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第8話 心の罪

 夜の王宮は、昼間の華やぎとは別の表情を見せる。広い回廊を照らす燭台の明かりは淡く、歩くたびに石畳がほんの小さな音を返すだけ。私はそっと足を運び、人気のない渡り廊下を抜けて自室へ向かっていた。心の中はとても静かとは言えず、ざわざわとした落ち着きのなさが胸をかき乱している。


「……もう、寝ないといけないのに」

 声に出して自分に言い聞かせる。深夜に廊下をさまようなど、本来なら慎むべきことだ。けれど、ここ最近はまともに眠れたことがない。寝台に横になれば、思い出すのはあの人――ルシア様の姿。あの日、私のせいで彼女がどうなってしまったのかを考えると、目を閉じるのが苦しくなる。


 部屋に戻って扉を閉め、か細いため息をつく。真夜中の静まり返った空気の中で、窓辺に腰を下ろすと、心臓が不規則な鼓動を打っているのを感じた。外を見ても闇しかない。眠れない夜はいつも、この闇に包まれた世界にひとり取り残されたような気がして、孤独が募る。


 何度も頭をよぎるのは、私が王太子レオンハルト殿下を間近で見た、あの舞踏会の光景だ。殿下は困惑しながらも、私をかばうように振る舞ってくれた。彼が私を守ろうとする姿を目の当たりにして、胸が痛む一方で、小さな安堵もあったのを否定できない。けれど、その裏ではルシア様が傷ついていた――いいえ、実際には“私が傷つけてしまった”と言っても過言ではないのだ。


「どうして私は、あんな嘘を……」

 独り言はいつだって苦い後悔ばかり。ルシア様が王太子にあんな仕打ちをされるような人ではないことは、私が一番よく知っている。実際、あの方は私に何もしていない。むしろ、初めて顔を合わせたときも優しく接してくださったのに……。


 あの日、私が手にした“とある書簡”――そこには、ルシア様が私を陥れようとしている証拠のようなものが書かれていた。だけど、実際は捏造だと私は薄々わかっていた。言葉の端々に不自然さがあったし、もともとルシア様がそんな悪意を抱くはずなどない、と感じていたから。けれど、周囲の人たちが「これは真実なのだ」と私に迫り、もし逆らえば大きな代償を支払うことになると暗に示されて……。


 気がつけば、私はまるで“被害者”の立場を与えられていて、王太子殿下の前で泣き崩れるような形になっていた。嘘を嘘と知りながら否定する勇気がなく、流されるまま「ルシア様にひどい目に遭わされた」という話を黙認してしまったのだ。あのとき、「そんなの違います」と言えなかった自分が、いまさら取り繕っても仕方がない。


「本当は、ルシア様が悪いわけじゃないのに……」

 絞り出すような声が、虚空へ溶ける。誰に聞いてもらうわけでもないこの言葉は、夜になると毎日のように私の口をついて出る。嘘を重ね、周囲に押し流されるまま、ルシア様を悪者にしてしまった。にもかかわらず、王太子殿下は私を“守って”くれる。


「セシリア、大丈夫か。君の心が一番傷ついているんじゃないか?」

 あの夜以降、殿下はたびたび私の様子を気遣ってくれる。激しく問い詰められるわけでもなく、「辛ければ無理をするな」と優しく言われる。もちろん、私は救われている。だけど、その優しさがこんな私に向けられることを思うと、胸が苦しくなるのだ。私など、到底そんな温かさを受け取る資格もない。


「……申し訳ございません、殿下。私は、私は……」

 いつもそう言いかけては言葉を呑み込む。何も言えない。真実を打ち明けたら、私はどうなるのだろう。そして、ルシア様が受けた屈辱を思うと、黙っているのはあまりにも残酷すぎる。それでも、ここまで来てしまった自分には、勇気を出してすべてを白日のもとに晒すだけの覚悟がない。誰かが今の私を責めてくれればいいのに、殿下は常に気遣うような眼差しを向けるばかりで、逆に自分を追い詰める罪悪感が増していく。


 周囲の貴族たちは、私を“新たな許嫁”のように扱い始めている。それは王太子の正式な意向かどうかさえ、私にはわからない。けれど、舞踏会でルシア様があのように婚約を解消された以上、代わりを探す視線は当然のように私に注がれる。人々は私を「気弱な被害者」として持ち上げ、あろうことか「早く正式な婚約が決まればいいのに」とまで囁く者もいる。


「私は……誰かの跡を奪いたかったわけでも、殿下を奪いたかったわけでもないのに」

 そう呟くと、目頭が熱くなってくる。幼い頃、王宮で雑事を手伝いながら育った私にとって、王太子殿下は雲の上の存在だった。優しく声をかけてくれたことに憧れを抱いたことはあっても、それは淡い気持ちでしかなく、まさか自分が殿下の近くに立つなど想像もしなかった。そのはずなのに、今はまるで“ルシア様を蹴落として殿下を手に入れようとした女”のように見られている節がある。


「……どこで、こうなってしまったんだろう」

 部屋の片隅には、私に宛てられた手紙が山積みになっている。内容はさまざまだが、中には『あなたこそ王太子殿下にふさわしい』という声も多い。その一方で、あからさまに取り入ろうとする人たちもいれば、私を利用して自分の利益を得ようとする腹積もりが透けて見える文面もある。そんな状況に嫌気がさし、最近は手紙を読むのすら億劫になってきた。


 寝台の脇に腰かけ、額に手を当てて考える。ルシア様が悪くないことを、私は知っている。それでも、この状況を覆すだけの力もなく、せめて真実を訴える勇気さえ出ない自分が情けない。自分一人が真実を告げたところで、もっと大きな力が働いているらしいことも薄々感じているし、もし自分が逆らえば今の地位は一瞬にして奪われるだろう。


「わたしには、そんな覚悟もない……」

 瞳を閉じると、浮かんでくるのはあの夜のルシア様の顔。憔悴しきり、それでも「私は何もしていない」と必死に訴えていた姿――今更ながら胸が軋む。彼女が本当に私を陥れるような人なら、もっと違う態度をとっていたかもしれない。なのに、私が黙っているせいで、彼女はすべてを奪われてしまった。


 と同時に、もうひとつの光景も脳裏をよぎる。あのとき、殿下が私に向けた深い憐れみのまなざし。私を“守る”と宣言してくれた瞬間の、優しくも悲しげな表情。それを思い出すと、私の胸には不可解な安堵が広がるのがわかる。こんな罪悪感を抱えながらも、私は殿下に守られていることに小さな救いを感じているなんて――自分でも嫌になるほど矛盾している。


「殿下は、私の言葉を信じてくださった。あれが嘘なのに……殿下に騙されているのは、私のせいなのに」

 一度思考の流れが始まると、止まらない。矛盾と罪悪感、そして仄かな安堵。それらが混ざり合い、どろりとした感情に私を沈ませる。眠れぬ夜が続くのも当然だろう。


 そんな私でも、どうにか日常の振る舞いを保たねばならない。王宮では、近頃すっかり私のことを“殿下に守られた気の毒な令嬢”として扱っている。行けば行くほど周囲の目は増え、私の動向をいちいち詮索する人間が出てくる。それが怖くて仕方ない。いつか私が嘘をついていると知れたら、どんな非難を浴びるのだろうか。


「……誰にも知られたくない。でも、誰かに打ち明けたい」

 相反する思いに苛まれながら、枕に顔を埋める。涙が自然と溢れて止まらない。もし、あのとき違う選択をしていれば――ルシア様を貶めるような話を否定できていれば、ここまで大きな罪を背負わずに済んだのかもしれない。けれど、それをしていたら私は今頃、あの“黒幕”たちに潰されていたはずだ。想像するだけで恐ろしい。


「そう……私なんかが逆らったところで、どうにもならなかった。しょうがなかったんだ……」

 自分に言い聞かせてはまた苦しくなる。あきらめかけた心が沈んだまま浮上しようとしない。殿下の優しさは、この苦痛を終わらせるものではなく、私の痛みを先送りにするだけかもしれない。それでも、その一時の救いにすがりつきたくなる自分が情けない。


「殿下……どうか、お許しください。私は、あなたを騙している」

 言葉にするたび、胸がずきりと痛む。自分を欺き、ルシア様を傷つけ、殿下をも欺いて、こうして“新たな許嫁”のように扱われている。醜い立場だとわかっている。けれど、どうやって抜け出せばいいのかがわからない。


 一筋の涙が頬を伝い、敷布を濡らす。窓の外はまだ暗闇が広がったまま。遠くから風の音が微かに聞こえるだけで、王宮は深い眠りに沈んでいる。こんな夜に、私だけが目を覚まして、後悔と罪悪感に苛まれているのは、あまりにも皮肉なことだ。


「……ごめんなさい、ルシア様……」

 そう呟く声は、誰にも届かない。今さら謝ったところで、彼女は私を許すわけがないだろう。何より、私にとって大切なのは“生きること”だけだと、あの人たちに脅され、私はそれを優先してしまった。自分の保身のために、本当に大切だったもの――正直さや、真実を見極める目――を捨てたのだ。


 ならば私は、この闇のなかに沈み続けるしかないのだろうか。こんな形で王太子殿下の傍にいられても、私の心は安らがない。むしろ、日に日に罪が重くのしかかるばかり。王太子のやわらかな言葉や微笑みに、心が救われる半面、その度に自分の裏切りを突きつけられる。夜な夜な眠れぬほどの後悔を噛みしめても、現状を変える勇気がない自分に絶望してしまう。


「私が嘘をつかなければ、ルシア様はこんな目に遭わなかった。わかってる……全部、わかってるの」

 声を殺して泣きながら、私は何度も同じことを繰り返す。髪は乱れ、目は腫れぼったくなって、もう美しさなどまるでないだろう。けれど、朝になれば私は顔を整え、“殿下に大切にされる哀れな少女”として振る舞わなければならない。周囲はそれを期待し、私に同情の言葉をかけてくる。


「お願い……神様。これ以上、誰も傷つかない道はないの……?」

 その祈りは届かない。今の私が望む“誰も傷つかない道”なんて、もはや存在しないのかもしれない。傷はすでに広がり、ルシア様を取り返しのつかない所まで追い詰めてしまった。私には何もできない。自分の無力さを痛感する度に、胸の中の罪悪感はますます重くなる。


 そんな思いを抱えたまま夜が更ける。朝が来ればまた、私は普通の顔で過ごさなくてはならない。殿下に会えば、きっと優しく気遣ってくださるだろう。私は笑顔をつくり、俯いて「ありがとうございます」と囁く。その後ろめたさが、今夜も私を眠らせてくれない。

 そうして私は、目が冴えたまままた一夜を明かすのだ。後戻りができなくなった状況に縛られながら、ルシア様への後悔と、自分を守るために必死に偽りを続ける醜さを抱えこんで――日が昇るまで、ただ暗闇の中で嗚咽を噛み殺すしかない。

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