第87話「線香のかをり」
「……泣いて、いる……?」
シュワリンガーは思わず息を呑んだ。
先ほどまで毅然としていたリリスの頬を、透明な雫が静かに伝っていく。
その姿は、彼が知る冷ややかな魔王候補の顔とはまるで違っていた。
「なぜ……あなたが……」
困惑が胸を覆い、言葉が途切れる。
泣く理由が、どうしても理解できなかった。
だがリリスは涙を拭おうともせず、ただ静かに口を開いた。
「……その明子殿は……平気なのか?」
自分のことではなく、彼の大切な存在を案じる問い。
涙の理由を語らず、あくまで明子を気遣うその姿に、シュワリンガーはさらに言葉を失った。
「え、えぇ……」
声はまだためらいを含んでいたが、次第に落ち着きを取り戻していく。
「朝から蓮様がお話をしてくださったんです。
明子も胸の内を少し吐き出せたみたいで……」
その光景を思い出すように、彼の瞳が和らぐ。
「それから、亡くなったチロの供養をしていただきました」
蓮の低く穏やかな読経の声。香の煙のゆらめき。
手を合わせる明子の肩には、ようやく安らぎの色が宿っていた。
「ならば──こんな所に留まらず、早く明子殿のもとへ行くが良い」
リリスの声は涙を隠すように、硬く、冷たさを装っていた。
「しかし……」
ためらうように振り返るシュワリンガー。
「構わん」
短く、強く言い切る。
間髪入れずに、バルがひょいと背に手を当てた。
「ほらほら〜! ぐずぐずしてる場合じゃないッスよぉ!」
ぐいぐいと押され、シュワリンガーは思わず前につんのめる。
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げ、彼は家の中へと消えていった。
リリスはその背に視線を向けることなく、くるりと背を向ける。
わずかに肩が震えているのを、誰も口にはしなかった。
やがて──
「行きましたよ〜」
バルがぱたぱたと戻ってきて、リリスの横に立つ。
その声を聞いた途端、リリスの膝から力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。
両手で顔を覆いながら、声を殺すように吐き出す。
「……あんな話、聞かされたら……怒るに怒れるわけないじゃない……っ」
バルはしゃがみ込み、そっとリリスの隣に並ぶ。
からかうでもなく、ただいつもの調子で、けれど柔らかい声音で。
「ほら、蓮兄ぃ戻ってくるッスよ。
その目、赤いまま見られたら……リリス様、きっと困っちゃいますよ?」
返事はない。
けれど、その指の隙間からこぼれる涙は、ほんの少しだけ和らいでいた。
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一人称書きやすかった……




