第20章 決戦前夜
夜はすでに深く、軍営の外には重苦しい沈黙と、ところどころから立ち上る笑い声が交錯していた。
テントの中に閉じこもっていると、言い知れぬ不安が胸を締め付けてくる。明日、再び戦場に立たねばならない。生死は神のみぞ知るところだ。
フランソワは落ち着かない気持ちを抑えきれず、息を吐き出すとテントを出た。
外に広がるのは、兵士たちのささやかな宴の場だった。
粗末な焚き火の周りに数人が集まり、酒を酌み交わし、束の間の安らぎに浸っている。
彼らの笑い声は、戦場の恐怖を忘れさせる魔法のように響いていた。
目を凝らすと、一角に自分の小隊の兵士たちが輪を作っていた。
「……あれは」
ソンエイの姿、そしてアンドレの姿が見える。
フランソワの胸が不意に高鳴った。
視線が自然とアンドレを探し、その端整な横顔を見つけた瞬間、心臓が一瞬跳ね上がったのだ。
勇敢な部下であり、軍務においては何度も命を預け合った仲間。
しかし今、焚き火の灯りに照らされた彼の瞳は、戦場の厳しさとは異なる柔らかさを帯びていた。
フランソワは無意識のうちに歩を進めていた。
近づけば近づくほど、兵士たちの笑顔や酔った声が鮮明に聞こえる。
「おっ、隊長だ!」
「こちらへどうぞ!」
部下たちが驚きと喜びを込めて声を上げた。
普段なら指揮を執る厳格な司令官が、自分たちの輪に加わるなど滅多にないことだからだ。
アンドレがふと顔を上げ、手招きした。
「こっちへ、座ってください」
彼の優しい笑みがフランソワの胸を揺さぶる。戦場では決して見せない穏やかな笑顔。
その瞳に見つめられた瞬間、冷静さを失いそうになった。
『私も、ただの女なのだ……』
緊張を解き、今だけは安らぎを求めている。
そう理解し、フランソワは隣に腰を下ろした。
近くの兵士が金属のカップを差し出した。
「隊長、どうぞ! 一緒に飲みましょう!」
中に入っているのは、兵士たちが好む強烈な蒸留酒だった。
高級貴族の令嬢であったフランソワが知っているのは、芳醇なワインや気品あるブランデー。こんな荒々しい酒は口にしたことがない。
だが兵士たちは期待に満ちた眼差しを向けている。自分たちと同じ酒を酌み交わすことは、誇らしい出来事なのだ。
「飲んでくださいよ、隊長!」
「一杯だけでも!」
焚き火を囲む笑顔と歓声に煽られ、フランソワは戸惑う。
その横で、ソンエイが眉をひそめていた。
「無理に飲む必要はありません」
武術の達人であり護衛でもある彼は、気遣いからそう告げる。
だがアンドレは少し違った。興味深そうにこちらを見つめ、柔らかく言った。
「……無理しない方がいいかもしれませんよ」
その言葉が、フランソワの中の反発心を刺激した。
ならば、証明してみせよう。自分は彼らと同じだと。
意を決してカップを掴み、一気に煽った。
次の瞬間、喉が焼けるような刺激に襲われ、咽せ返った。
「ごほっ、ごほっ……!」
吐き出すように口から酒が飛び散り、涙まで滲む。
兵士たちは爆笑した。
「隊長、無理するから!」
「ははは、かわいいな!」
その笑い声に、フランソワの頬が真っ赤に染まる。怒りと羞恥に耐えられず、立ち上がろうとした。
「……っ、もういい!」
だがその腕を、隣にいたアンドレが掴んだ。
「行かないでください」
短い言葉。しかしその声音は真摯で切なく、フランソワの心に炎を灯す。
胸が熱くなり、彼を見つめ返す。
気づけば、足は止まっていた。彼に導かれるように、もう一度腰を下ろしてしまう。
「おおー!」
周囲から感嘆の声が上がった。
それを見たソンエイが静かに立ち上がる。
「……見回りをしてきます」
そう告げると、闇の中へ姿を消した。
それを見て、兵士たちも次々に立ち上がる。
気を利かせて二人を残そうとしているのだ。中には、意味ありげな笑みを浮かべる者さえいた。
「おい、どこへ行くんだ!」
アンドレは呆れたように呼びかけるが、仲間たちは手を振って去っていく。
やがて、焚き火の傍に残ったのは二人だけになった。
……静寂。
火のはぜる音と、遠くの夜営のざわめきだけが耳に届く。
アンドレが改めてフランソワを見つめる。その瞳は優しく、まるで全てを包み込むようだった。
フランソワの胸は震えていた。軍神とまで称される男装の司令官も、今はただ一人の乙女に過ぎない。
明日、夜が明ければ再び血と鉄の世界に戻らねばならない。生きて帰れる保証など、どこにもない。
だからこそ、今この瞬間が永遠であればと願ってしまう。
自然と、二人の顔が近づいていく。
フランソワは初めての感情に戸惑いながらも、目を閉じた。
アンドレの温もりが近づき、唇が触れようとした、その刹那――
「もう遅いですよ!」
鋭い声が割り込んだ。
ハッとして顔を離す二人。
声の方を見ると、ルイが立っていた。ナポレオン軍の副官であり、冷静沈着な男。
彼は鋭い視線でアンドレに言い放つ。
「アンドレ軍曹。君は歩哨に立つはずではなかったか。いつまでここにいるつもりだ」
アンドレは跳ねるように立ち上がり、敬礼した。
「ハッ! 申し訳ございません!」
そして一目散に駆けて行ってしまう。
残されたフランソワの胸に、寂しさが押し寄せた。
ルイは少し柔らかい表情に戻り、彼女へ歩み寄る。
「明日はオーストリア軍との決戦になります。……お休みになった方がよろしいでしょう」
その声音は優しくも切実だった。
フランソワは小さくうなずき、「わかりました」とだけ答え、背を向ける。
テントに戻るその姿を、ルイは切なげに見送っていた。彼の瞳に宿る想いに、フランソワはまだ気づいていないのだ。
夜は静かに更けていく。
明日、この大地は再び血に染まるのだ。
その運命を知らぬまま、彼女の胸には、初めての恋の余韻だけが熱を帯びて残っていた。
第21章 妄想が暴走した先 に続く




