第七章 ハクイのバラ
Ⅶ ~ハクイのバラ~
「フランソワ・ド・ジェルジェ?」
俺は思わず吹き出してしまった。
笑ってしまうのも当然だ。なにしろ、とっさに思いついた偽名であるが、勝手に口に出したのは、脳内で動いているもう一人の存在、フランソワ自身なのだから。
妄想もここまで来ると制御不能だ。フランソワが先か自分が先か判然としない。
もはや頭の中だけではない。自分の考えた架空のキャラクターが、勝手に喋り、勝手に行動している。まるで独立した人格を持つように。
しかし、その暴走を嫌悪するどころか、むしろ楽しんでいる自分がいた。
フランソワになりきり、彼女としての人生を追体験することができるのだ。
舞台は18世紀末、革命の熱狂が渦巻くフランス。そこに自分のもう一つの命を吹き込めるのなら、どれほど現実が灰色であっても、耐えられる気がする。
現実と妄想。
その境界が、もはや自分でも曖昧になりつつあった。
「フランソワ・ド・ジェルジェ……」
それと、革命軍の将校として現れる「アンドレ」。
どちらも自分が考えたものだが、いや、思いついたものだが、フランソワとアンドレ……呆れとともに苦笑が漏れる。
そこまで考えて、ふと我に返った。
気がつけば、現実の自分は部屋のドアの前で立ち尽くしていたのだ。
妄想の中ではフランソワがナポレオンの幕舎のなかにいて、いままさに激流に飲み込まれようとしている。
現実では俺・ワタルがただ突っ立っていたにすぎない。
きっかけは単純だ。
母が廊下に置いていった朝食を取りにいこうとして、ドアノブに手をかけた瞬間、妄想の中のフランソワが動き出してしまった。
結果として、本来の俺は停止したまま、しばし虚空に沈んでいたわけだ。
「はぁ……」
ため息をひとつ。
ようやく意識を引き戻し、ドアを開けると……案の定、ドアは置かれたトレイにぶつかり、半開きのまま止まった。
なんとも中途半端。まるで今の自分そのものを象徴しているようで、苦笑すら出てこない。
とにかく食べよう。
そう思い、腰を下ろしてトレイを持ち上げた。
焼きたてのパンに卵焼きと野菜が挟まれている。香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
横にはオレンジジュースの入ったガラスのコップ。細かな気遣いのある朝食だとわかる。
その丁寧さが、逆になんとなく切なく胸に刺さった。
ふと、視線の先に人影が見えた。
廊下の端、階段のところに父が立っていたのだ。
目が合った瞬間、父はそそくさと階段を下りていった。無言のまま。
「父さん……?」
なぜ父が二階に? 不思議に思ったが、すぐに気づく。
今日は日曜日。父は仕事が休みで家にいる。当たり前のことだ。
しかし、二階に上がってくる用事は、普通ならないはずだ。
つまり、俺の様子を見に来たのだろうか。
まさか、とは思う。
閉じこもりになっている俺のことを、心配して?
いや、それはないだろう。体裁のためかもしれない。
けれど、あの足取りは……やはり気にかけていたのではないか。
声をかけることなく、刺激しないように。そういう選択だったのだろう。
胸がちくりと痛んだ。
妄想に耽り、現実から逃げるだけの自分。
そんな自分を、父も母も静かに受け止めている。
けれど、そこには確かに、どうしようもない距離があった。
そのとき、ふと思い出す。祖母のことを。父の母にあたる人だ。
『祖母の実家……!』
今さらながらの気づきに、額を押さえた。どうして今まで思いつかなかったのか不思議なくらいだ。
祖母の実家のことを、父に尋ねればいい。
父なら当然、訪ねたことがあるはずだ。
どんな家だったのか、魔女と言われる祖母の姉・ミツコのことを。
それを聞けば、あの記憶の断片、小学4年生の頃に一度だけ泊まった大きな屋敷、を補えるはずだ。
羽咋の旧家。滝のある部屋。その驚きだけが強烈に残っている。
だが、それ以外は、ほとんど知らない。
あの夜のひたひたという足音。
なぜ、滝の流れている部屋があるのか。
そもそも、魔女と言われた祖母の姉は何を伝えに来たのか。
父に聞けばいいのだ。
『……行こうと思っていたんだ、今日』
声にならない呟きが漏れる。
本当は現地まで足を運びたかった。しかし、今の自分にはそれはできない。
だからこそ、せめて父に訊いてみよう。自分の知りたいことを。
そして……その行動は、きっとフランソワも望んでいるのではないか。妄想の中の彼女が、俺を部屋の外へと押し出そうとしているように思えるのだ。
「よし……」
小さく息を吸い込み、決意を固めた。
まずは部屋を出ること。
それが、現実の自分にできる第一歩であり、フランソワから託された使命のように感じられた。
「よし! まず、飯を食おう」
俺はトレイを取り上げて、部屋の中に戻った。




