初にできた友達だ。
私がオタクであることを隠そうともしなかった初対面の日、美咲は引くどころか、「へえ、何か一つにそこまで夢中になれるってすごくない?」と興味を持ち、私が布教した深夜アニメを全話完走してくれた。それ以来、彼女は私のマシンガントークをニコニコと聞いてくれる、稀有な聖人となった。
「ごめん美咲……。ちょっと魂が、帝国の圧政から革命を起こしに行ってた」
「また? あんたの場合、革命っていうか、ただの脳内妄想でしょ」
「正解。さすが私の最高の理解者」
「はいはい。で、この後どうする? 駅前に新しくできたスフレパンケーキのお店、行かない? インスタで話題なんだって」
パンケーキ。
その単語を聞いた瞬間、私の脳内で緊急アラートが鳴り響いた。
「ごめん美咲、今日は無理! 重大なミッションがあるの!」
「ミッション?」
「今日! この後15時から! 池袋の『アニメ・ステーション』本店で、覇権アニメ『魔法少女☆まじかるドリーミン』の限定アクリルスタンドが発売されるのよ! しかも絵柄が、私の最推しであるドリーミー・ルージュ様の『闇堕ちバージョン』! こんな神供給を逃したら、オタクとしてのアイデンティティが崩壊する……!」
私は拳を握りしめて熱弁した。
普通の友人ならここで呆れるところだが、美咲は違った。
「あー、あのピンクの髪の子ね。闇堕ちってことは、黒いドレス着てるやつ?」
「そう! さすが美咲、予習が完璧!」
「ふふ、杏奈が昨日LINEでスタンプ連打してきたからね。わかった、じゃあパンケーキは今度にして、そのショップ付き合うよ」
「えっ、神……? 美咲、あなた前世で徳を積みすぎた聖女かなにか?」
「大げさだなぁ。その代わり、帰りにタピオカ奢ってよね」
女神のような美咲に手を引かれ、私たちはキャンパスを後にした。
目指すは東の聖地、池袋。
この時の私はまだ知らなかった。
このありふれた「推し活」の道のりが、私の、そして世界の運命を変える分岐点になるなんて。
【侵食するノイズ】
池袋の街は、今日も今日とてカオスな熱気に包まれていた。
巨大なビジョンには人気アイドルグループの新曲MVが流れ、街行く人々の鞄には缶バッジがびっしりと付けられている。ここは欲望と情熱が渦巻く、オタクたちの聖域。
しかし、今日の街の空気は、どこか少し違っていた。
「ねえ杏奈。なんか、人通り少なくない?」
人波をかき分けながら、美咲が不思議そうに呟いた。
言われてみれば、いつもなら歩くのも困難なサンシャイン通りの密度が、今日はやけに低い。それだけではない。すれ違う人々の表情が、どこか薄い気がする。
「そういえば、最近ネットニュースで見たかも。『原因不明の無気力症候群』が増えてるって」
「ああ、ニュースでやってたね。『サイレント・フェード』だっけ? 急に感情を失ったみたいになって、何もやる気が起きなくなるってやつ」
「そうそう。ここ池袋でも何件か目撃情報があるらしいよ。怖いよねぇ」
私はスマホで『まじかるドリーミン』の在庫状況をチェックしながら、上の空で答えた。
正直、世界の危機よりも、アクスタの完売情報の方が、私にとってはよほど深刻な問題だったのだ。私の脳内キャパシティは、推しへの愛とスケジュールの管理で常に満杯。ウイルスの脅威だろうがエイリアンの襲来だろうが、推しの発売日が延期にならない限り、それは「些事」に分類される。
「杏奈は本当にブレないわね……。あ、着いたよ」
目的地のビル『アニメ・ステーション』を見上げ、私は深呼吸をした。
ここには、私の生きる糧がある。
「よし美咲、すまないがここからは戦場だ。私はルージュ様の元へ単独潜入する!」
「はいはい。私は下の階で雑誌見てるから、無事に確保したら連絡してね」
美咲と別れ、私はエレベーターに飛び乗った。
限定グッズ売り場は、すでに歴戦の猛者たちで溢れかえっていたが、私の執念はそれを上回った。
人混みをスネークのようにすり抜け、最後の3個になっていたルージュ様のアクスタを確保。レジで会計を済ませた瞬間、脳内に幸福物質がドバドバと放出されるのを感じた。
(尊い……。この冷ややかな視線、漆黒のドレス、完璧な造形美。ありがとう公式、ありがとう世界。私、今なら光合成だけで生きていける)
戦利品を胸に抱きしめ、浮かれ気分でエスカレーターを降りる。
約束の場所へ向かうと、雑誌コーナーの前に美咲の後ろ姿があった。
「美咲ー! 買えたよ! 完全勝利! さあ、約束のタピオカ飲みに行こ……って、あれ?」
声をかけたが、美咲は動かない。
ファッション誌のページを開いたまま、まるで石像のように固まっている。
「美咲?」
違和感を感じて近づこうとした、その時だった。
キィィィィィィィン……。
耳鳴りのような、あるいは古いテレビの砂嵐のような音が、唐突に脳内に響いた。
それと同時に、店内の空気が一変した。
賑やかだったBGMが、遠くへ遠ざかっていく。人々の話し声も、レジの音も、すべてが分厚い水槽のガラス越しのようにくぐもって聞こえる。
そして、視界の端に、**「それ」**が映った。
灰色の、霧。
いや、霧ではない。それは映像のノイズのようでもあり、虫の大群のようでもあった。実体があるのかないのかも判然としない、不定形の「歪み」が、書棚の隙間から滲み出すように溢れてきたのだ。
「な、なにこれ……?」
周囲の客たちも異変に気づき、ざわめき始める。
その灰色のノイズが、近くにいた男性客の肩に、ふわりと触れた。
瞬間。
男性は、糸が切れた人形のようにガクンと膝を折った。
そして、ゆっくりと顔を上げたその瞳には――何も映っていなかった。
恐怖も、混乱も、何もない。ただの、虚無。
「ひっ……!」
誰かの短い悲鳴が上がった。
あれが、ニュースで言っていた『サイレント・フェード』の実態?
ただ無気力になるなんて生易しいものじゃない。あれは、魂が「初期化」されている。
まずい。ここにいては危ない。
私は美咲の腕を掴もうと手を伸ばした。
「美咲! 逃げるよ!」
しかし、私の手は空を切った。
美咲の背後から、人間ほどの大きさのノイズの塊が、音もなく忍び寄っていたのだ。
それは鎌首をもたげる蛇のように、美咲の背中へと吸い込まれていく。
「みさきっ!!!」
私の叫びは、彼女に届かなかった。
ノイズが完全に彼女の体内に没入した瞬間、美咲が持っていたファッション誌が、バサリと床に落ちた。
ゆっくりと、美咲が振り向く。
「あ……」
その口から漏れたのは、言葉ですらない、乾いた呼気だった。
いつも私のオタク話を笑って聞いてくれた、あの優しい瞳は、もうどこにもない。
濁ったガラス玉のような目が、私を通り越して虚空を見つめている。
「美咲……? ねぇ、嘘でしょ……?」
肩を揺さぶっても、何の反応もない。
私の親友が。
パンケーキを食べようと笑っていた大切な友達が。
たった今、目の前で、わけのわからない化け物に「中身」を食われた。
恐怖よりも先に、内臓が煮えくり返るような感覚が駆け巡った。
なんだ、こいつは。
この灰色のノイズは、何なんだ。
なんで、美咲から笑顔を奪った。
返せ。
私の親友を、返せよ。
その時、私を嘲笑うかのように、別のノイズが一体、床から湧き上がった。
それはゆらりと形を変え、鋭利な刃物のような腕を作り出し、私に向かって切っ先を向けてきた。
(私が、こいつに食われたら……)
たぶん、美咲と同じように、空っぽになる。
推しを尊いと思う気持ちも、新作を楽しみに待つワクワクも、美咲と過ごした思い出も。
全部、消えてなくなる。
私の人生から「好き」がなくなったら、何が残る?
何も残らない。ただ呼吸をして排泄するだけの、肉の塊だ。
そんなの、死ぬことよりも恐ろしい。
「ふざけるな……っ!」
私の手には、さっき買ったばかりのドリーミー・ルージュ様のアクスタが握りしめられていた。
違う。今、私に必要なのは、魔法少女のキラキラした力じゃない。
もっと、こう。
理不尽な運命を、物理的にねじ伏せるような。
圧倒的な、暴力的なまでの「力」が欲しい。
極限状態の脳裏に、あるキャラクターの姿が鮮烈にフラッシュバックした。
私が高校時代のすべてを捧げてプレイ時間2000時間を突破した、伝説のアクションRPG『アークリベリオン・サーガ』。
その主人公。
悲劇的な過去を背負い、たった一人で世界を敵に回した、隻腕の剣聖・ゼノ。
彼のコマンド入力は、指が覚えている。
彼の太刀筋は、網膜に焼き付いている。
彼が絶望的な状況で言い放つ、あの名台詞を、私は何百回も反芻してきた。
もし、今、ここにゼノ様がいたら。
彼は迷わない。嘆かない。
ただ、その一振りの剣で、目の前の絶望を断ち切るはずだ。
「――ゼノ様なら……っ!」
助けて、なんて神頼みじゃなかった。
ただ一心に、彼の思考を、彼の動きを、私の脳と体に**「上書き(インストール)」**した。
その瞬間。
ドクンッ!!
心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰するような熱さが走った。
それと同時に、視界に青白い光の羅列が走る。まるで、ゲームのUI画面が現実にオーバーレイしたかのように。
右手に、ありえない重みを感じた。
見れば、何もないはずの空間から青い光の粒子が噴き出し、私の腕に絡みつき、凝固していく。
光は瞬く間に質量を持ち、無骨で、けれど凶悪なほどに美しい、巨大な片手剣へと姿を変えた。
「え……?」
待って、何これ。
手の中にあるのは、ゼノ様の愛剣、魔剣「グラム」。
3Dモデルのテクスチャじゃない。冷たい金属の感触。ずしりとした重量感。
公式設定資料集に載っていた古代文字の刻印まで、完全に再現されている。
幻覚?
いや、幻覚でこんな重みを感じるわけがない。
混乱する間もなく、目の前のノイズが襲い掛かってきた。
灰色の刃が、私の首を狙って振り下ろされる。
死ぬ――そう思うより早く、私の体は勝手に動いていた。
思考じゃない。
これは、「記憶」だ。
2000時間かけて指先に叩き込んだ、回避と反撃のモーション・データ。
(――敵の攻撃パターンA。右薙ぎ払い。予備動作0.5秒)
脳内に冷静な解析ログが流れる。
私の体は自然と低く沈み込み、最小限の動きで刃を紙一重でかわしていた。
重いはずの魔剣が、まるで体の一部のように軽い。
踏み込む。
床のタイルが踏圧で砕ける音がした。
「『星屑のレクイエム』ッ!」
口をついて出たのは、ゼノが物語の序盤で習得する、対魔獣用の必殺剣技名。
下段から上段へ、逆袈裟懸けの一閃。
青い光の軌跡が、ショップの空間を切り裂いた。
ズンッ!!!
衝撃波が周囲の商品棚を揺らす。
私の剣が直撃したノイズは、断末魔を上げる暇もなく両断された。
灰色の霧は霧散し、光の粒子となって空気に溶けていく。
「…………は?」
私は、剣を振り抜いたポーズのまま固まった。
手の中にあったはずの魔剣もまた、光の粒子となってサラサラと消えていく。
後に残されたのは、静まり返った店内と、へたり込んだ数名の客。
そして、未だに虚ろな目で立ち尽くす美咲。
夢、じゃない。
私、今、推しの剣技で、化け物を倒した……?
「――見事なものだ」
不意に、背後から低い声がした。
拍手の音と共に。
ハッとして振り返ると、そこに立っていたのは、黒いロングコートに身を包んだ長身の男だった。
まるでファッション誌から抜け出してきたような整った顔立ちだが、その瞳は異常なほど冷たく、鋭い。
彼は、私がノイズを斬り捨てた空間と、私の手元に残ったルージュ様のアクスタを、値踏みするように見比べている。
「その力、『推し憑依』とでも呼ぶべきか。未登録の能力者だな」
「おし、ひょうい……?」
聞き慣れない単語に戸惑う私を無視し、男はコツ、コツと革靴の音を響かせて近づいてくる。
「自己紹介が遅れたな。俺は、一条蓮。政府の対虚無特務機関『パンドラ』の執行官だ」
「ぱんどら……?」
男――一条蓮は、私の目の前で止まると、空っぽになった美咲を一瞥し、そして再び私を射抜くように見据えた。
「単刀直入に言おう、天野杏奈。君をスカウトしに来た」
「は……スカウト……?」
状況が理解できず、オウム返しすることしかできない私に、彼は真顔で、しかしとんでもないことを告げた。
「世界の色が失われるのを防ぐために、君のその、常軌を逸したオタク知識と妄想力が必要だ」
世界を救う? 私が?
この、バイトと大学とアニメショップを往復するだけの、しがないオタクが?
「こ、断ったら……?」
「断れば、君の友人は一生あのままだ。そして遠からず、君自身もあの『ノイズ』の餌食になり、愛する『推し』の記憶ごと消滅するだろう」
その言葉は、私の心の臓を冷やりと鷲掴みにした。
美咲が、戻らない。
推しへの愛が、消える。
そんな世界は、死んでいるのと同じだ。
私は、拳を握りしめた。
さっきの剣の感触が、まだ掌に残っている。
あの力が私のものなら。推しへの愛が、現実に干渉できる力になるのなら。
「……やります」
私は顔を上げた。
一条の冷たい瞳に、私の決意が映り込む。
「私の友だちを返してもらうためなら、世界くらい、ついでに救ってあげますよ」
一条の口元が、わずかに歪んだ。
それは嘲笑のようでもあり、あるいは、ようやく見つけた希望に対する安堵のようでもあった。
「いい返事だ。ようこそ、狂人たちの梁山泊へ」
こうして。
私の平穏なオタクライフは、神アニメの第1話のごとく、衝撃的な急展開を迎えて崩壊した。
これより始まるのは、推しの力を借りて世界を守る、文字通りの「聖戦」である。
第一話 完




