第85話「不甲斐なさと…」〜シュワリンガーside〜
チロが亡くなってから、明子様の容体は目に見えて悪くなっていった。
食事も細くなり、一口、二口つけると、それ以上はもう箸を置いてしまう。
「シュワちゃん」と呼ぶ声も次第にかすれ、チロの写真を抱きしめては、長い時間じっと外を眺めて過ごすことが増えていった。
医師を呼んでも、返ってくるのは「栄養を摂るように」との言葉だけ。
点滴の回数ばかりが増え、やせ細った手には内出血の痕がいくつも浮かび、見るに堪えぬほど痛々しい姿になっていた。
──以前のように、優しく微笑む彼女に戻ってほしかった。
だが、その願いは日に日に遠ざかっていった。
そんな折、ヘルパーの女性から「供養」というものの話を耳にした。
故人の冥福を祈る、静かな儀式のようなものだという。
せめてそれが、明子様の心を慰める助けになるのなら──そう願って、私は近くの寺を訪ねた。
山門をくぐれば、きっと心に寄り添う言葉のひとつはあるだろう。
そう信じていた。
だが、僧侶は帳面を開きながら、眉ひとつ動かさずに言った。
「犬一匹のために供養を……ですか。ええ、可能ではありますが、読経料・お布施・位牌の準備が必要になります。こちらが金額です」
差し出された紙には、桁の並んだ数字がいくつも並んでいた。
「ご家族の方なら、この金額程度は当然かと」と僧侶は何気なく付け加えた。
淡々とした口ぶりに、とくに悪意はないのだろう。
だがその言葉は、私が望んでいたものとはまるで別の場所から発せられたように感じられた。
心の奥底で求めていたのは、金額でも、手続きでもなかった。
「わかりますよ」「大切な存在でしたね」──ただそんなひとことさえあればよかったのだ。
だが返ってきたのは、どれだけ払えば供養ができるか、という事務的な答えだけ。
私の痛みと、彼の言葉は交わらない。
空中で触れることなく、すれ違い、落ちていく。
その落差の深さに、思わず呼吸を忘れそうになった。
僧はなおも合同供養ならば費用が抑えられる、塔婆はどうするかと説明を続ける。
こちらの迷いも、胸の痛みも、そこには映っていなかった。
ただ事務の一つとして処理しているにすぎない。
外へ出ると、石段が途方もなく長く感じられた。
足を止め、腰を下ろした瞬間、背中から力が抜け落ちた。
心を支えるはずの場所に拒まれたようで──打ちひしがれるという言葉だけが、胸の奥で重く響いた。
──結局、こうなるのだ。
人間に近づき、心を寄せようとしたところで。
彼らは私の痛みに気づかぬ。いや、そもそも気づこうとしない。
「供養」などと口にしても、それは取引の一つ。
金額のやりとり、形式的な言葉。
そこに心はなかった。
……いや。
そもそも私が求めていたものなど、最初から存在しなかったのだ。
私は人を信じることができない。
だから、人に頼ることもできない。
ただ利用するか、利用されるか──そのどちらかしかない。
明子様を思って寺を訪れたのも、結局は自分の弱さゆえ。
他者に救いを求めた己の浅ましさに、ただ気づかされるばかりだった。
打ちひしがれる彼女の姿を思い出す。
──無力さを噛み締める自分を、私は心底嫌悪した。
どれだけ歩いただろう。
気付けば、公園のベンチで腰を下ろしていた。
辺りはすっかり暗くなり、行き交う人々の姿もまばらだ。
街灯の光に浮かぶ影は、どこか自分の孤独を映すかのように歪んで見える。
そんな時──
「───おにぃちゃん、困ってる人?」
顔を上げると、温かそうなニットの帽子を被った少女が立っていた。
「……貴方は……?」
声が少し、震えていることに気付く。自分でも不意だった。
誰かに心を覗かれているような、奇妙な感覚が胸を締めつけた。
「私?私は凛て言うんだ!よろしくねっ!」
「よ、よろしくお願いします……しかし、お嬢さん。こんな夜更けに一人で歩いていたら危ないですよ」
「んーん。オバちゃんが近くにいるから大丈夫っ!」
「そ、そうですか……」
少女は近づき唐突に頭を撫でてきた。
「…………おにぃちゃん、泣いてる」
何を言っているんだろう。この子は…
その無邪気な指摘が、なぜか胸に重くのしかかる。
「泣いてなどいませんよ」
即座に否定する自分の声に、微かな動揺が混じった。
「泣いてるよ」
毅然と言い放つ少女
「助けて、誰か助けてって……心が泣いているの。」
「そ、そんなわけない……私は……」
──言葉が詰まる。
少女の瞳が、まるで夜の闇を突き破ってこちらを照らしてくるかのように澄んでいた。
私は嘘をつくことに慣れている。
平然と笑みを作り、冷ややかに振る舞い、誰にも心を見せないように生きてきた。
それなのに、この幼い子どもの前では、言葉が喉の奥で絡まり、どうしても誤魔化せなかった。
「……心が泣いている、か」
思わず呟く。
自分では聞こえないようにしていた声を、見透かされたようだった。
「泣いてる人はね、放っておけないんだよ」
凛と名乗った少女は、にこりと笑って言った。
小さな手が伸ばされる。
その仕草はあまりにも自然で、まるで私を救うのが当然だと言わんばかりだった。
「だから──“信じて”」
……信じろ?
──馬鹿な。
誰も信じられず、裏切られることを恐れてきたこの自分に、信じろだと?
否定の言葉を呑み込みながら、私は恐る恐る手を差し出した。
ほんのわずかな震えを、夜風のせいだと自分に言い訳しながら。
次の瞬間、凛の小さな掌がその手をぎゅっと掴んだ。
──温かい。
その確かさに、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
「じゃあ、行こう!」
凛がぱっと笑って、私の手を引く。
「え、どこへ──」と戸惑う間もなく、少女は勢いよく駆け出した。
引かれるままに立ち上がると、不思議なことに目の前の景色が一変した。
曇っていた視界が晴れていくように、街灯の光がやけに眩しく、夜の空気が澄んで感じられる。
長い間閉ざされていた心の扉が、音を立てて開いていくようだった。
そして───
凛は足を止め、振り返って微笑んだ。
「ここだよ」
「……ここは?」
石段の上に佇むのは、静かに闇を抱く古寺。
灯籠の淡い光に浮かび上がる山門の姿に、思わず息を呑む。
「ここはね、天明寺。おにぃちゃんの悩みを、きっと解決してくれるよ?」
「……っ!」
胸の奥がざわめく。
その名を耳にした瞬間、私の心は凍りついた。
「しかし……ここは……リリス・ヘルバウンドの……」
「リリスおねぇちゃんを知ってるの?」
凛の無邪気な問いに、私は思わず息を呑んだ。
「し、知ってるも何も……彼女は上位貴族。私にとっては対立候補でもあり……」
言いかけた言葉を、凛の声が遮る。
「大丈夫!」
その響きは驚くほどまっすぐで、私の警戒をあっさり突き崩していく。
「オバァちゃんが言ってたの。リリスおねぇちゃんはね、心の優しい人だって」
幼い笑顔に宿る確信は、理屈ではないのに抗えない。
私の中で、恐れと戸惑いがせめぎ合っていた。
「───でもね、“嘘”はついちゃ駄目」
「っ……!」
その言葉が鋭く突き刺さる。
長い間、嘘と虚勢で塗り固めてきた仮面に──ヒビが走る音が、確かにした。
「さぁ、いってらっしゃい!」
凛の小さな手が、私の背を軽く押す。
足が自然と前へ出る。
抗おうとしても抗えない。
……気付けば、石畳の階段を一段、また一段と登っていた。
闇の中に伸びるその道が、どこへ続くのかも分からぬまま………。
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その背を見送るように、凛は小さく笑った。
「ふふっ、くすぐったいよぉ〜」
まるで隣に誰かがいるかのように。
「どういたしまして。きっと蓮さんなら、何とかしてくれるよ」
「だから安心してね──チロ。おにぃちゃんのお母さん。」
彼女の言葉に応えるかのように、夜風がやわらかく頬を撫でていった。
もちろん、階段を登る彼の耳には届いていない。
ただ黙々と石畳を踏みしめる音だけが、静かな夜に響いていた。
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長くなったので2話に分けましたがさらに増えてしまいました…
次回に続きます(´・ω・`)




