第3話「写経、それは暴走する筆先」
「今日は、写経体験があるんです。よろしければ、ご一緒にどうですか?」
それは、彼──天川 蓮が何気なく差し出してくれた言葉だった。
写経──
ふむ、文化的だ。
文字を書くことで心を整え、精神を統一し、煩悩を沈める……
なるほど、人間界の“結界儀式”か。研究する価値はある。
私は冷静に頷いた。いや、ほんとに冷静に。たぶん。
──そして、私は筆を握っていた。
静かな本堂。すうすうと流れる風。心が落ち着く空間。
隣には、蓮さんがいる。
(……っていうか、近くない!?)
(気のせい? いや、肩と肩の距離が……え、20センチある? いや12? いや5?)
(だめだ集中……あれ……手汗……筆が滑──)
ぴしっ
「……!」
書き始めて5秒、筆がはねて紙にしぶきが飛んだ。
蓮がこちらを見る。
やばい。なにか言われる──!
「……少し筆圧が強いですね。でも、勢いがあって、いいと思います」
「い、いえ、それはですね、あの……!」
「気持ちがこもっているというのは、素晴らしいことです」
(……うそ、褒められた?)
(やだ、なんか……今、すごくがんばりたくなった……)
もう一度、深呼吸して筆をとる。今度は落ち着いて──
写経とは、仏の言葉を書き写す行い。
心を込め、字に念を込める──
──気がつけば私は、文を自作していた。
天は清しき月のごとく
心は静けき水のようで
わが目に映る人の笑みは
ああ、かくも尊く優しきかな
願わくば この心の揺らぎを
仏よ知らしめ給え
(……あれ?)
(これ……私が今、書いたやつ……)
(ちょっと待って、これ仏の言葉じゃなくない?)
(ていうか……これ、恋文じゃない!?!?!?)
パニックで筆を落とす私の横で、蓮がやさしく言った。
「ずいぶん個性的な写経ですね。オリジナル、ですか?」
「ち、ちがう! 違いますっ! いや違わないけど違って!!」
「ふふ、素直でよいですね」
(ふふ、じゃないよ!!)
(なんでそんな穏やかな笑顔してんの!?)
(今! わたし! 仏の場で恋文書いたんですけど!!)
(しかも本人の目の前で!!!)
筆先は震え、心は大混乱。
だけど、不思議と逃げたくはなかった。
なんでだろう。恥ずかしいのに、ここにいたいって思う。
──ああ、もう、ほんとに何なのこの感情。
──けれど、私はまだ知らない。
この日書いた“恋文写経”が、
後日、蓮の手にわたってしまうという事態を──