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第二章 夢中ワタル

Ⅱ  ~夢中ワタル~


 ベッドの上に投げ出されたスマホが、黒い画面を光らせていた。

 暗い画面の中で金髪碧眼(きんぱつへきがん)の少女、フランソワが微笑んでいる。

 現実には存在しない。俺が頭の中で作り上げ、スマホの中に住まわせた、脳内専用の二次元ヒロインだ。

 撮影したばかりの短い動画がリピート再生されている。深紅のフリルのドレスを着た彼女は、優雅に礼をし、口元だけで笑って俺に何か囁きかけてくる。

 実際には何も言っていない。特殊アプリで加工しただけのフェイク映像だ。


 背景のパリの街が燃えている。

 けれど、その中のフランソワは、現実の誰よりも俺を見てくれているような気がした。


 俺・本名、ハクライワタル。浪人生、19歳。


 歴史だけは得意だが、話し下手で友達はほぼゼロ。

 趣味は……妄想。いや、むしろそれしかない。


 勉強机の上には山のように参考書が積まれているが、ほこりをかぶって久しい。

 机に向かう代わりに、俺はこうしてベッドで天井を見ながら空想の世界を泳ぎ回っている。


 大学受験? ……まあ、そのうち、来年こそは、たぶん……。


 部屋は六畳の和室を洋風に改装した中途半端な空間だ。

 フローリングの床には薄いラグが敷かれ、その上に脚付きのベッドが置かれている。

 壁際の本棚は1段目が漫画、2段目がプラモデル、3段目には歴史関連の本や資料がぎっしり詰まっているが、半分はほこりと空き缶に侵食されていた。

 カーテンは色あせた緑。日光が差し込むと部屋全体が少し古びた写真のように見える。


「ふー……あれ、スマホどこやったっけ」


 寝返りを打ったとき、手元のスマホがふと見当たらないことに気づいた。

 枕元を探すが、ない。

 あっ、と思った瞬間、足元でカツンと軽い音がして、スマホがするりと滑り、ベッドと壁の間の暗黒地帯へと消えていった。


「あー……やったわ、これ」


 その隙間は、手を突っ込むには狭すぎる。指先が届かない。

 仕方なく、俺はベッドの足を持ち上げ、ぎりぎり動かせる程度に壁から離す。


『出たな、禁断の領域!』


 そこは、俺の過去数年分のズボラさを封じ込めた魔窟だった。

 灰色のほこりが層になって積もり、ペットボトルのキャップ、高校時代のプリント、片方だけの靴下、ねじれたコード類、破れた漫画のカバー、古いお菓子の袋……。

 それらが無秩序に折り重なり、湿った匂いを放っていた。


 スマホは、そのガラクタの山の上に転がっていた。

 ついでに、そのすぐ横に……見覚えのある茶色の長財布があった。


「……財布? なんでこんなとこに?」


 手に取ると、革はすっかり柔らかくなり、角は擦り切れ、色は褪せている。それでも、握った瞬間、妙な懐かしさが指先に宿った。


『これ……知ってる』


 その瞬間、胸の奥から、古びた記憶が引きずり出される。

 ……

 俺が5歳の頃のことだ。

 冬の午後、陽の傾くのが早い季節。

 家の玄関に、見慣れない影が立っていた。紫色のコートを羽織り、フードを目まで被ったその姿。


 祖母ケイコの姉・ミツコ。

 「魔女」と呼ばれていた人。

 理由は単純で、夏でもフード付きの紫のコートを羽織っていた。それと、日本人離れしたとても濃い顔をしていたが。

 父も母も、祖母ケイコも、あまり良く思っていなかった。

 その日、ミツコは「どうしても伝えたいことがある」と言って家を訪ねてきた。


 帰り際、玄関で靴を履こうとしていたミツコと、廊下を走ってきた俺がばったり出くわした。

 ミツコはしゃがみこみ、フードで目を隠したまま、笑った。


「あら、ワタル。お前は二十歳(はたち)になる前に、大きな試練が訪れるよ」

「……しれん? こわいの?」

「そうね……人によっては怖いかもしれない」


 5歳の俺は、それを聞いただけで全身がこわばった。


「やだ」と即答する俺に、ミツコはゆっくりと唇の端を上げた。


「じゃあ、試練を避ける方法を教えてあげようか」

「……うん!」

「ケイコの財布を、こっそり持ってきなさい」


 今思えば、意味不明だ。単にお金が欲しかっただけなのか……。

 だが、その時の俺は、疑うことなく受け入れてしまった。


 祖母の部屋は畳敷きで、タンスが二つ並んでいた。障子越しの光が薄暗く差し込み、(ほこり)が舞っていた。

 俺は忍び足で近づき、タンスの引き出しを開け、財布を取り出した。

 その瞬間、祖母が背後から声をかけた。


「ワタル……どうしてこんなことをしたの?」

「……魔女に言われたの」


 祖母は一言、「わかった」とだけ言い、財布を持って部屋を出て行った。

 その後、どうなったのか……記憶がぷつりと切れている。


 俺は今、手にしている財布を凝視した。

 埃をはらい、留め金を外す。中にはお金はなく、小さな紙切れが一枚だけ入っていた。


「……なんだ、これ」


 手書きの文字。アルファベットで記されているが英語でないのはわかる。

 声に出して読み上げた。

 世界がぐにゃりと歪んだ。

 視界が真っ白に染まり、耳鳴りがして、全身の感覚が遠のく。

 次に気づいたとき、俺は床に倒れていて、鼻血を垂らしていた。


「な、なんだ……これ……」


 手足が鉛のように重く、息すら苦しい。

 胸が締めつけられ、意識が闇に飲み込まれていった。

 ……

 気がつくと、そこに祖母ケイコがいた。

 けれど、何かがおかしい。そもそも、祖母のケイコはすでに亡くなっていて時が経っている。

 それより、視界が低い。

 祖母が大きくなったわけじゃない。俺が……小さくなっている。

 三面鏡に映る自分を見て、心臓が跳ね上がった。

 そこには、5歳の俺がいた。


「うそだろ……なんで……」


 祖母は、例の財布を手に玄関へ向かっている。

 慌てて追いかけると、玄関先で、あの日と同じ光景が広がっていた。

 祖母と、その姉ミツコが向かい合っている。

 この瞬間、俺は悟った。

 これは夢じゃない! 俺は、本当にあの日に戻ってしまったのだ。

 そして、途切れた記憶の続きを、これから目の当たりにすることになる。


「タキ……」


ミツコの言葉だ。聞こえてきた。『タキ』は『滝』だ、今の俺にはわかる。


「ケッカイ」


 祖母ケイコの言葉だ。『ケッカイ』は、『結界』か『決壊』か? 今の俺でもわからない。

 どちらにせよ、祖母の実家、羽咋(はくい)にあるウメドの屋敷のことだ。

 考えているうちに、胸の奥を、見えない手がぎゅっと締め付けてくる。


「どうなってしまったんだ、俺は!」


 頭の中は真っ白。過去に戻ったままなのか、このまま子どものままなのか、答えのない問いが渦巻いて、息が苦しい。

 堪えきれず、喉が勝手に叫び声を上げた。

 ……

 視界が白く塗りつぶされる。雪の中に放り込まれたみたいに、音も色も消えて……そして、ゆっくりと色彩が戻ってきた。

 見慣れた天井。自分のポスター、自分の机。

 ……そして、自分。

 19歳の俺が、部屋の真ん中で突っ立っていた。


「……帰ってきた」


 胸を撫で下ろし、深く息をつく。心臓はまだドクドクと暴れていたが、確かにここは俺の部屋だ。

 ふと、手に古びた長財布を握っていることに気づく。


「これ……いつからあった?」


 記憶をたどっても、この財布を部屋に持ち込んだ覚えはない。

 机の上に置き、今度はあの紙片を取り出した。あれが、俺を過去へ飛ばした原因? そう思えるからだ。

 紙面にはアルファベットの列。英語……ではない。


「フランス語?」


 なぜか意味がわかった。

 読めるはずのない言葉が、脳に直接流れ込んでくる感覚。

 理由はすぐに分かった。俺が創ったキャラクター、フランソワの口癖にしようか迷っていた文句だ。


「ce qui sera sera……ケセラセラ」


 声に出すと、舌が自然に回る。


『なるようになるさ』


 フランソワは、俺の妄想の中でナポレオンと面会してもこの精神を貫き、副官にまでのし上がった人物だ。しかも生まれは、ブルボン家に近い公爵家の令嬢というおまけ付き、という設定。


 だが、この文字は誰が書いた? 間違いなく俺じゃない。

 そもそも、ケセラセラはカタカナで表記している。フランス語の表記など俺が知るはずもない。

 祖母か? それとも、“魔女”と呼ばれたミツコなのか?

 考えているうちに、ふと頭にひらめきが走る。


「……これ、呪文なんじゃないか?」


 魔女が記したなら、呪文になるはず。

 俺は試しに唱えてみた。


「ケセラセラ……ケセラセラ……ケセラセラ」


 3度繰り返す。

 耳の奥で自分の声が響き、空気がわずかに震えた気がした……が。 

 そこにあるのは見慣れた部屋の景色だった。

 何も変わらない。ただ、心臓だけが、再び早鐘のように鳴り出していた。



    第3章 ナポレオン登壇 に続く


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