第7話 静かな語り
部屋の中は薄暗く、昼間だというのに窓には重いカーテンが閉じられたままだった。私はベッドの端に腰を下ろし、膝の上で両手を組みながら、もうどれだけそうしていたのかわからない。考えたくないのに、頭の中ではあの光景が何度も渦を巻く。王太子レオンハルト殿下に、まるで罪人のように扱われ、周囲の貴族に嘲笑されていたあの日の姿――忘れようにも、忘れられない。
「……失礼いたします」
控えめなノックのあと、ゆっくりと扉が開いた。そこに立っていたのは、老使用人のマリエ。彼女は私が幼い頃から公爵家に仕え、時に両親よりも近い距離で私を支えてくれた存在だ。
「マリエ……」
口を開くと、喉がかさついて声がかすれる。何日もまともに喋っていないせいかもしれない。マリエは静かに近づき、いつものように落ち着いた仕草でサイドテーブルに小さな茶器を並べ始める。
「少し、口に合うかわかりませんが、ハーブの煎じ茶をお持ちしました。どうか一口だけでも召し上がってくださいまし」
言われるまま視線を動かすと、湯気の立ち上るカップが見えた。暖かい香りがほんの少し、沈んでいた胸の奥を和らげる気がした。けれど、私はまだ大きく息をつく気力すらない。
「……ごめんなさい、わざわざ持ってきてくれたのに、飲めるかどうか……」
「無理にとは申しません。けれど、いくら体が丈夫とはいえ、何も召し上がらねば危ううございましょう?」
その言葉には責めるような響きはない。終始穏やかで、どこか慈しみに満ちている。私は自嘲気味に微笑み、そっとカップを手に取った。唇をつけるだけでもいい――そう思って口元へ運ぶと、懐かしい香りがほんの少しだけ食欲を呼び覚ますようだった。
「ありがとう、マリエ。……ごめんね、こんなに弱ってばかりで」
「弱るも強がるも、誰しもそういう時期がございます。ルシア様ほど懸命に生きてこられた方ならば、なおさら、心が折れたときの痛みは大きいものかと」
彼女の声音は優しいだけではない。長く生きてきたからこそ滲み出る重みがあり、私は自然と耳を傾けてしまう。しばらくハーブティーの湯気を見つめてから、ぽつりと呟いた。
「私……ずっと殿下のお役に立ちたいと思って生きてきたの。礼儀作法も舞踏会の練習も、政治の勉強も、全部……。そのためだけに頑張ってきたのに、結局はあんなふうに捨てられて……」
「ええ。私も見ておりましたよ、あなたが小さな頃から、誰よりも努力を重ねていた様子を。あの殿下をお支えできるようにと、その一心で」
マリエはしみじみと思い返すように視線を落とす。私がまだ幼いころ、王宮の庭で初めてレオンハルト殿下に出会った日――その頃からすべてを見守ってきた彼女だからこそ、私の思いを理解してくれているはずだ。
「でも、殿下は……私を信じてくれなかった。理由も説明せず、私を悪者のように扱って。私は何もしていないのに……」
そう口にすると、涙がこぼれ落ちそうになるのをこらえきれなくて、つい唇を噛んだ。マリエはそっとテーブルに置かれた布巾を差し出してくる。
「殿下のお気持ちは、私には詳しくわかりません。ですが、少なくともあなた様の努力が無意味であったとは思いませんよ。たとえ相手がその価値を見誤ろうとも、あなたが積み上げたものは消えはしません」
「……そう言ってくれるのは、マリエだけだよ」
目を伏せると、頬を涙が伝っていく。誰も私を信じてくれない世の中で、こんなにも優しく言葉をかけてくれる彼女がいるだけで、どれほど救われるか――それを思うと同時に、胸の奥にはわだかまった感情が渦巻き始める。
「でも、私……実はすごく、怒っているの」
「それは……どのような怒りでしょう?」
マリエは一瞬、悲しげな目をしてから、次の瞬間には静かな覚悟を宿した表情で私の言葉を受け止める。口から出そうとしているのは、私の中ですら混沌としている感情。それを整理するように、ひとつずつ吐き出した。
「殿下に対しても、そう。急に突き放されて、あんな仕打ちを受けたこと……悲しいし、苦しいし、でもそれ以上に、なぜこんなことになったのか説明すらされないまま捨てられたのが悔しい。もし私が本当に悪いことをしたのなら、その証拠を教えてくれればいいのに……」
「ええ、何も語られぬままでは、納得などできましょうはずがございません」
「そして、噂を流している人たちにも腹が立つ。私をまるで罪人のように扱って、嘲笑って……。そんな人たちを見返してやりたい、と思ってしまうんだ。復讐してやりたいって……こんな私は、醜いよね」
自分でそう言いながらも、口にした瞬間に湧き上がる罪悪感に身が竦む。恨みや怒りに染まるのは、私の本意ではないのに――それでも、どうしようもなく憎しみが生まれてしまう自分が嫌でたまらない。
「ルシア様……あなたは、今、心の底から苦しんでいらっしゃるのでしょう。信じた人に裏切られたという絶望、誇りを踏みにじられた痛み、そして真実を伝える場さえ奪われている悔しさ。どれほど辛いか、想像もつきませぬ」
「復讐なんて……考えたくないのに。殿下の笑顔が好きだったのに……」
溢れそうな言葉を飲み込むたびに、胸がきしむ。私を散々に扱った王太子を、まだ想ってしまう自分がいる一方で、怒りに燃える自分もいる。そんな矛盾が重なって、身動きが取れなくなっているように感じる。
「ルシア様、あなたはずっと“誰かのために”という気持ちを抱いて生きていらっしゃいました。でも、今は、その大切に思っていた存在から背を向けられ、見当のつかぬ闇の中に置かれている。その結果、怒りや憎しみが芽生えてしまっても、無理のないことでございます」
「……マリエ、私、この怒りをどうしたらいいんだろう。捨てられた恨みを晴らしたいと、頭のどこかで考えてしまう自分がいる。だけど、そんな風に生きるなんて嫌……でも……」
自分の思考がぐしゃぐしゃで、言葉にならないもどかしさが募る。もし本当に復讐を遂げたとして、それで私は幸せになれるのか。わからない。でも、今は悲しみと怒りが入り混じり、どうしようもないのだ。
「あなた様がそのお気持ちを抱くのは、誰にも止められるものではありません。けれど、その憎しみに染まってしまえば、いつかあなたが本当に得たいものを見失うかもしれない。私は、それが心配でなりません」
「得たいもの……?」
問い返す声には力がない。マリエは、どこか遠くを見るような視線を向けた。老練な彼女は、若いころに同じような悔しさを経験してきたことがあるのだろうか――そんな想像が、かすかに頭をよぎる。
「はい。ルシア様はこれまで、レオンハルト殿下のお役に立つことだけを考えてこられました。けれど、あなたの人生はそれだけではありません。今はこうして大きな苦しみを背負っておりますが、いつか必ず、この先に進む道を見いだす日が来るはずです」
「進む道……今の私に、そんなものがあるのかしら」
「あると、私は信じております。あなたはまだ若く、これまで身につけた力も知識も、人としての優しさも、失われたわけではないのです。どうか、あなたが本当に成し遂げたいものは何か――その問いを投げかけ続けてみてくださいませ」
マリエの言葉は、私の胸の内に小さな灯火をともすような響きがあった。確かに、私はこのまま絶望に沈みきることは簡単だ。でも、その先に待つのは無為な日々だろう。憎しみを抱え続けたままなら、誰も救われない。
「……復讐しようとしても、どうすればいいのかもわからない。私一人、殿下やあの人たちに歯向かったって、勝ち目なんてないんじゃないかと思う」
「復讐するかどうかをお決めになるのは、もちろんルシア様ご自身です。ですが、あなたがそれで満足できるのか、あるいはもっと大切な何かを守り抜くための道を探すのか――そこを、慎重にお考えになってはいかがでしょう」
マリエはそっとカップを取り、冷めかけたお茶を温め直すためポットからお湯を注ぎ足す。湯気がふわりと立ち昇り、また部屋に柔らかな香りが広がった。
「わたし……もう何を信じていいのか、わからない。誰も私を信じてくれなかった。殿下が唯一の支えだと思っていたのに、それすらこうなってしまった」
「それでも、あなたは本当は“誰も信じたくなくはない”のでしょう? その気持ちがある限り、きっと捨てたものでもございませんよ」
淡々とした口調の中に、確かな確信を感じる。私はふと、昔のことを思い出す。幼い頃、マリエはいつも私を励ましてくれた。「あなたなら、立派な女性になれる」と。レオンハルト殿下に捧げた誓いを支えるために、影で手助けをしてくれたのも彼女だった。
「ありがとう、マリエ。……少し、心が軽くなった気がするわ。それでも、まだ私の中の怒りや憎しみは消えないけれど……」
「消さずとも構いません。大切なのは、その感情に溺れず、ご自分の道を見失わないことではないか、と私は思います」
「……うん」
私はそっとマリエが淹れ直してくれたお茶を口に含む。やわらかな苦味と香りがじんわり喉を通り、冷えていた体が少しだけ暖まる。涙はまだ止まらないけれど、さっきまでのような孤独とは違う、誰かに寄り添われている感覚が確かにあった。
「ルシア様、どうかご無理はなさらず。時が経てば、今よりは少し視界も広がるやもしれません」
「そう……かな。私、まだ先が見えないよ。けど、マリエの言葉を聞けてよかった」
お茶の湯気はいつの間にか薄くなっていた。静寂の戻った部屋で、私はマリエの姿を見送る。扉が閉まりかけるその刹那、彼女が一瞬だけ振り返り、穏やかな笑みをこちらに向けた。
「私は、あなたがまだなすべきことを見つけ出し、そしてそれを成し遂げられると信じております」
「……うん、ありがとう」
扉の閉まる音が小さく響き、再び部屋には一人きり。だけど、先ほどまでの暗闇に囚われていた感覚とは少し違う。マリエの言葉が胸の奥で静かに反響している。
怒りや憎しみが完全に消え去ったわけではない。それどころか、いつか殿下やあの貴族たちに仕返しをしたいとさえ思う自分がいる。それは醜い感情なのだろうか――自問自答はまだ続きそうだ。
それでも、マリエが言ってくれたように、私は“それでも誰も信じたくなくはない”のだ。いつか真実を明らかにできるなら、私の名誉を取り戻すだけでなく、大切にしていた何かをもう一度掴めるかもしれない。今のところは、それがかなう現実など想像できないけれど……。
私は小さく息を吐いて、冷めかけたお茶を飲み干す。少しだけ、心が温かい。マリエの穏やかな声が耳の奥に残っている。もしかしたら、ここからが私の本当の闘いなのかもしれない――そんな予感を抱きながら、私はゆっくりとカップを置いた。