第9話 影の中で
エドガーは、王宮の一角にある書庫の薄暗い通路を急ぎ足で進んでいた。周囲に人の気配はほとんどなく、壁を飾る肖像画さえもひっそりと彼を見送るだけだ。奥にある書架には、宮廷で取り扱われるさまざまな公文書や記録が保管されている。近頃、彼が頻繁にここへ足を運ぶようになったのは、妹であるルシアが婚約を破棄され、すべてを失いかけている今、その裏に何があるのかを探りたいという思いがあるからだった。
王太子からの一方的な宣言と、まるでルシアが“悪事を働いた”という噂が広まる中、エドガーは納得できずにいた。妹の性格を知る彼にとって、ルシアが不正を働くなどありえない。それなのに、王宮を中心に「ルシアがほかの令嬢を貶めた」とか「王太子を脅迫した」など、荒唐無稽な噂が絶えず流れている。しかも、どれも詳細は曖昧なのに、さも真実であるかのように人々が囁き合っているのだ。
(いったい誰がこんな情報操作をしている? 何の目的で、妹を……)
書庫の片隅で、エドガーは手元のメモを見直した。ここ数日、彼は独自に動いて宮廷内やその周辺で情報を収集していた。ルシアを救いたい一心で、多少危険を冒してでも証拠を集め、王太子や周囲を説得しようと考えたのである。しかし、帰ってくるのは得体の知れない噂ばかり。「名門の公爵家がもうすぐ没落する」「ルシアは権力を振りかざして他人を陥れた」――内容はいずれも信憑性に乏しいが、奇妙なくらい人々の口に上っている。
さらに、エドガーが個人的に探りを入れてみると、その背後にリシャールという名の人物が見え隠れしているという話を聞いた。王太子に近い立場の人物らしいが、黒幕かどうかは定かではない。ただ、やたらと権力闘争に関わっているらしく、宮廷内でも警戒される存在だと噂される。
(リシャール……やはり殿下の周辺に、妹を陥れようとする勢力がいるのか)
確かな証拠はまだつかめず、つかもうとするたびに手がかりが途切れてしまう。まるで誰かが意図的に情報を消しているかのようだった。こうして書庫で調べ物をしようにも、肝心な公文書にたどり着く直前で「すでに別の部署へ移された」と言われたり、都合良く目ぼしい資料が欠けていることが何度もあった。
「……この状況を打開できるのは、やはり証拠しかない。誰が妹を落とし入れたか、それを突き止めない限り、殿下も耳を貸してくれないだろうな」
つい声が漏れそうになるのをこらえ、エドガーは書庫を出た。外の廊下は昼間だというのにひんやりとしていて、闇雲に動き回っても成果が出ないもどかしさが胸を焼く。ルシアがいまだに塞ぎ込んだまま、誰とも会おうとしない姿を思い出すと、焦りで胃が痛む。
王宮の中庭に出ると、初夏の日差しが眩しく、花々が鮮やかに咲き誇っていた。少し前まではルシアもこうした景色を楽しんでいたはずなのに、今では屋敷から出られないほど追いつめられている。公爵家の威信は一夜にして地に落ち、社交界の人々の態度も激変した。エドガーは眉を顰めながら、ゆっくりと敷石の上を歩く。
(家名を守りたいという思いもあるが、それよりも妹を救いたい。あいつは何も悪いことをしていない。むしろ、ひたすら殿下のために努力してきたんだ……)
幼い頃からルシアを見守り、時に手を貸してきたエドガーにとって、妹が絶望に沈む姿は耐えがたい。彼女の努力も誇りも、すべて踏みにじられたのだ。このまま事態を放置していれば、ルシアの心は壊れてしまうかもしれない。
「どこかに、何か手がかりがあるはずだ。何としても掴まなくては……」
そう自分を奮い立たせて、中庭を横切ると、ちょうど警備隊の面々が立ち話をしているのが見えた。ひょっとすると、あの日の舞踏会で起きた出来事に詳しい者がいるかもしれない。エドガーはなるべく自然な形で近づき、世間話を装いながら、あの夜の様子を尋ねてみる。
「そういえば、舞踏会の当日はかなり慌ただしかったようだが、何か普段と違う点はなかったか?」
「……舞踏会か。さあ、オレたちは案内係や警備の指示で手一杯だったからな。殿下はいつになく落ち着かないご様子だったような気もするが……詳しくはわからん」
「王太子殿下の従者あたりに聞いてみたらどうです? ただ、あの従者どもも最近は妙に忙しそうで、まともに取り合ってくれないんですよ」
彼らから得られるのは、やはり大した情報ではなかった。しかし、どうやら“殿下の周辺が急に忙しなく動いている”という点は確かなようだ。まるで誰かが綿密に仕掛けをしているかのように、エドガーには感じられる。
夕刻、エドガーは王宮を出て、王都の片隅にある貴族たちの集会所を訪れた。ここでは小規模な集まりや会議がしばしば開かれ、社交界に近い者たちの情報が行き交う場所でもある。彼はここの管理人と少し面識があり、多少の便宜をはかってもらえることもあった。
「……なあ、お前さん、最近、王太子殿下とあの公爵令嬢の話を嗅ぎ回ってるらしいな。ご苦労なこった」
「俺のことを知っているなら話は早い。何か有益な情報はないか? 手間賃は払う」
エドガーが静かに問いかけると、管理人は警戒の眼差しを向けながら口の端をゆがめる。ここに持ち込まれる話は玉石混交、噂話やデマも多い。しかし、それでも何もしないよりはマシだ。
「いいぜ。最近見かける怪しい動きといえば……ああ、そうだ。おかしな問い合わせが増えてるんだ。公爵令嬢が過去にしたという“悪行”を証明する書類や証言がないかってね」
「そんなもの、あるわけがないだろう。……誰がそんなことを?」
「さあな。ただ、何者かがわざと“ルシア様が悪者”だと思わせるような記録を探しているんだろうさ。以前の領地経営に関する記録や、貴族同士のやり取りなんかを引っかき回しているらしい」
エドガーは思わず唇を噛んだ。何としてもルシアを罪に陥れようとしている勢力がいる――それは確実だ。だが、彼がそれを突き止めようとしても、肝心の黒幕の名前や明確な証拠が出てこない。誰も口を割らず、あるいは口を割れないほどの権力を持った存在が裏にいるのではないか……。
管理人に礼を言って集会所を後にし、夜の街を歩きながら、エドガーは暗い考えに沈んでいく。もし、このまま黒幕を暴けずに時間だけが過ぎれば、ルシアが王太子から受けた屈辱は永久に消えない。公爵家も衰退していく一方だろう。家族や家臣を路頭に迷わせるのは避けたいが、それ以上に、妹が立ち直る機会を失ってしまうかもしれない。
(家名のために動いているわけじゃない。俺は、ただルシアを救いたいだけだ……)
頭脳明晰とも評され、家の跡取りとして周囲から期待されてきたエドガー。実際、彼は理知的な分析力と決断力を持ち合わせていた。だからこそ、今の状況でうまく対処できない自分に苛立ちを募らせる。
周囲の貴族からは、「公爵家の面目を保つために動いている」と勘違いされているようだが、エドガーにとってはそんなことは二の次だった。失墜しつつある家を再興するのも大事だが、一番は妹を救うこと。幼い頃から笑顔を絶やさなかったあの妹が、何も悪くないのに全てを奪われたままではあまりに不公平だ。
(ルシアをこんな目に合わせて、のうのうと笑っている連中を許す気はないが……それだけじゃ足りないんだ。妹はもう、深く傷ついてしまった。何としても、あいつが二度と傷つかないように真実を暴かなければ)
だが、まるで誰かが先回りしているかのように、有力な手がかりを潰され、証言者には圧力がかかった形跡があった。リシャールという名が浮上しているが、彼が本当に黒幕のすべてを握っているのかどうかも不確かだ。王太子の側近であり、宮廷の権力闘争にも通じていると聞くから、もし敵に回せば並大抵の手段では太刀打ちできないかもしれない。
夜の帳が降りた頃、エドガーはようやく公爵家の屋敷へ戻った。屋敷の中はひっそりと静まり返り、使用人たちは皆、いたずらに不安を抱えたまま息を潜めている。廊下を抜けている途中、年配の侍女が心配そうに声をかけてきた。
「お帰りなさいませ、エドガー様。どうかあまりご無理はなさいませんよう……」
「心配ない。まだ調べることがあるから、俺のことは気にしないでくれ」
「でも、最近はずっとお忙しそうで、お食事もままならないようですし……ルシア様も、何も召し上がれない日が続いています」
その言葉に、エドガーは苦しくなる。妹の状態は少しも良くならず、塞ぎ込んだままだ。医師を呼ぼうかと考えたこともあるが、ルシアが拒んでいるのか、一向に受診には至っていないという。
(このままでは、本当に危ない……俺が急がなければ、取り返しがつかなくなるかもしれない)
「ありがとう、あとで何か軽く食事を頼む」と侍女に告げ、エドガーは自室へ戻る。机の上には散乱した書簡やメモ、そしてルシアの無実を証明するための糸口を求めて書き留めた走り書きがあった。無計画に探りを入れるだけでは手がかりをつかめないと反省し、少し状況を整理しようと腰を下ろす。
まず、王太子がルシアを疑ったきっかけとなった証拠は、ほとんどが不明瞭だ。噂の多くは伝聞を元にしており、当事者がいない場所でひとり歩きしている。次に、王太子の周辺に潜む何者かが意図的にルシアを悪者に仕立てている可能性が高い。セシリアという女性が被害者として祭り上げられた裏にも、そうした力を感じるが、彼女自身がどこまで加担しているのかは不透明だ。
そして、リシャール。名前しかわからないが、宮廷の実務や王太子の身近な政策に深く関与しているらしい男。彼が噂を流し、ルシアを陥れるよう画策したという証拠を握りたいが、周囲は皆その名を出すのをはばかるように口を噤む。
「ここまで徹底されているとなると、やはりただの偶然や一部のゴシップ好きの仕業じゃない。計画的に仕組まれているのは間違いない」
頭の中でつぶやいていると、胸の奥がじくじくと痛む。自分がこうして戦っているのは、家の名誉を守るためではない。もちろん没落の危機は避けたいが、それ以上に――ルシアを救わなければならないという一心だ。このまま真実が闇に葬られれば、妹は婚約破棄という事実だけでなく、不名誉な罪を背負わされたまま生き続けることになる。
「俺がやらなければならないんだ。何があっても、絶対に諦めるわけにはいかない」
机の上に置かれたペンダントを見る。そこには家族で撮った小さな肖像画の断片が入っていて、ルシアが幼い頃に笑顔で映っていた。その笑顔を思い出すたび、エドガーは自分の決意を新たにする。昔から、この妹が苦しんでいるときは助けてあげたいと願っていた。自分が兄として守りきれず、彼女が無実の罪で傷ついているなんて、あってはならないことだ。
「ルシア、もう少し待っていてくれ。必ず真実を探し出して、あの日の誓いを守ってみせるから」
その夜も、エドガーはほとんど眠らずに調査を続けた。ネットワークを使って情報を洗い出そうとするたびに、うまくかわされている気配がある。まるで誰かが彼の動きを読み、一歩先で証拠を消しているかのようだ。もしかすると、宮廷内で協力者を募ることすら危険なのかもしれない。
「ちくしょう、黒幕の手が長すぎる……。だが、屈しないぞ。ルシアを救うためなら、俺は何だってやる」
夜更けにロウソクの火が揺れ、資料に目を通すエドガーの表情は固く、眉間には深い皺が刻まれている。行動力と知略を備えた彼をもってしても、今は手詰まり感が漂っていた。だが、だからこそ燃えあがるものがある。
ルシアがどれほど苦しい思いをしているか、エドガーには想像に難くない。誰よりも大切に思ってきた存在が理不尽に踏みにじられ、黙ってはいられない。たとえどれだけ強大な相手に挑もうとも、彼は妹を見捨てるわけにはいかなかった。
「焦るな、エドガー。冷静に、必ず糸口はある……。まだもう少しだけ、粘ってみせる」
そうつぶやいた声は硬く、しかし決意に満ちていた。黒幕の影は遠くぼんやりとしか見えていないが、何とか手を伸ばして掴まねばならない。朝日が昇るまでわずかな時間を、エドガーは調査に没頭し続ける。頭脳明晰な男ゆえの冷静さと、妹を守りたいという情熱が混ざり合い、彼を突き動かしていた。
ただ、現時点での成果は乏しく、思うように進まない現実が彼を焦らせる。周囲の黒幕がどれほどの力を握っているのか、どんな狙いでルシアを貶めているのか――どれも謎のままだ。
それでも、エドガーは信じている。このまま諦めさえしなければ、いつかきっと妹を救える手がかりを見つけられるはずだ。そう自らに言い聞かせて、彼は夜の静寂を破るようにペンを走らせる。
“ルシアを救うためなら何だってやる”――その強い意志だけを胸に、もどかしくも先の見えない闘いへ足を踏み出し続けるのだった。