第12話「気づくということ」〜蓮side〜
最近、よく来るようになった野良猫がいる。
最初は警戒心のかたまりみたいな子だったけど、ある日から急に懐いてきた。
気がつけば、朝も昼も、気まぐれに寺へやってきて、俺の膝の上に座っている。
「お前、もしかしてリリスさん目当てじゃないのか?」
そう話しかけてみたけど、返ってくるのは「ニャア」という返事だけ。
でも、なんとなくそんな気がしていた。
リリスさんは……あまり猫に近づこうとしない。
でも明らかに、意識して避けてるようにも見える。
距離を取る。けれど、視線はよく猫の方へ向いている。
それに気づいて、つい、お願いしてしまった。
「この子、名前がないんです。よかったら、つけてくれませんか?」
リリスさんは最初、目を丸くして固まった。
それでも猫と目を合わせると、わずかに表情が緩んで、言葉を探すように沈黙した。
そして、ぽつりとこぼれた。
「……ふわふわで、腹が白いゆえ……“しらたま”とでも、呼んでやろうか」
俺は思わず笑ってしまった。
可愛い名前だと思ったし、なにより──その響きが、リリスさんらしかった。
でも彼女はすぐに目をそらして、「いや、違うんです」とでも言いたげに口をつぐんだ。
……素直じゃない人だな。
でも、そこがちょっと面白い。
猫はリリスさんを見て、少しだけ得意げな顔をした。
まるで、「勝った」とでも言いたそうに。
それを見たリリスさんが、やや過剰なほどの威厳をこめて言い放った。
「ぐぬぬ……いい気になるでない。貴様の名が定まったからとて、我の信頼を得たなどと思うなよ……!」
つい、笑ってしまった。
あの時と──初めて会ったあの日と、どこか似ていたから。
***
初めてリリスさんに会ったのは、本堂の戸の向こうだった。
南無阿弥陀仏──
声に出して念仏を唱えていたとき、不意に小さな気配を感じて、ふと顔を上げた。
戸の隙間から、誰かがのぞいている。
「参拝の方ですか?」
そう声をかけると、戸が少しだけ開いて、彼女の顔がのぞいた。
黒曜石のような、艶やかな黒髪がすっと風に揺れた。腰まであるロングストレート。
つり気味の大きな目が、こちらを警戒するように見つめてくる。
その瞳は、琥珀色。まるで蜂蜜のように柔らかく透き通り、思わず見入ってしまいそうだった。
服装は黒を基調としたロングワンピースのようなもので、袖や裾には銀糸の刺繍が光っていた。どこか異国的で、でもこの静かな本堂に妙に溶け込んでいた。
手元に視線を落とすと、真紅の爪が長く丁寧に整えられているのが目に入った。
派手といえば派手なのに、不思議と威圧感はない。むしろ──威厳、かもしれない。
「わ、我は……この寺を…支配し…至宝を…」
支配、という単語に一瞬思考が止まりかけたけれど、何かを取り繕うように続けるその必死さが、妙に印象に残った。
文化調査? 下見? ……それ、どういう設定なんだろう。
でも、なぜか追い返そうという気持ちは湧かなかった。
少し怖がっているようで、でも堂々としていて、どこか空回っていて。
名前も素性もわからないのに、なぜか気になる人だった。
そして──
最後にふと、俺が笑ったとき。
彼女の肩が、わずかにピクリと動いた。
小さく開いた口元から、ほんの一瞬、八重歯がのぞいた気がした。
あれから、にぎやかな毎日が始まったんだ。
***
名前をつけるって、きっと特別なことだ。
たとえ本人が無自覚だったとしても、それは小さな矢印になる。
だから俺は、「ありがとう」と言いたかったけれど──言わなかった。
それを言ったら、きっとリリスさんはまた猫に当たり散らしてしまいそうで。
しらたまは、今日も気ままに鳴いている。
リリスさんがその名をちゃんと呼ぶ日は、来るのだろうか。
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