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第6話 礼儀、とは?

 紙袋の口からこぼれるレモン砂糖の香りが、土鍋の湯気と混じる。

 黛ヴァニラは玄関に靴を揃えたまま、ぺこぺこと頭を下げ続けていた。


「本当に夜分にすみません ご挨拶だけのつもりで……これ、安いけど じゃなくて、小さめですけどクッキーを……最低限の、礼儀なので……」


 両手で差し出された紙袋は、軽い。

 レシートの端が口からのぞいていた。

 セールの赤い印字。


 弥彦は受け取り、玄関の脇にそっと置いた。

 レシートは見ない。

 見ないが、見えてしまう。


 金が、ないな。


 ヴァニラのワンピースは糊の跡が残るほど丁寧に洗われ、袖口は少し擦れている。

 肩に提げたトートは、縫い目を自分で直したのか白い糸が点々。

 そして――視線は、網の上の鯖に固定。


 じー。


 喉がこくりと動く音が、こちらまで聞こえた気がした。


「……く、食うか?」


「え、そそそそそんなぁ! そんな、勝手に来て、上がりこんで、ごはんまでいただくなんて、失礼ですよぁ!」


 否定しながら、足は廊下の一歩目を踏み、二歩目で敷居を越え、三歩目でちゃぶ台の前に正座していた。

 座った自分に気づいて、慌てて立ち上がろうとして、また正座に戻る。


「いや、帰るのも失礼というか えっと、礼儀の定義ってむずかしいですね」


 ポンコツ、確定。


 網の上では、鯖の皮がぱりっと鳴り、脂が弾けて白く光る。

 退魔師時代に“空腹時の護符の効き目は三割増し”という謎の俗説を聞いたが、今なら信じそうだった。


「椅子はないから、そのまま座っててくれ。茶碗出す」


「すみません ちゃわん……あ、器ですね 私、小さいので大丈夫です ちっちゃく盛ってください」


 小さく、という依頼ほど大盛りになるのが世の常だが、今日は約束どおり控えめに。

 土鍋を開けると、粒の立った白がふわっと持ち上がる。

 味噌汁は長ネギと油揚げが船のように漂い、湯気の向こうでゆらゆら。

 たくあんは三切れ。

 箸は二膳。


「じゃあ……食うか」


「い、いただきます」


 ヴァニラは両手を合わせ、茶碗を胸元に引き寄せた。

 その仕草だけは、妙に丁寧だ。

 だが次の瞬間、焼き魚に対する経験値のなさが露呈する。


「この、きつね色の面、どこから攻めるのが正規ルートなんでしょうか……」


「背から。皮をめくる。骨を崩さないように、身を押さえて――そう」


「そう……あ、わ、わたし、指が勝手に」


 彼女の指先が白魚のように滑り、皮がぺりり、ときれいに剥がれた。

 吸血鬼の反射神経、変なところで仕事が早い。


「すご……いや、普通だな」


「褒められて伸びるタイプです」


「褒めてない」


 箸先でほろりと外れた身を、ヴァニラが恐る恐る口に運ぶ。

 噛む。

 瞳が、ぱーっと光った。


「……しょわぁ……」


 音にならない感嘆が、喉の奥で泡のように弾けた。

 次のひと口は躊躇がない。

 三口目で米へ。

 四口目で味噌汁。

 五口目にはたくあんでリセット。

 動きはぎこちないが、順序だけは完璧な理にかなっている。


「落ち着け。骨に気をつけろ」


「骨、はい。骨……この細いの、抜いていいですか 抜きますね」


 するり。

 中骨が、漫画みたいに一本で抜けた。


「いやどういう物理だそれ」


「礼儀です」


「礼儀の定義が怖い」


 ちゃぶ台の向こう、ヴァニラは茶碗の縁に額がつくほど近づいて、真剣に食べている。

 頬がゆるみ、耳がぴくりと動いた気がした。

 獣ではないのに。

 そして、ぽつり。


「……今日、実はお金がぜんぜんなくって」


 箸が止まる。

 湯気の向こうで、言葉の輪郭だけがくっきりした。


「引っ越し代で空になって、鍵交換が予定より高くて、冷蔵庫はからっぽで……さっきのクッキーも、最低限の礼儀だって思って、えいって……半額の時を狙って……」


 最後の方は蚊の鳴くような声になって、背筋が気持ちだけ小さくなる。

 両手は茶碗を包む形のまま。

 視線は鯖へ、そしてすぐに伏せ目。


「……そうか」


 やり過ごせ。

 家訓が背中を押す。

 同情も、施しも、余計な貸しは後で足をすくう。

 だが――


 腹は、貸し借りでは動かない。


「半身、持ってけ。明日の分」


「えっ」


「包むから。ラップはない。新聞でいいか」


「し、新聞……匂いが写ったら、またおいしいですね」


「その理論は初耳だ」


 半分は皿に残し、半分は骨を取って紙でくるむ。

 ヴァニラは両手でそれを受け取って、すごい宝物みたいに胸に抱いた。


「ありがとうございます……すみません、ほんとに、すみません」


「礼はそのクッキーで相殺」


「あのクッキー、三枚入りなんですけど 二枚はわたしの朝ごはんにしても……」


「相殺どころか未払いだな」


「後払いでお願いします」


 ぽろりと本音が出て、本人が自分で赤くなる。

 耳まで。

 真紅の瞳と同じ色。


 ちゃぶ台の上で、たくあんが一切れ残った。

 ヴァニラが視線で迷子になる。


「食っていいぞ」


「でもそれは芥見さんの」


「俺、たくあんは最後派じゃない。君は最後派だ。違うか」


「たぶん最後派です。いえ、今は最初派に改宗します」


「好きにしろ」


 小さな音で、ぽり。

 その一噛みが、変に満ち足りた音だった。


「ところで」


 弥彦は湯飲みを置き、ようやく核心に触れる。


「なんで隣に引っ越して来たんだ?」


「空きが、そこだけでした。あと、学校が近いのと、陽当たりもそこまで激しくなくて……それと」


 言いよどみ、彼女は首をかしげる。


「なんとなく、ここなら大丈夫って思ったんです。根拠はないんですけど、ありますけど、ないです」


「どっちだ」


「直感です」


 直感。

 最も信用してはいけないやつ。

 だが、最も便利な時もある。

 やり過ごせ。

 今夜は、それでいい。


「食器は流しに置いといてくれ。明日、スポンジ買ってくる」


「スポンジ……わたし、明日はお箸を買います。今日、芥見さんのを借りちゃったので」


「箸は二膳ある」


「じゃあ三膳目を。礼儀です」


「礼儀のインフレやめろ」


 笑いそうになる口元を、湯飲みで隠す。

 土鍋は薄く湯気をつづけ、部屋の隅の冷蔵庫が小さく唸った。

 玄関の外では、夜風が古い共用廊下を撫でていく。


「ごちそうさまでした」


「……あいよっ」


 ヴァニラは立ち上がると、胸に鯖の包みを抱き直し、ぺこりと深く頭を下げた。

 そして、扉へ向かって三歩。

 くるりと振り返る。


「その、また匂いがしたら、つい来ちゃうかもしれません」


「来るな」


「は、はい。気をつけます。つい来ます」


「意味を噛み砕いてもう一回言え」


「気をつけて、つい来ます」


 ポンコツは、玄関で元気よく靴を履き、丁寧に揃えて出ていった。

 扉の向こうに消える足音が、しばらくしてから小さく戻ってくる。

 ぴんぽーん。


「クッキー、一枚だけ、今食べてっても」


「いいから帰れ」


「はい。次はちゃんとお箸を持ってきます」


 扉が閉まる。

 静寂。

 ちゃぶ台の向こう、半身ぶんの鯖が、まだ温かい。


 やり過ごせ。

 家訓は正しい。

 だが、今夜だけは少しだけ、外してもよかった気がした。

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