第84話「仄暗い世界」〜シュワリンガーside〜
昔、私は母と二人、山間の小さな家で暮らしていた。
質素な暮らしではあったが、そこには確かな温もりがあった。
母はいつも笑みを絶やさず、粗末な食事にさえ野の花を飾ってくれた。
子どもながらに、あの時間が永遠に続くのだと信じていた──あの日、ネスタール家の使者が現れるまでは。
「……前当主の血を引く子。現当主の慈悲で貴様を養子として末席に加えてくださるそうだ」
彼らが指差したのは、この私だった。
母は必死に私を庇った。
「この子は普通の子です! どうか連れていかないでください!」
震える声で、それでも鋭い光を宿した目で。
だが鋼鉄の鎧に身を包んだ彼らにとって、母の声など雑音にすぎなかった。
武器を構える姿を見て、私は悟る。抗えば母は殺される、と。
だから私は母の手を振りほどき、笑ってみせた。
「……母さん。僕、行くよ。今より裕福な暮らしができるんでしょ? 最高じゃないか!」
もちろん、そんな気持ちはひとかけらもなかった。
使者は笑い、母は泣いていた。
その涙に背を向けたまま、私は連れ去られた。
──それが母の命を削ることになるとは知らずに。
数年後、あの使者から母の死を聞かされた。
もともと身体が弱く、私を奪われてからふさぎ込むようになったのだ、と。
母を救うために選んだはずの行動が、母を追い詰める結果となった。
──その事実が、私を壊した。
以来、私にとって世界は「信じられる者はもういない」という暗闇に変わった。
現当主は私を無視した。
食卓に並んでも存在しないもののように扱い、言葉を交わすことすらなかった。
同年代の子供たちはさらに残酷だった。
背に泥をかけられ、衣を裂かれ、容赦なく罵声を浴びせられた。
「隠し子の分際で」
「穢れた血を持つやつ」
嘲笑の言葉は、刃より鋭かった。
孤独に耐え、周囲の視線に怯えながら過ごす日々。
使用人たちからも侮蔑と嘲笑を浴び、誰一人、味方はいなかった。
だが、ある日──
「第5層の魔王候補」に選ばれたことで、状況は一変する。
無関心を貫き、影のように私を無視し続けてきた当主は、掌を返すように「我が誇り」と持ち上げ、急に可愛がるそぶりを見せ始めた。
しかし、その変化は安らぎを与えるどころか、むしろ周囲の憎悪を呼び起こした。
子供たちは今度は嘲笑ではなく、嫉妬と敵意を向けてきた。
「なぜ、あんな奴が」
「俺たちの方が相応しいのに」
かつては見下すだけだった視線が、今や暗い殺意と妬みに変わり、私の居場所をさらに苦しいものにしていった。
結局、私にはどこにも居場所がなかった。
だから人間界に降り立った時、私にはもう「信じる」という感情を失っていた。
信じたところで裏切られる。
寄りかかれば押し潰される。
──そうやって生き抜いてきたのだから。
そんな時だった。
道端で出会ったのは、白髪の老人・明子と、足取りも覚束なくなった老犬・チロ。
「……これは、好機か」
瞬間、私はそう思った。
目の不自由な老人、老いさらばえた犬。
懐に入り込むことなど、今までの経験からすれば容易い。
利用して、必要なくなれば捨てればいい。
──それが、私の生き方だった。
だが。
「あなた、行くところがないのでしょう?」
そう言って微笑み、戸を開いた明子は、身寄りも居場所もない私をあっさりと迎え入れた。
明子の家に迎え入れられてから、日々は静かに過ぎていった。
古びた家屋はところどころ傷んでいたが、磨き上げられた床や庭の鉢植えが、その暮らしぶりを語っていた。
「シュワちゃん、チロの散歩をお願いできる?」
「……えぇ、畏まりました」
最初は警戒していた老犬チロも、何日か経つと手から餌を食べるようになった。
人を利用するために入ったはずの場所で、犬の温もりを感じることになるとは──私自身、思いもよらなかった。
ある日。
買い物を終えた帰り道、声をかけてきたのは明子のヘルパーをしている女性だった。
彼女は軽い世間話のように、ぽつぽつと明子の身の上を語った。
「旦那さんはね、数年前に旅立たれてしまったのよ」
「……そうですか」
「子どもさんはいらっしゃらなくて……残ったのはチロちゃんだけ。ご夫婦にとっては、もう本当に子どものような存在だったの」
女はそう言いながら、優しくチロの頭を撫でた。
老犬は尻尾を振りながら、足元でくつろいでいた。
(子供のように……、か)
胸の奥で言葉が反響する。
それは私にとって、ずっと遠いもの。
与えられたことも、誰かに与えたこともない温かさ。
家に戻ると、私を待っていたのは柔らかな匂いのする夕餉と、変わらぬ微笑み。
その空気は、古い記憶の中にある場所…………「家」と呼ぶにふさわしいものに思えた。
---
それからチロの足取りは、日に日におぼつかなくなっていった。
最初は少し転びやすくなった程度だったが、やがて立ち上がるのにも時間がかかるようになり──ついに、散歩もカートを使わねばならなくなった。
「チロ、行くよ」
明子が声をかけると、チロは尻尾を小さく揺らす。
無言でチロを抱き上げ、そっとカートに乗せた。
体温がかすかに伝わり、軽くなった重みに胸の奥がざわついた。
「……だんだん散歩も短くなってきたわね」
カートを押しながら歩く道すがら、近所の人が声をかけてくる。
「チロちゃん、今日も元気そうねぇ」
明子は笑顔で応じるが、その横顔はどこか儚かった。
帰宅後、縁側に座った明子がつぶやいた。
「この子はね……私たちにとって、本当に宝物なの。夫が旅立ったあと、どれだけ救われたか……」
返す言葉を見つけられなかった。
---
夜更け、家は深い静寂に包まれていた。
私は刃を手にして立ち上がった。
この家を乗っ取るのは容易い。
目の不自由な老婆ひとり。あとは老犬がひとつ。
「……これで、この家は私のものに」
低くつぶやき、寝所の前に足を運ぶ。
その瞬間──
廊下の軋む音がした。
闇の底からにじみ出るようなその音に、胸がぎゅっと掴まれる。
振り返ると、そこにいたのは。
立ち上がるのもやっとのはずのチロだった。
よろめきながらも、まっすぐこちらへ向かってくる。
痩せた脚は震え、呼吸は荒い。
それでも、覚束ない足取りで一歩、また一歩と進み出る。
爪が床を引きずり、体が揺れる。
倒れそうになりながらも、必死に前へ。
──まっすぐ、私のもとへ。
やがて目の前に辿り着いたチロは、声を発することなく立ち止まった。
その瞳は、弱っているはずなのに、鋭く澄んでいた。
──守る者の目。
あの時、母が私を庇った時と同じ目だった。
「……っ」
思わず後ずさる私に、チロは吠えなかった。
ただ震える体で踏ん張り、私を見据え続けていた。
やがて、ふらつく足取りで近づき──
乾いた舌で、私の手をそっと舐めた。
「……!」
刃を握る手に、濡れた温もりが伝わる。
その感触に、記憶が重なった。
亡き母がそうしたように、自分を撫でてくれた、あの温かい手の記憶が。
「……母さん……かぁさん……ごめん……ごめんなさい……」
膝をつき、声を押し殺して泣き崩れる。
刃は床に転がり落ち、チロはただ寄り添い、泣きじゃくる子供をあやすように私の手を舐め続けた。
それから、少しずつ変わっていった。
チロを通して明子様とも言葉を交わすようになり、彼女が呼ぶ「シュワちゃん」という愛称も、次第に嫌ではなくなった。
けれど──時は残酷だった。
チロの容体は日に日に悪化していく。
呼吸は浅く、途切れ途切れになり、胸の上下も頼りなげだった。
明子様はずっと傍らに膝をつき、小さな体を包み込むように撫で続けていた。
「チロ……いかないで……お願い、私を置いていかないで……」
震える声は、幼子に縋る母のようにか細かった。
その背を支えるように座り、肩にそっと手を置いた。
「……大丈夫です。最後まで……一緒にいます」
チロの目はもうほとんど開かず、かすかな光だけが残っていた。
それでも、その視線はまっすぐに私たちを見ているように感じられた。
「チロ……チロ……」
頬を涙が伝い、毛並みに落ちる。
私も、その頭を撫でる手を止められなかった。
やがて──チロは小さく口を開き、ひときわ深く息を吸い込む。
次の瞬間、細い胸がかすかに震え……静かに吐ききった。
────それきり、二度と息は戻らなかった。
明子様は声にならぬ嗚咽を漏らし、チロの名を何度も呼んだ。
「いかないで……おねがい……チロ……チロ……」
その隣で、私はただ明子様の肩を抱き寄せることしかできなかった。
自分の胸の奥も熱く、締めつけられるように痛い。
堪えきれずに、涙がこぼれ落ちた。
「……チロ……」
掠れた声は虚しく宙を舞い、返事はどこからも返らなかった。
それでも、その名を呼ばずにはいられなかった。
その夜、互いの肩に寄り添い、眠れぬまま静かな時間を過ごした。
小さな家の中で──チロの不在が、ただ深い静けさとなって広がっていた。
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