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第六章 偽りネーム

Ⅵ ~偽りネーム~


 目が覚めた。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけにまぶしい。

 昨日の夜、俺は決意して眠りについたはずだった。


『明日こそ祖母の実家に行く』って。


 羽咋(はくい)市にある、一度だけ訪れたことのある場所。

 けれど今、布団の中でぐずぐずしている自分は、その決意をあっさりと裏切ろうとしている。


 夢を見ていたんだ。あまりにもリアルな夢を。

 俺はフランソワになっていた。

 そう、俺が妄想で作り出した虚構のキャラクター。

 彼女が16歳で社交界デビューを果たしたときの夢だ。


 舞台はベルサイユ宮殿。天井からはシャンデリアが輝き、鏡の間には豪奢(ごうしゃ)な衣装を(まと)った貴族たちが集まっている。

 夢の中の俺は……いや、フランソワは、堂々とその輪の中にいた。

 不思議な感覚だった……。

 俺が創ったはずのキャラが、俺の意図とは関係なく勝手に成長していくような。しかも国王や王妃にまで謁見してしまったんだ。

 ベッドの上で目を覚ました今も、その高揚感が胸に残っている。


 ふと、可笑しなことを考えてしまった。

 王妃マリー・アントワネット。彼女はフランソワの母の従妹にあたる設定になっている。

 てことは……アントワネットはフランソワにとって “親戚のおばちゃん” じゃないか。

 夢の中ではそんなこと意識もしなかったけど、現実に戻った瞬間、妙に笑えてきた。


『アントワネットが親戚のおばちゃん……。うん、なんかシュールだ』


 だけどその夢は、ただ(きら)びやかなだけじゃなかった。不穏な影も潜んでいた。

 宮殿に潜り込んでいた下級貴族の男。彼は実は革命派のスパイだった。

 フランソワたちが革命軍に川際まで追い詰められるとき、指揮をとっていた将校こそ彼だったのだ。

 名前を知らないままだったけど……俺は勝手に決めた。


 彼の名は「アンドレ」だ。

 なぜか、その響きがしっくりとくる。


 そこまで考えていたとき、現実の音が俺を引き戻した。

 廊下から母さんの声が聞こえたのだ。


「ここに置いておくから」って。


 引きこもって半年になる俺のために、食事を廊下に置いてくれたのだ。扉を開けなくても済むように。

 ……その優しさが胸に刺さる。

 一気に気分が落ち込んだ。毎度同じ。


 フランソワが宮殿で王妃と笑顔を交わす姿と、俺が自室で弁当を受け取る姿。

 その落差がひどすぎて、惨めでたまらなかった。

 妄想の中でフランソワは活躍している。歴史を駆け抜け、革命の嵐の中を疾走している。


 でも俺は? 


 この部屋から出ることすらできない。トイレと風呂に行くときだけが例外で、食事もすべてここで済ませている。

 俺自身は、ただの“停滞”だ。


 思えば、きっかけは大学受験の失敗だった。落ちた瞬間、すべてがどうでもよくなった。

 いや、それ以前から心のどこかで『面倒だ』と思っていたのかもしれない。外に出ること、何かをすること、そのすべてが億劫で。

 部屋にいればゲームだってできるし、ネットで何だって手に入る。

 そうやってだらだら過ごしていたけど、最近はそのゲームですら飽きてしまった。

 今では、もっぱらフランソワの物語を妄想することが俺の日課になっている。


 そして昨日の夜、唐突に思いついた。祖母の実家のこと。

 もしかすると、俺がフランソワを妄想してきたのは、ただの遊びじゃないのかもしれない。

 自分の境遇と、彼女の活躍と、どこかで繋がっているのではないか。


 ……それは祖母の実家に関係しているのかもしれない。


 そう思ったら調べてみたくなったんだ。

 だから決めた。「行こう」って。羽咋にある祖母の実家へ。そうすれば何かが変わるかもしれないって。

 昨日は本気でそう思って眠りについたはずだった。


 ……なのに、朝になったらこの有様だ。布団から起き上がる気力すら湧いてこない。


 まずは、この部屋を出なきゃいけない。

 家を出て、電車に乗って、知らない街に向かわなきゃいけない。考えただけで息苦しくなる。

 俺が外に出るなんて、電車に乗るなんて、到底無理だ。


 とりあえず、パソコンを立ち上げた。

 マップを開いて経路を調べてみる。ここ日野市から羽咋市まで。

 東京駅から北陸新幹線に乗り、金沢で七尾線に乗り換えて羽咋駅へ。そこからバスに30分ほど揺られれば、祖母の実家の近くだ。

 トータル6時間、料金は17、000円程度。


 お金はある。引きこもっていても毎月小遣いはもらっている。

 半年でほとんど使っていないから、3万円くらい貯まっている。ありがたい話だ。

 引きこもりの息子に小遣いをくれる親。俺はそんな親に感謝すべきなんだろう。

 

 だけど、感謝する言葉は喉の奥でいつも詰まったままだ。

 問題は金じゃない。


 問題は……外だ。


 電車やバスに乗ることを想像しただけで、心臓が重くなる。

 視線にさらされる。ざわざわとした人混み。俺には耐えられない。

 だから結局、こうなる。


『やっぱり無理だ』って。


 今は行けない。

 いや、今はじゃない。いつまで経っても、俺は “行けない” のかもしれない。

 けれど、心のどこかではこうも思っている。


『いつか行くんだ』って。


 羽咋に。祖母の実家に。

 そしてフランソワの物語と俺自身の停滞が、どこかで交わる日が来るんじゃないかって。


 だから俺は決めた!


 今日じゃない。明日でもない。だけど……いつか必ず行く! 

 その “いつか” を信じることで、俺はまた今日も布団に潜り込み、フランソワの続きを妄想するのだ。

 ……

「フランソワ・ド・ジェルジェ」


 フランソワはそう名乗ってしまった。ナポレオンに問われた際、とっさに口をついて出た偽名だった。

 本名を告げるわけにはいかない。


 父・ルシュリュー公爵。その名はフランス中に知れ渡っている。ブルボン家と血縁の近い名門であり、王党派に属していることは公然の秘密だ。

 いま目の前にいるナポレオンが、王党派を憎む革命の将軍なのか、それとも権力を狙う中立の野心家なのか……。

 それはまだ判然としない。下手に名乗れば、たちまち「反革命派」とされ、ギロチン台に送られるかもしれなかった。


 だからこそ、フランソワは架空の名を口にした。

 ナポレオンは眉をひそめ、怪訝そうに彼女を見つめる。


『しまった……知らない名前を名乗ってしまえば、逆に怪しまれるに決まっている』


 どう言い(つくろ)うべきか……。

 思考を巡らせるフランソワの耳に、周囲に控えていた数人の将校のひとりが声を発した。


「……ああ、ジェルジェ将軍のご令嬢なのですね」


 フランソワは思わず息を呑んだ。

 驚愕で胸が跳ね上がる。


『え……? ジェルジェ将軍? そんな人物、実在しないはずなのに……!』


 名乗ったのは完全に架空の名であった。

 だが、その青年将校は、まるで実在するかのように「将軍」と肩書きを補い、納得顔をしている。

「知っているのかね、ルイ?」


 とナポレオンが尋ねる。

 ルイ……その名を聞いて、フランソワの心臓はさらに早鐘を打った。というか、俺が驚愕したのだ。


 ルイ=アレクサンドル・ベルティエ。

 歴史書に必ず登場する、ナポレオンの名高き副官。几帳面にして精密無比、皇帝の作戦を実現可能な形に落とし込む天才的な参謀。

 目の前にいる青年は、まさにその人物であった。


「ええ、閣下。ですから、銃に詳しいのも納得です」


 ルイの言葉に、フランソワは背筋に冷たいものが走る。


『……河原でのあの行動を、見られていたの?』


 先ほど、自分が川辺で革命軍の将校の銃を奪い彼を盾にしたのを目撃していたのだろう。

 そしてナポレオンに、川を渡って進撃するよう進言したのも、もしかしたらこの青年将校なのかもしれない。

 ナポレオンはしばしフランソワを凝視した後、ようやく満足そうにうなずき、尋問を解いた。


 そのとき、連れてこられていた侍女のマリーが兵士の足を蹴りつけた。

 兵士の激痛に悶える様子に周囲の兵士たちは大笑いした。


「フランソワ様!」


 マリーは駆け寄り、フランソワに飛びついてくる。そして、ナポレオンを睨みつけるように叫んだ。


「フランソワ様に指一本でも触れたら、わたしが許しませんからね!」


 その勇ましい剣幕に、周囲の将校たちは腹を抱えて笑い出した。


 やがて、フランソワとマリーには独立した幕舎が与えられた。

 テントの中、マリーの手を借りながらフランソワは泥と血にまみれた豪奢なドレスを脱ぎ捨て、ようやく楽な服に着替えた。


 ドレスの布地には、ここまでの旅路で乗り越えてきた障害の痕跡が刻まれている。

 パリ郊外から逃れ、襲撃を受け、血を流し、それでも歩き続けた。そのすべてが沁みついていた。 

 椅子に腰を落とすと、全身から力が抜けていく。

 だが、安堵もつかの間、心には重い影が差していた。


『なぜ、ベルティエは「私の妄言」を肯定したのか?』


 ただの気まぐれか、それとも何か思惑があるのか……?

『気を許してはいけない。油断すれば、すべてを見透かされる……』

 そしてもう一つ、胸を締め付ける懸念があった。


「ソンエイ……」


 彼の名を呟き、フランソワは深くため息をついた。

 ソンエイ・中国から来た武術の達人にして、フランソワの師匠。フランソワの護衛。

 川を渡る直前、彼は肩に銃弾を受けて倒れた。

 救い出されたものの、担架で別のテントに運ばれていってしまった。

 追いかけようとしたフランソワを青年将校たちが制止し、そのままナポレオンの幕舎へと連れて行かれたのだ。

 師の安否は未だにわからない。

 彼が異国人であるがゆえに、奴隷同然の扱いを受けるのではないか……その恐れが胸を締め付けていた。


『明日こそ、ナポレオンに掛け合わなければ……』 


 そう思案していたときだった。


「入ってもよろしいでしょうか?」


 テントの外から青年の声が響く。

 マリーは眉をひそめ、尊大な声で問い返した。


「どなたです?」

「ナポレオン閣下に仕えております、ルイと申します」


 ベルティエの声だった。

 先ほど「ジェルジェ将軍の娘」と言い切った青年。

 フランソワは静かに息を整え、覚悟を固めた。


『逃げても仕方ない。ここで運命と対峙しなければ』


「……どうぞ」


 テントの幕を押し分け、ルイが現れる。

 几帳面な姿勢で、まっすぐに歩み寄ってくる。

 マリーが慌てて前に出て遮ろうとするが、ルイは軽く彼女を押しのけ、フランソワの目前に進み出た。


『やむを得ない……戦うことになるなら、なるようになるさ』


 フランソワが決意を固めた瞬間……

 青年は唐突に深く礼をした。


「フランソワ・ド・ルシュリュー様」


 その一言に、フランソワの瞳が大きく見開かれる。


『知っていたの、本名を!』


 驚愕とともに、思考が凍り付く。

 ルイは顔を上げ、穏やかに語り始めた。


「不思議に思われましたでしょう。先ほどあのように申し上げたのは、ただ場を取り繕うためでした。……私はベルサイユに生まれた王立工兵隊の将校。あの宮殿で警護に就いていた折、あなた様を拝見したことがございます」

「私を……?」

「はい。馬車から降り立たれたあなた様を、一目見た瞬間に……女神が舞い降りたのだと思いました。……剣を取る者として、もし仕えるならこの方に、と心の底から願ったのです」


 フランソワの胸に熱いものが込み上げる。

 逃げ、命を狙われる恐怖の中で、こうして真っ直ぐに自分を見つめ、忠誠を誓う者が現れるとは思わなかった。


「ですから、安心なさってください。あなた様がここにおられる間は、私が一命を賭してお守りいたします」


 ルイの決意に、フランソワは言葉を失った。

 そのとき、横にいたマリーが涙ぐみ、衝動のままにルイの頬にキスをした。


「うわっ……!?」


 ルイは困惑して目を瞬かせ、顔を赤くした。

 その様子に場の空気が和み、フランソワの頬にも自然と笑みが浮かぶ。


『……ここへ来て、間違いなかった……』


 ルイは姿勢を正し、改めて言った。


「何でもご命令ください。できる限りのことをいたします」


 フランソワは一瞬迷い、しかしすぐに口を開いた。


「それなら、ソンエイを……あの中国人を連れてきてほしいのです」

「承知しました。すぐに手配いたします」


 ルイは深くうなずき、幕を出ようとした。

 その背に、フランソワはふと声を掛けた。


「待って。もう一つ、頼みたいことがあります」


 ルイが振り返る。


「なんなりと」

「先ほどの革命軍の将校……彼はいまどこに?」


 ルイは怪訝そうな表情を浮かべた。


「捕虜のテントで縄に縛られておりますが……」

「そこへ、私を連れていっていただけますか?」


 その問いかけに、ルイはわずかに言い淀んだ。

 だが、やがて黙ってうなずき、静かに答えた。


「……わかりました。それでは、私に付いてきてください」


 そして、フランソワとマリーを伴い、夜の軍営へと歩み出した。



  第七章 ハクイのバラ に続く



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