第24章 決戦の地で
マントバァ郊外。
冬の冷気に包まれた湿地帯は、足を踏み入れるたびに泥濘がぐちゅりといやな音を立て、兵士の足を重く絡め取っていく。
灰色の雲が垂れこめ、空気は鉛のように重く、吐き出す息はすぐさま白い煙となって散った。
その泥濘の中に、馬に跨った二つの影が立っていた。
白い馬に跨っているのはフランソワ。紅の軍服の胸には、白い狼の紋章と大尉を示す徽章が輝いている。
鋭い眼差しは冷気をも突き刺すようでありながら、その奥底には言いようのない緊張と苛立ちが漂っていた。
黒毛の馬に跨るのはアンドレ。掲げたナポレオン軍の軍旗は冬の風に揺れてはためいている。
彼の頬も凍える寒さにわずかに赤く染まっていたが、瞳には迷いはなく、フランソワの背に寄り添うように毅然と立っていた。
周囲は不気味な静けさに包まれている。
二人の背後200メートルほどには大きな森が広がり、その中にはナポレオン軍の騎兵隊が息を潜めている。
いつでも突撃できるように、馬の吐息と兵士の気配が密やかに漂っていた。
一方、フランソワの正面200メートル先には別の森。そこにはオーストリア軍が待機している。
互いに睨み合う二つの軍勢、その間に立つフランソワとアンドレは、さながら戦の盤上で進むべき一手を待つ駒のようであった。
やがて、正面の森から馬に跨った二人の影が姿を現した。
ひとりは将校、もうひとりは軍旗を掲げる従者。泥濘に足を取られながらも、馬は確かにこちらに歩み寄ってくる。
フランソワの胸中に冷たい緊張が走る。
『交渉の時が来たのだ』
そもそもフランソワが交渉役に指名されたのは、オーストリア側の要請によるものだった。
ナポレオンも参謀のルイも首をかしげたが、相手の意向を無視するわけにはいかない。
重大な局面で、フランソワは重要な役目を負うことになった。
従者役は当初、師であり護衛でもあるソンエイが務めるはずだった。中国武術の達人であり、皇帝近衛兵の家系に連なる彼は戦術眼に優れ、誰よりも信頼できる存在だ。
しかし、アンドレが強く志願した。
「危険な任務だからこそ、自分が彼女を守りたい」と。
その言葉にフランソワの胸はわずかに熱を帯びた。
彼女もまた、アンドレにそばにいてほしかったのだ。
渋々ながらもソンエイは承諾し、森の最前線に馬に乗って控えている。彼の目は常にフランソワの身に注がれていた。
青毛に乗り、湿地をゆっくり進んでくるオーストリア軍の将校を見た瞬間、フランソワは息を呑んだ。
「……お兄さん……?」
そこに現れたのは、ミッシェル・ド・リシュリュー。フランソワの実兄であった。
数年前、フランスから亡命し、今はオーストリアに身を置くはずの男。
手紙を送りつけてきたばかりで、その内容によりフランソワの立場はナポレオン軍内で揺らいでいた。
その兄が、今や敵の将校として目の前に立っている。胸に輝く紋章は山猫、リシュリュー侯爵を示していた。
『信じられない……』
ミッシェルは軍務にまるで不向きな人間だったはずだ。貴族の坊ちゃんとして甘やかされ、わがままばかりの男。
それが軍服に身を包み、将校を名乗っている。
笑止千万である。まともにサーベルだって振るえないはずだ。
実際、馬の脚が泥濘に取られるたび、「これだから嫌になる」などと愚痴をこぼす姿は、何も変わっていなかった。
「久しいな、フランソワ!」
白い歯を覗かせ、芝居がかった声でミッシェルは言った。
「再会できて感激だ! 元気でいるか」
と、わざとらしい文言。
「形式はいい。要求を聞こう」
フランソワは冷たく言い放つ。
「停戦だ。そして、マントヴァの包囲を解け」
「……受け入れがたいな」
フランソワは眉をひそめた。
彼女にはすぐに分かった。――援軍が到着するまでの時間稼ぎにすぎない。
だが、一応交渉はしてみる。
「見返りは?」
「お前の命の保証だ」
ミッシェルは傲慢に言い放つ。
「それに、オーストリアでの貴族としての身分も保証してやろう」
それを聞き、フランソワは心底呆れた。
まだそんな幻想に縋っているのか。貴族の身分に何の価値がある?
「話にならない」
フランソワは切り捨てる。
「軍の交渉に私事を持ち込むなど言語道断だ」
だが、ミッシェルは何を言われたのか理解できていない。
「投降すれば、皇帝の王子と結婚できるのだぞ!」
などと口走る始末。
フランソワの怒りは頂点に達した。
踵を返し、
「交渉は決裂だ!」と言い放つ。
「待ってくれ!」
必死の声が背に追いすがる。
振り返らずとも分かった。兄もまた窮地に立たされているのだ。交渉をまとめられなければ、彼自身の地位すら危ういのだろう。
……それでも、選んだのは兄自身だ。
フランソワは歩みを進めた。
その瞬間。
乾いた銃声が湿地を裂いた!
鳥たちが一斉に飛び立ち、フランソワの肩に灼熱の痛みが走る。
振り返れば、ミッシェルが震える手で銃を構えていた。
引き金を引いたのだ、妹に向かって。
「兄さん……!」
左肩を貫いた弾丸に血が噴き出し、馬から落ちそうになる。
すかさずアンドレが軍旗を投げ捨て、彼女を支えた。
「どうしても……この交渉を成功させねばならんのだ!」
ミッシェルは絶叫する。
「できなければ……お前を殺さねばならない! すべてはお前が悪い! お前がフランスに残ったから、私は……!」
錯乱したように叫び、再び銃口を向けた。
「本当に……私を……」
絶望的な言葉がフランソワの口から洩れる。
「ああ……」
ミッシェルは決意を示すようにうなずいた。
「やめろ!」
アンドレは叫んだ。
ふたたび轟音!
二発目の弾丸が火を噴いた瞬間! アンドレが身を挺して彼女を庇った!
銃弾はアンドレの胸を貫き、赤い花弁がはじけるように血が飛び散った。
そして、ゆっくりと馬から落ちていく。
「アンドレ!」
フランソワは叫び、馬から飛び降りる。
すぐにアンドレを必死に抱きとめる。震える手で血を押さえ、名を呼び続ける。
アンドレはフランソワの胸の中でぐったりとしている。
ミッシェルは銃を取り落とし、蒼白な顔で、馬上で立ち尽くしていた。
その時、地鳴りのような蹄音が森から轟いた。
オーストリア軍の騎馬隊が森から次々と現れ、雪崩のように突撃してきたのだ。
ミッシェルの銃声が合図だったのだ。
交渉の成否に関係なく、フランソワを射殺し、その混乱に乗じて急襲する。それが仕組まれた筋書きだった。
フランソワはオーストリア軍から『紅の魔女』と呼ばれ、忌み嫌われていたのだ。
ナポレオン軍の森からは、ただ1騎。ソンエイが駆け出してくる。
フランソワの危機を悟り、馬を蹴り立てて急ぐ。
「フランソワ様!」彼の声が轟いた。
しかし、フランソワは動けなかった。腕の中でアンドレが息絶えようとしていたからだ。
「……軍を抜けるんだ……」
血の泡を吐きながら、アンドレは最後の力で囁いた。
「マリーと……ソンエイを連れて……去るんだ……」
その言葉を残し、彼の瞳から光が消えた。
「アンドレェェェッ!」
フランソワの絶叫は轟く蹄音に掻き消された。
騎馬隊は目前に迫る。
ミッシェルを乗せた青馬は驚いて跳ね上がってしまった。その弾みで、彼は馬から振り落とされた。
彼は何とか立ち上がったが、突撃してきた騎馬に蹴り飛ばされて、フランソワの傍らまで転がってきた。
迫り来る騎兵の影。もう間に合わない!
「フランソワー!」
傍らまで来ていたのに、ソンエイも間に合わない。
その刹那、轟音が戦場を揺るがした!
先頭の馬が爆発に吹き飛び、土煙が立ちのぼる。
続けざまに次々と火柱が上がり、騎馬隊が宙を舞った。
ナポレオン軍の森から、大砲の一斉射撃が開始されたのだ。
森に潜んでいたのは騎兵ではなく、砲兵隊だった。
オーストリア軍を欺くための囮。フランソワたち交渉役もその計略の一部だったのだ。
砲火の嵐にオーストリア軍の騎馬隊は大混乱に陥り、馬は暴れ、兵は次々と倒れていく。
その地獄の只中、ソンエイが馬から飛び降り、フランソワに駆け寄った。
「行きましょう!」
彼は叫び、フランソワを抱き起こそうとする。
「いやだ……アンドレを……!」
フランソワは亡骸を抱き締め、離そうとしない。
砲撃は近づき、土煙が二人を覆う。
ソンエイは強引にアンドレの亡骸を引き取り、黒い馬に載せた。
「しっかりしてください! 戻るのです!」
ソンエイはそう叫び、フランソワの頬を張った。
「ソンエイ……」
呆然とソンエイを見あげる。
「さあ、馬に乗って!」
ようやくフランソワは正気を取り戻し、彼の手に引かれて立ち上がる。白馬の上に乗せられた。
ソンエイに導かれアンドレの亡骸を乗せた黒い馬が駆けていく。
フランソワはそれを追って駆けていく。
馬上で彼女は理解した。
自分たちは囮だったのだ。ナポレオンが仕組んだ作戦。その駒に過ぎなかった。
しかし、理解しても胸の痛みは消えない。
アンドレはもう冷たい。
フランソワは涙で視界が滲み、世界が霞んでいく。
砲声と悲鳴の轟く戦場を後にしながら、フランソワはただ茫然と馬上に揺られていた。
第25章 到着 に続く




