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第三章 ナポレオン登壇

Ⅲ  ~ナポレオン登壇~


 「ケセラセラ/なるようになるさ」


 それは公爵令嬢フランソワの口癖であった。

 どれほど絶望的な状況でも、彼女はその言葉を繰り返し、自らを鼓舞(こぶ)する。

 彼女の身近にいる者たちは時に呆れ、時にその強靭(きょうじん)な心に救われてきた。

 今まさに、フランス革命下のパリ郊外、死と隣り合わせの逃避行の最中においても、その言葉は口から零れていた。


 肩に深い銃創(じゅうそう)を負った庭師にして武術の達人、ソンエイ。

 彼を支える侍女マリーは簡単な止血や包帯を巻くことはできても、肩に食い込んだ弾丸を取り出すことはできない。

 彼女らは必死にパリの街を抜け出し、ある村を目指していた。その村にはフランス陸軍砲兵の小隊が駐屯(ちゅうとん)しているとフランソワは知っていたからだ。

 率いているのは若き砲兵将校・中尉にして後に名を轟かせる男、ナポレオン。


「もう少しで……あの川を渡れば、助かるはず……」


 フランソワが呟いた。  

 しかし、眼前に立ちはだかるのは流れの速い川であった。川幅は広くないものの、ところどころ深く、流れも複雑である。

 健康体であれば問題なく泳ぎ切れる。フランソワはかつてソンエイから泳ぎを学んでいたし、マリーは田舎育ちで水泳は得意だった。

 だが、肩に銃弾を受けたソンエイには到底不可能であった。

 その時、背後から野卑な叫び声が聞こえてきた。


 「見つけたぞ、貴族の娘だ!」


 追手・革命軍である。

 町人や農民を寄せ集めて作られた即席の軍隊ではあるが、彼らはそれなりに装備を整え、ライフル銃を携えていた。

 先ほどまで相手にしていた愚連隊とは違う。彼らは組織され、フランソワを確実に捕らえ、ギロチンにかけようと迫ってきたのだ。


 「フランソワ様……!」


 マリーが恐怖を込めて叫ぶ。

 三人を取り囲む革命軍兵士たちの目には、欲望と憎悪と、そして愚かな興奮が宿っていた。


 フランソワは思わず拳を握る。彼女は単なる令嬢ではなかった。ソンエイから武術を学んでいる。

 暴漢相手であればいくらでも戦えた。だが、いま彼女の前にいるのは軍隊。ライフルを揃えて構えた彼らに、武術の技など通じるはずもない。


 川の向こう側に、確かに小さな部隊が見えている。

 正規軍の旗、規律正しい動き。おそらくはナポレオン率いる小隊だろう。

 しかし、こちらの姿までは確認できていないようだった。

 助けは目前にあるのに、届かない。それが、いっそう焦燥感を(あお)った。


「観念するがいい、令嬢殿」


 革命軍の将校と思しき男が歩み寄ってくる。

 その目は冷ややかで、しかしどこかで理性と誇りを宿していた。兵士たちの中では教養ある雰囲気を(まと)っている。 


「フランソワ様、ここは私に……」


 ソンエイが立ち上がり、片腕をだらりと下げながらも武術の構えを取った。


「私に構わず、お二人は川を渡るのです」


 その言葉に、フランソワは胸を突かれる。彼が盾となり、ここで命を落とすつもりだと直感したからだ。


 兵士たちのライフルが一斉にソンエイへと向けられる。引き金が引かれれば、それで終わり。

 フランソワは思わず唇を噛んだ。


「……ケセラセラ」


 小さく呟く。その言葉は己を奮い立たせるためのものだ。


 彼女の脳裏には、これまでの出来事が駆け巡る。

 革命の嵐が吹き荒れる中、両親や兄と共にオーストリアへの亡命が計画されていたこと。

 母の伯母はマリア・テレジア。縁故(えんこ)を頼れば国外での安息が約束されていた。


 だが、両親は言った。「ソンエイは中国人ゆえに連れては行けぬ」と。

 フランソワはそれに反発し、マリーとソンエイと共にパリに残ったのだった。

 父は彼女の決断を軽んじ、兄さえ無事ならばと取り合わなかった。

 それが、彼女の心に深い影を落としていた。


「……降参いたします」


 フランソワは静かに声を上げた。

 マリーが驚いて顔を向ける。だが、主人の瞳には決意が宿っていることを、マリーはすぐに理解した。


 無知な兵士たちは嘲笑し、ある者はいやらしい笑みを浮かべる。

 将校は彼らを制し、自らフランソワのもとへ歩み寄った。

 教養あるその将校には、彼女を傷つける意思はないように見える。

 むしろ丁寧に腕を取ろうとした瞬間!

 フランソワは鋭く叫び、電光石火の動きで将校の腕を取り、羽交い絞めにした。

 その場の兵士たちがどよめく。誰もが目を疑った。

 貴族の令嬢が、武術を心得ているなど夢にも思わなかったのだ。


「撃て! 俺はかまわん!」


 将校が叫ぶ。

 驚くほど気骨のある人物だとフランソワは悟った。


 だが構わず、彼を盾にしながらマリーとソンエイを促し、川へと足を踏み入れる。

 ジリジリと兵士たちが寄ってくる。

 いつまで保つのか、と不安になった瞬間、発砲音が鳴り響いた!


 だがそれは、目の前の兵士たちの銃声ではなかった。川向こうから放たれた一斉射撃だ。

 革命軍の兵士数名が鮮血を撒き散らし、地面に崩れ落ちる。


「な、なに……?」


 兵士たちが狼狽する間に、川を渡ってきたのはナポレオン率いる小部隊だった。

 統率の取れた動き、正確な射撃、士気の高さ。烏合の衆である革命軍はひとたまりもない。


「逃げるな! 戦え!」


 将校が声を張り上げるが、兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。

 寄せ集めの軍隊に、正規軍と渡り合う力などない。


 ナポレオンの部隊が川を越え、フランソワたちに駆け寄ってくる。

 捕らえられた革命軍の将校は縄で縛られ、最後にフランソワに向かって何かを叫んだ。

 彼女はその顔を見て、ふと思い出す。かつて社交界で会った下級貴族の青年だと。自由・平等・博愛を説き、真剣な瞳で理想を語っていた男。

 あれが……彼だったのだ。


「……時代が、変わっていくのね」


 フランソワは呟いた。

 その理想を語っていた男は、今や処刑される運命にある。歴史の奔流(ほんりゅう)は、容赦なく人を呑み込んでいくのだ。


 その時、小柄な男が彼女の前に歩み出た。

 鋭い眼差しを持ちながらも、声は驚くほど柔らかい。表情も柔和だ。戦場に似つかわしくないほど落ち着いている。


「怪我はありませんか、マドモワゼル」

 

 彼は(うやうや)しく一礼した。

 フランソワは見据えた。

 その男こそ、後にフランスを統べ、皇帝と呼ばれる男・ナポレオン・ボナパルトであることを。

 胸の奥が震える。彼の存在が、まるで歴史そのものが形をとって目の前に現れたかのように感じられたからだ。


「……ケセラセラ」


 フランソワは微笑んだ。

 なるようになる。そして、なるようになった現実に、この男が待ち受けていたのだと悟りながら。


  

   第四章 つながりタキ に続く



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