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瞳に落ちた王弟

「殿下、どちらへ?」

「市に出る。」

「先日行ったばかりでは?」

「つべこべ言うな。そう遅くはならない。」

「何か目的があるので?」

「まあそんなところだ。」

口うるさい側近のクシェルを撒いて屋敷を出た。

5日後と言った。この5日間、どこか落ち着かなかった。技術的に上手い演奏、感性のいい演奏ぐらいなら探せばいる。

だがどこか深海のような深さを感じさせるその音は、心の奥を揺らすようで、どうしようもなく惹かれていた。

楽師にならないかと聞いたのは本気だった。丁寧な口調ではっきりとした拒絶を示す声色に、押しても無駄だと気付いただけだ。

あの様子なら旅人だろうか。だが指には指輪をはめていた。結婚しているのだろうか。村娘にしては品が良かったような....

そんなことを思いながら歩いていた最中、聞き間違うはずのないあの音が聴こえてきた。

その心地よさに身を委てみる。自分の立場も忘れ、音に浸っていると時間が過ぎるのはあっという間だった。この音を鳴らすものはどんな顔をしているのだろうーーーー

深く被られたフード。声色と体格からして女だとは分かる。気になった事は知らなければ落ち着かないタチだ。

昔からの悪戯で気配を隠すことには慣れている。家族や教師たちを驚かせる悪戯をなんどやったことか。

こっそりとついて行き、女がフードを取ったその瞬間、後ろから声をかけた。

「お嬢さん。」

その顔を見たその瞬間、思わず後悔しそうになった。

(まさか、これ程とはな...)

ダークブロンドの髪にスモーキーグリーンの瞳。美しいと形容しても何ら問題ないその顔を見ればフードで隠さねばならないのも納得がいく。

だがこれは何だろうか。

かつて感じたことのない強烈な何かがその女にはあった。美しく純粋ながらもどこかに闇を宿したようなその瞳は男を吸い込んでいくかのようだった。

悪戯の代償だ。こんなところでこんな女に出会ってしまうとは。

美しい女など飽きるほど見てきた。結婚していないのは立場上、合う相手もいなければ縛られたいと思うような相手もいないからだ。

「........」

声を失った男に不安と疑問に満ちた顔が向けられる。

「...楽師は本当に嫌なのか?」

しつこい男は嫌われると分かっているはずなのだが。

「申し訳ありませんが...」

無理矢理連れて行って楽師にすることなど簡単だ。だが、それでは本当に欲しいものが手に入らない。

「結婚しているからか?」

「は?」

「指輪。しているだろう。」

「あ、ええ。夫は遠方に出ています。」

僅かに泳いだ視線と間。これは恐らくーーー

「嘘だな。」

「そのようなことは....」

「指輪の存在すら忘れてただろう。男避けか?」

女は観念したようにため息をついた。

「はい、そのようなものです。声をかけられたことがなかったので、一瞬忘れていました。」

「俺が初めてだと?」

「はい。後ろを取られたのも初めてです。」

「上手いだろ?俺は逆にこんな品よくハープを弾く村娘も初めて見たがな。」

「私はただの旅人です。近いうちに去ります。」

「連れないことを言うな。今はどこに滞在してるんだ?」

「近くの村に滞在しております。」

「そうか。もう帰るのか?」

「いえ、少し買い物をしてから帰ります。」

いい機会だ。せめて何か買ってやれるかもしれないと聞いてみる。

「何を買って帰るんだ?」

「菓子を少し....子供達も喜びますので。」

「村の子供たちか?ハープの弾ける旅人など大人気だろう。」

「まあ、どちらかというと遊び相手でしょうか。村の子供達は菓子など口にする機会もないですから。」

「そうか。なら菓子を買いに行くぞ。」

「そういうわけには参りません。必要な金は持っております。」

「渡すのが金だと味気ないだろう?」

「その方が個人的には有り難いのですが。」

レオの身分に気づいていてかいまいか、遠慮のない物言い。大抵の女は身分など知らずともレオの顔を見れば愛想を振り撒いてくるというのに。

「なら金貨を渡そうか?」

「金貨は....困ります。」

「困るならついて来い。子供達全員市に連れて来てやったとでも思えばいい。」

半ば強引に誘えば女は渋々といった表情を隠さず頷いた。

「...分かりました。ありがとうございます。」

「礼はいらない。俺の我儘だからな。いつもは何を買って帰るんだ?」

「ハニーケーキか蜂蜜パンです。」

「ならハニーケーキにするか。あっちに店があったな。」

呼びかけようとして名前を知らないことに気づいた。

「名前は?」

「セラと申します。」

「セラか。俺はレオだ。」

金貨で嫌がる女が王族などと聞け明日には旅に出てしまうかもしれない。

店に着くが、レオは村の規模を知らない。適当な数を買って渡せばセラは困った顔をした。

「こんなに沢山、いただけません。」

大した量ではないのだが。彼女にとってはそうではなかったらしい。

「もう買った。これなら足りるだろう?」

有無を言わさぬレオの雰囲気を察したのだろう。セラはそれ以上反論せず、受け取った。

「十分すぎるくらいですが...ありがとうございます。」

「だから礼はいいと言っただろう。お前は?ちゃんと食べているのか?」

「それなりには。」

見るからに細いセラのその言葉はどう考えても嘘だ。だがまだ赤の他人の自分が言ったところで意志の強そうな彼女は聞く耳を持つまい。

「....甘い物は好きか?」

店の前で菓子をじっと見ていたセラの横顔を思い出した。

「ええ、まあ」

「なら今度は菓子を持ってくる。気をつけて帰れ。」

「そこまではしていただく必要はありません。これだけでも過ぎたものです。」

「ダメだ。どうせそれも子供達に回すんだろう。俺が渡したいのはお前だ。次も来るんだぞ。」

眉間に皺を寄せるセラは何を考えているのだろう。

「...分かりました。」

「それでいい。次来るのはいつだ?」

「5日後でしょうか。」

「なら5日後だ。またな。」

「はい。」

歩き去る彼女の背を見送った。

さて、たまには大人しく帰ろうか。残るこの音を喧騒でかき消したくない。

滅多に早帰りしない自分が帰れば使用人たちはどんな顔をするだろう。そんなことを考えながら邸に戻ればーーーー

期待通りだった。

「っ!殿下!?もうお戻りに...!」

「驚いたか?」

ニヤリと笑う主君に慌てふためく侍女たちは見ていて面白いほどだ。

「殿下、ほどほどになさいませ。侍女たちが困っております。」

奥から出てきたのは乳母でもあるグレータだった。

「ああ、グレータ。分かってるよ。期待通りの反応だったのでついな。」

「随分ご機嫌がよろしいようですが。」

「そう見えるか?」

「それに落ち着いておられるように見えます。」

流石に乳母は鋭い。使用人たちを困らせるレオもこの乳母には中々頭が上がらなかった。

「そうだな。早めに帰ろうと酔狂なことを思うくらいには落ち着いている。」

「何かあったのですか」

「さあな?」

「全く...ご自分の身を滅ぼすような真似はおやめくださいませ。」

「別にそんなんじゃない。湯を用意してくれ。」

「今しているところです。」

湯から上がり部屋に戻ると香の匂いに包まれる。そういえば彼女からは薬草の匂いがした。それも一つではない。複数の香りが重なっていた....薬師かなにかだろうか。知りたい。彼女のことを。誰かにこんな欲が湧くのは初めてかもしれない。

(いや、一度あったか....)

あの時もハープの音だった。その主のことはついに知ることもなかったが。

(今回は逃がさない)

獲物でも見つけたかのように目を細めながら伏せられた目を思い出していた。

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