第6話 崩れる栄光
王宮での舞踏会からほどなくして、ルシアの一族が治める公爵家の屋敷は、以前とは比べものにならないほど静まり返っていた。きらびやかな来客の姿も激減し、出入りする馬車や使者の数もめっきり少ない。突然の婚約破棄というスキャンダルは、王太子を相手に回した以上、あまりにも強い影響をもたらしたのである。
周囲の貴族たちは一斉に態度を翻し、まるでルシアの家が“国を裏切った”かのように扱い始めた。それは社交界での噂や呼び名に表れている。かつては“名門中の名門”と呼ばれ、大勢が誇らしく口にしていた公爵家の名が、今や囁きのなかで避けられる言葉に変わりつつあった。
「……公爵家だって? ああ、例の娘が王太子殿下に見限られたという……」
「何でも、殿下を陥れるような真似をしたとか。噂では、他の令嬢を泣かせたとも聞くが」
「こればかりは、上手く立ち回るしかないわね。あの家とはあまり深く関わらない方がいいかもしれない」
都市の屋敷から漏れてくるのは、そんな冷たい声ばかり。公爵家に好意的だった者ですら、影響を恐れて徐々に距離を取り始めていた。王太子の一存によって“婚約は解消された”という事実は、どんな弁明よりも重い。いかなる理由であれ、王族と衝突するような形になった家の立場が急速に揺らぐのは、この国の貴族社会では避けられないことだった。
公爵家が抱えていた政治的な交渉は次々に破談となり、新たな投資や商談の話も相手側から取り下げが相次いだ。王都の市場で流通する物資を多く扱っていた公爵家の影響力は決して小さくなかったが、社交界の風向きが変われば、その優位もまた儚く失われていく。特に、王家からの公式な後ろ盾が見込めなくなった今、権力闘争の渦中で容赦なく蹴落とされかねない危うさがあった。
兄エドガーは必死に事態を覆そうと動いていた。王宮の知己を頼りに、「何とか殿下との行き違いを解消できないか」と奔走するものの、門前払いされることもしばしば。そもそも、王太子の意志が固い以上、周囲の家臣たちが勝手に動くわけにもいかず、冷淡にあしらわれるばかりだった。
「このままでは我が家の立場が脅かされるだけでなく、家臣たちの生活も危うい。父上、どうにか方法はないのでしょうか」
「……殿下が公に“解消”を宣言なさった以上、我々は下手に動けん。下手に騒げば騒ぐほど、かえって傷を深くするだけだ」
公爵家の書斎には、疲労の色を隠せない当主とエドガーが向き合っていた。そこへ届く情報といえば、ほとんどが“公爵家の信用失墜”を告げるものばかり。誰が裏で糸を引いているのかまではわからないが、明らかに強力な力が働いている気配がある。
「……もしかすると、王宮の権力を揺るがそうとする勢力が暗躍しているやもしれません。殿下との婚約破棄に名を借りて、我が家を引きずり下ろそうとしている者たちが」
エドガーは苦々しい表情でそう呟いた。頭の中には、いくつか心当たりがある。昔から公爵家を疎ましく思っていた一部の貴族たち。あるいは、王位継承の周辺で暗躍する取り巻きや派閥――しかし決定的な証拠がないままでは、その誰をも表立って糾弾することは難しい。
「ルシアはどうしている? このままでは娘が……」
「……部屋に閉じこもったまま、外へ出ようとしません。あれだけ心を砕いてきたのですから、仕方ないかもしれませんが……」
エドガーの視線は書斎の窓の外へ向かった。そこには、かつて庭を歩くルシアの姿がしばしば見られたのだが、婚約破棄の夜以来、まったく姿を現さなくなってしまった。屋敷の使用人からの報告では、朝から夜まで部屋にこもったまま、時々泣き声が聞こえてくることもあるという。
ルシアの部屋は、屋敷の奥まった場所にあった。そこは昼間でも薄暗く、分厚いカーテンが閉ざされたまま光を遮っている。ベッドの上に縮こまるように身を置いたルシアは、目の下に濃いクマを作り、ただぼんやりと窓辺を眺めていた。
「……どうして……こんなことに……」
呟く声は掠れ、まるで他人事を語るような虚ろさがある。王太子に婚約を解消されてからというもの、彼女は深刻な絶望に囚われていた。あの夜、理由さえ聞かされず、一方的に「裏切った」と決めつけられたショックから立ち直る術を見つけられないまま、時間だけが過ぎている。
時折、使用人が食事や水を差し入れに来ても、ルシアはほとんど口をつけられない。スープの一杯すら、喉を通すのが苦痛だった。何も考えたくないときと、頭の中でぐるぐると思考が回り続けてしまうときが交互にやってきて、精神が休まらない。
「お嬢様……せめてお湯だけでも召し上がってくださいませ」
「……ううん、今はいいの」
そんなやりとりが日に何度も繰り返されるうち、使用人たちの間にも暗い空気が漂いはじめた。公爵家の威信が揺らぐ中、当主の娘がまるで廃人のようになってしまうのではと囁く者もいる。気丈なルシアの姿を知る者ほど、その急激な変貌に心を痛めていた。
屋敷を取り巻く状況も日に日に悪化していく。かつては公爵家に出入りしていた商人たちが敬遠し始め、社交界における招待リストから公爵家の名前が外されることも増えてきた。行事や催しで顔を出せば、白々しく席がなかったことにされる、あるいは露骨に中座されるなど、侮辱に近い仕打ちを受ける。公式の場で“王太子から捨てられた娘”というレッテルを貼られた以上、そこから巻き返すのは至難の業だった。
「公爵家が身を引くなら、他の家が王太子妃の座を狙うだろうね。名門だってかまうものか、今はただあそこを潰すチャンスだ」
「どうにも裏で手を回している人物がいるらしい。あの家が弱体化したら、利権を奪いやすいしな」
そんな噂が通りを駆け巡っていることを、エドガーも耳にしていた。今は見えない敵がいる。具体的には判明していないが、その勢力はかなりの影響力を持つらしく、ことあるごとに公爵家を追い落とす方向へ働きかけているらしい。エドガーは夜な夜な外出し、情報屋や知己の貴族を訪ねて対処法を探るが、手がかりは少ない。
「……頼む、何でもいい。少しでもルシアを救える糸口を見つけたいんだ」
「噂は噂にすぎないが、裏で動いているのは王宮の高官の一派だとか。あるいは別の公爵家かもしれない……何とも言えないな」
「くそ……どこまで手が回っているんだ」
苛立ちを抱えつつ、エドガーは屋敷へ戻る。すると、廊下で使用人たちが困惑した顔で相談しているのを見かけた。どうやら先ほども、貴族らしき使者が来て、“ルシアの処遇”を問いただして帰ったという。まるで“王太子に対する詫びをどうするのか”と迫るような口調だったそうだ。
「もう放っておけ。あれこれ言ったところで、やつらがこちらの話を聞くとは思えない」
「しかし、これでは日常生活まで脅かされかねません。公爵家の名は、もはや世間から……」
使用人たちの顔は不安に曇り、かつての誇りは見る影もない。父もエドガーも、何とか打開策を探しているが、王太子自ら「解消」を宣言した事実があまりに重すぎる。公爵家がどれほど弁明しようと、国の中心である王宮から庇護の手が差し伸べられることはなく、むしろ一部の勢力がさらに状況を悪化させる情報を流している可能性もある。黒幕として名前が上がるのは、王太子の側近や権力を狙う貴族たち――だが、まだ決め手に欠けていた。
そんな中、屋敷の奥でひたすら涙をこぼし続けるルシアの存在は、まるで象徴のように見えた。王太子に捨てられた娘――という評判は社交界を瞬く間に駆け巡り、かつて彼女を慕っていた若い令嬢たちすら距離を置くようになっている。手紙も激減し、誰も公爵家へ訪れようとしない。
「ルシア様、せめて外の空気を吸われませんか? お庭なら人目もありませんし……」
「……いらない。出たくない……」
侍女が優しく提案しても、ルシアは布団を頭まで被って動かない。その声は掠れていて、時おり不規則にしゃくり上げるような息が漏れる。部屋の中には、散らばった手紙や破れた小物が目に入る。大切にしていたはずの王太子との思い出が、あの夜以来、どれも見るのが辛くて耐えきれなくなっているのだ。
だが、どんなに泣いても、王太子が覆してくれる気配はない。ましてや、周囲は彼女を責め立てるばかり。理由もわからず一方的に罪を着せられたまま、ルシアは心を閉ざしてしまった。名門の令嬢として誇りを持ち、人前で泣くことすら我慢していた彼女が、今は自室に引きこもり、目も腫らして顔すら見せない状態になっている。
いつしか、屋敷中の者が「このままでは公爵家が滅んでしまうのではないか」と口々に囁くようになっていた。公爵家を支えてきた家臣や下級貴族、商人までもが契約の破棄を検討し始める。周囲の同情はあっても、現実的な利益を考えれば、王太子と敵対する形になった家に寄り添うのはリスクが大きすぎる。
「エドガー殿、申し訳ありませんが、我が家もこれ以上の支援はできかねます。どうかお許しを……」
「わかった。ありがとう。そちらに迷惑をかけるわけにはいかない……」
かつて親しくしていた友人や協力者から告げられる別れの言葉を、エドガーはただ受け入れるしかない。焦りは募るが、どうにもならない。王太子との縁談が白紙どころか“破棄”となり、それに関して讒言や悪い噂が絶えない以上、普通なら起こり得ないような速さで公爵家が没落していくのは明白だった。
そして、ルシア自身にとって何より辛いのは、“社交界で顔を合わせるたびに突きつけられる冷ややかな視線”だ。まだ外に出かける意志を見せていない彼女だが、近い将来、何らかの行事で否応なく出席を求められたなら、そこには間違いなく“王太子に捨てられた公爵令嬢”という好奇の目が集中するだろう。
「ルシアをこれ以上苦しめるわけにはいかない。今はそっとしておくしかないが、何とかして状況を変えねば……」
エドガーはそんな決意を抱きつつ、日々を奔走する。しかし、王太子の口は堅く、“あの夜の出来事”を語ろうともしない。周囲の貴族たちが広めている噂はますます過激になり、まるでルシアが大罪を犯したかのようなストーリーが勝手に作り上げられていた。
「……確か、あの令嬢が王太子殿下を脅迫したという話もあるらしい。信じられないほど酷い話だけど、もし事実なら……」
「いや、もっと恐ろしい陰謀があったとも聞く。王太子殿下から信頼を得るために、他の令嬢を傷つけたのではないか、とか」
まったく根拠のない噂が、どれだけ火に油を注いだか。そんな荒唐無稽な話でさえ、多くの人は面白がり、そして“王太子が婚約を破棄したのだから事実に違いない”と結論づける。誰も、ルシアの弁明に耳を貸す者はいない。
裏では、宮廷の権力闘争に深く関わる黒幕が、そうした情報操作を行っているのではないか――エドガーがそう確信するのには、もう時間がかからなかった。しかし、その人物や一派の正体をつかむのは容易ではない。わずかな手掛かりを探ってみても、いつも尻切れトンボで終わる。何者かが都合の悪い証言を封じ、関係者を黙らせているのだ。
そして、そんな混乱のただ中で、ルシアは弱りきったまま屋敷に閉じこもり続ける。名門の家は確実に崩れ始め、社交界から見放されかけている。まだ追い討ちこそかけられてはいないが、風前の灯火だ。公爵家が積み重ねてきた誇りの高さゆえに、凋落の衝撃は一層大きい。
ある日の夕刻、ルシアの部屋を覗きにきたエドガーは、暗がりの中でぼんやり窓辺に立つ妹の姿を見つけた。細い肩が震えているのがわかる。
「……ルシア」
「……兄様、来てくれたのね」
振り返ったルシアはひどくやつれていて、頬がこけるほど食事をとれていないのが明らかだった。瞳はうるんで、泣き疲れた跡がうかがえる。
「外の空気を吸ったらどうだ。ずっと部屋にこもっていたら、体を壊してしまう」
「私が……外に出れば、皆が私を見るわ。王太子に……捨てられた女だって。私はもう……どこにも行けない……」
その声には絶望が滲んでいる。エドガーは「そんなことはない」と言いたいが、今の状況では説得力に欠けていた。紛れもなく、貴族社会はルシアを排斥し始めているのだ。だからこそ、彼女の心を守るためにも、エドガーは必死で真実を探そうとしている。しかし、何も成果をあげられないまま時間だけが過ぎているのが現実だった。
「必ずなんとかしてみせるから……今はゆっくり休んでくれ。俺が動いて状況を変える。絶対に」
「……うん……ありがとう」
ルシアは疲れ果てたようにうなずくと、再び窓の外へ視線を戻した。そこには、かつて草花が色とりどりに咲き乱れた庭が広がるだけ。昔はあの庭で馬車に乗る前のレオンハルトを待ちわびたり、練習用のダンスステップを踏んだりした日々があった。それが今や遠い昔の幻想に思える。
こうして公爵家は、婚約破棄による余波に苦しめられ、再起の糸口さえつかめないまま追いつめられていく。名門と謳われた家の失墜は、まるで“転落劇”の見世物のように社交界で囁かれ、多くの人々が面白がるように遠巻きに見るだけ。ルシアの心は深い絶望に沈み、部屋の中に閉じこもる日々が続く。
その陰で、誰かが確実に糸を引いている――そう感じさせる黒い噂が、王宮や貴族たちの間で細く囁かれ始めていた。が、それを突き止めるすべもなく、何より当の王太子が積極的に事実を明かそうとしない。ルシアは何もわからぬまま、王太子から“捨てられた”という汚名を背負い、外へ出られぬ籠の鳥になっていた。
それでも、どこかに救いを求めるように、夜更けの窓辺でうなだれるルシアの姿――それが、今の公爵家の深い闇を象徴していた。