第86話「魔族と犬」
階段を一段、また一段と踏みしめる。
考えまいとしても、心の中で渦を巻く。
明子様──。
その名を思い浮かべた途端、不安が鋭い爪を立てる。
このままでは、きっと……。
足を止めることが怖くなり、自然と駆け足になる。
鳥居をくぐると、こじんまりとした寺が現れた。
本堂、その近くの宿舎らしき建物。
こんな夜更けにも明かりが灯り、人の気配を示している。
その時、戸が開き、一人の男が姿を現した。
「……どなたですか?」
低い声。警戒の色を隠そうともしない。
───咄嗟に、私はいつもの仮面を被った。
口角を上げ、芝居がかった所作で一礼する。
「申し遅れました。私の名は──シュワリンガー・ネスタール。
第五層ネスタール領を治める、魔王候補にございます」
その言葉に自ら酔うように笑みを貼りつけた、その刹那。
──『信じて』。
あの小さな少女の声が、頭の奥で反響する。
信じろ? 信じられるものか。
仮面を被らねば、人は妬み、嫉み、嘲笑する。
演じなければ……
演じなければ、誰も私を見ようとしない。
『ワンッ』
不意に背後から声が響く。
振り返ると、そこに姿はない。けれど確かに聞こえた。
そうだ、私は……。
胸の奥に、冷えきっていたものを溶かすような温かさが流れ込む。
「……もし宜しければ。これから行く先についてきていただけないでしょうか?」
芝居がかった笑みではなく、ただ真っ直ぐに言葉を紡ぐ。
──断られるだろう。
そう思った。
魔王候補同士、敵対する立場にある自分が、要件も告げず「ついて来い」と言うなど、常識で考えれば有り得ない。
「……わかりました。行きましょう」
返ってきたのは、意外にも静かで揺るぎのない答えだった。
「………」
声が出ない。
どうして……? 私は敵であるはずなのに。
胸の奥で、長年つけてきた仮面にヒビが走る音がした。
「支度をしてきますので、少々お待ちください」
振り返ることもなく、男は足早に家の中へ向かっていく。
「な、何故です……? 罠かもしれない……のですよ?」
自分の口から零れる言葉は震えていた。
ぽろぽろと音を立て、仮面が崩れていく。
戸に手をかけたまま、彼はふと振り向いた。
月明かりに照らされる横顔は、真剣そのものだった。
「……困っていることがあるのでしょう?
誰かを救えるのなら、それはどんな理屈よりも大切なことですから」
仮面が音を立てて崩れる。
ポロポロと、長年積み重ねてきた殻が剥がれ落ちていく。
「どうか……どうか……」
胸に押し込めていた思いと共に、堰を切ったように涙があふれ出す。
「……明子……っ……様を……」
途切れ途切れに、押し殺してきた声が震えながら漏れる。
隠していた感情が、一気に解き放たれていく。
「チロ……が……託してくれた……彼女を……どうか……助けて……ください……っ」
言葉は涙に溶け、嗚咽に混じりながら、それでも必死に紡がれていく。
◆◆◆
「──その後、行きすがら状況をお話し、今に至ります」
語り終えると、シュワリンガーは深々と頭を下げた。
「この度は……他の魔王候補でありながら、ご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます」
言葉を区切り、さらに深く頭を垂れる。
その背に決意が滲んでいた。
「私の命はどうなっても構いません。どうか……どうか明子様だけは……お見逃しください……」
声が震えても、最後まで言い切る。
頭を下げたまま動かない。
その時──
ポタ、ポタ、と静かな空間に音が落ちた。
思わず前を向く。
そこには、涙をこぼすリリスの姿があった。
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