第一章 フランソワ爆誕
Ⅰ ~フランソワ爆誕~
パリの空は、まるで溶けかけた鉛を流し込んだように重く垂れ込めていた。
夏のはずなのに、街を渡る風は冷たく、湿った灰と血の匂いを運んでくる。
石畳には焦げた木片が散らばり、遠くで断続的に響く銃声が、誰もがこの街に安全な場所がないことを思い知らされる。
フランソワ・ド・リシュリューは、深紅のドレスの裾を片手で軽くつまみ上げ、もう片方の手で壁をかすめながら、濡れた石畳を進んでいった。
陽光の欠けた街でも、その金糸の髪と蒼い瞳は不自然なほど際立つ。
彼女がどこかの貴族階級の令嬢であることは、一目で分かる。だからこそ、狙われる。
その背後に、小柄な栗色髪の少女マリーが必死に食らいつく。
裾の短い麻のスカートがひらめき、手に握られた布袋が小刻みに揺れていた。
袋の中身は乾いたパンとわずかな硬貨、それが彼女の全財産だ。
さらに後方で、背をやや丸めた異国の老人が追いながらも、周囲を鋭く観察していた。
ソンエイ。
白く長い顎鬚をたくわえ、褐色の肌には長い年月の風雪が刻んだ皺が深く走る。
黒曜石のような瞳は絶えず街路の死角を測り、風の匂いすら読み取るかのようだ。
「……お嬢さま、次の角で人が待ち伏せています。三人です」
走りながら放たれた低い声に、フランソワはわずかにうなずいた。
瞬間! 路地の影から三人の男が現れた。
革のジャケットに汚れたバンダナ、腰には短剣と錆びたフランベージ型の小剣。
獣のような眼が、女二人と老人を値踏みする。
「金髪の貴族……売ればいい金になる」
「女二人とジジイ一人、楽な仕事だ」
刃が陽のない空の下で鈍く光る。
ソンエイは一歩、静かに前に出た。
彼の呼吸は深く、下腹部に力を集める。
次の瞬間、地を蹴る音すらなく間合いを詰め、右掌が男の顎を下からすくい上げた。
顎を跳ね上げられた男の脳は一瞬揺さぶられ、視界が白くかすむ。同時に左肘が、相手の脇腹・脾臓の位置を正確に突き上げる。
低い衝撃音とともに、男の身体は「くの字」に折れ、その場に崩れ落ちた。
「ひっ……!」
二人目が短剣を振り上げるが、その腕は空を切る。
ソンエイの体が沈み込み、腰を支点に回転。足の甲が外から内へ薙ぎ払い、男の膝関節を正面から潰す。膝が逆方向に曲がり、男は絶叫をあげて倒れ込む。
最後の一人が突きかかる。
刃が伸びる瞬間、ソンエイは手首で側面を弾き、相手の腕に沿って滑り込み、胸へ掌底。肺の空気が一気に吐き出され、男は膝から崩れた。
「急ぎましょう」
老人は短く言い、二人を促した。
マリーは息を切らせながら尋ねた。
「お嬢様……いったい、どこへ向かっているのですか?」
「パリ郊外よ。ある村に軍が駐留しているの」
「軍……なぜ?」
「その軍を指揮している人に会うため」
「どなたです?」
フランソワの唇に、淡い笑み。
「……将来、この国の皇帝になる人」
未来形……?
マリーは足をもつれさせかけたが、背後から再び怒号が響き、考える暇を奪った。
狭い路地を埋め尽くす十数人の暴漢。
刃、棍棒、鉄パイプ。
ソンエイが前に出る。
体重を移し、掌底、肘打ち、足払いを連ねる。
4人、5人と地に伏していくが……。
破裂音!
ソンエイの右肩から血が噴き、身体が片膝をつく。
ピストルだ。フランス製、シャルルヴィル・マスケット銃を短銃化したもの。
黒色火薬の匂いが、風に混じって漂う。
「ソンエイ様!」
マリーが駆け寄ろうとするのを、フランソワが手で制した。
残った暴漢たちが舌なめずりをしながら近づく。
「これでジジイは終わりだ……あとは楽しく遊ばせてもらおう」
一人がフランソワの手首を掴んだ。
瞬間! フランソワは重心移動、腕の回転、腰の捻り。
背負い投げ。
男の背中が石畳に激突し、呼吸が止まる。
「なっ……!」
貴族の令嬢、フランソワが男を投げたのだ。
暴漢たちの動きが停まる。呆気に取られている。
だが、しょせん女一人だ。残りが飛びかかる。
フランソワは外受けで腕を逸らし、肘打ちを胸骨に。
低い足払いで体勢を崩し、掌底を顎に叩き込む。
動きは流麗で、ドレスの裾さえ乱さない。それでいて容赦ない攻撃。
次々と暴漢が倒れていく。
だが、銃声!
ソンエイを撃った痩せぎすの中年が、黄ばんだシャツとくすんだ金ボタンの上着を着て立っていた。
手にはシャルルヴィル式マスケット短銃。
「いくら腕が立とうと、これには勝てまい」
銃口がフランソワの額に押しつけられた。
しかし!
フランソワの手が閃き、次の瞬間、銃は彼女の手中にあった。
「……シャルルヴィル式。1777年型かしら。フリントロックの火皿が摩耗してるし、撃鉄のスプリングも弱い。おまけに火薬が湿ってる」
フランソワが眉間に皺を寄せる。それさえも美しい……。
親指で撃鉄を起こすと、砂時計のように火薬が火皿に落ちる。
「これで威張るなんて、滑稽だわ」
引き金を絞る。
火花! 煙! 弾丸が男の足元を抉る。
男は尻もちをつき、青ざめた顔で後ずさった。
「……この状態じゃ、あと何発撃てるかしら」
と、苦笑するフランソワ。
なぜ彼女が武術も銃も知り尽くしているのか。なぜ未来を知るように話すのか。
マリーは聞きたい衝動を飲み込んだ。
「行くわよ、マリー。ソンエイを支えて」
フランソワは再び走り出す。
その瞳の奥には、まだ見ぬ「皇帝」の影が燃えていた。
第二章 ワタル夢中 に続く。




