第32話「月の光」
昼下がり。天明寺の縁側。
窓の外では、乾いた風に吹かれて枯れ葉がさらさらと転がっていく。
蓮が湯呑を盆にのせ、そっとリリスの前へと差し出した。
「熱いので、お気をつけてください」
「……う、うむ。かたじけない」
リリスが湯呑に手を伸ばした、その瞬間──
ふいに、蓮の指先とふれ合った。
「……っ!」
ビクリと跳ねた手がわずかに揺れを生み、湯呑がかたんと音を立てる。
幸い倒れることはなかったが、茶がほんの少しだけ畳にこぼれた。
「──大丈夫ですか?」
すぐに蓮が身を乗り出すが、リリスははっと顔を背ける。
「あ、あう……ご、ごめんなさいっ!」
真っ赤な顔のまま立ち上がり、ばたばたと廊下の奥へと駆けていく。
蓮がそっと名を呼ぶが、その声はもう届かなかった。
* * *
──その後。
自室の窓辺に座り、リリスはぼんやりと外を眺めていた。
外はすっかり暮れていた。
夜風に揺れる木々の間から、空に浮かぶ月が顔を覗かせている。
(……なんじゃ、我は……)
胸の奥が落ち着かない。鼓動が、まだ少し速いままだ。
──あの時。
蓮の指先にふれた瞬間の感触と、見つめられたまなざしが、いつまでも頭から離れなかった。
(……あれしきのことで、取り乱すとは……なぜじゃ。我は、ただ……)
言葉にならぬもやもやが、心の底で渦を巻く。
(ま、まさか……これが……“胸キュン”……?)
ふと、リリスの脳裏に蘇るのは、かつて読んだ古文書の1ページ。
「胸がキュンとするような衝撃……まるで心臓がぎゅっと掴まれるような…」
(たしかその次のページには──)
「──胸を抑え倒れていた!?」
リリスはぞくりと肩を震わせた。
「も、もしや……し、心臓の病……!?」
慌てて自分の胸に手を当てる。
鼓動は早く、体温も上がっているように感じる。
(な、なんということじゃ……! 我に限ってそんな……!)
がたん、と椅子から立ち上がり、部屋の中を行ったり来たりするリリス。
(い、いや……落ち着け。我は魔族、そんな……)
ふと立ち止まり、息を吐いて呟いた。
「……いや、そうじゃない。これは……」
──その時。
「リリスさん?」
扉の外から、蓮の声が響いた。
「……蓮、か」
「……ご気分は、大丈夫ですか?」
少し迷って、リリスは返した。
「蓮……少し、話さぬか?」
──夜の境内。月光の下。
淡く滲むような光が、ふたりの足元を照らしていた。
夜空に浮かぶ月は、まるで吐息のように白く澄みきっていた。
「綺麗な月ですね……」
蓮が、ふと空を見上げて呟いた。
「そうじゃな──」
しばしの沈黙。
リリスは、ふうと息を吐いてから、意を決したように言った。
「──"人間界"は綺麗なもので満ち溢れておる。」
「人間界………ですか?」
蓮が少し驚いたように問い返す。
「蓮……そなたに、話しておかねばならぬことがある」
蓮が静かにうなずく。
リリスは一歩、月明かりの下へ進み── ゆっくりと顔を上げた。
「我は──」
「我の名は、リリス・ヘルバウンド」
「魔界第七層より来たりし、魔王候補じゃ」
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