第5話 裂けた絆
私は、背中に張り付いた冷たい汗を拭う間もなく、レオンハルト殿下の後を追って控え室へと向かった。あの人はどこか悲壮感すら漂わせる背中で、私を遠ざけるようにも見える。それでも、何か重大な事情があるのだと信じて、今はただ足を進めるしかない。
「殿下……」
小さく呼びかけると、レオンハルト殿下は控え室の扉を開けて中へ入る。私も続いて部屋に入った瞬間、殿下が振り返った。その表情は、これまで見たことのないほど険しく、悩ましげだ。
「ルシア、座ってくれ。……いや、座らなくていい。時間がないんだ」
落ち着かない様子で視線を泳がせる殿下を前に、私の胸は強くざわついた。何がこんなにも彼を追い詰めているのか、なぜ彼は私をこんな場所へ呼んだのか。考えが巡るけれど、何も言葉が出てこない。
「殿下、どうなさったのです? 今夜は婚約を正式にお披露目するはずでは……」
震える声を抑えきれずに問いかけると、殿下は小さく息を呑む。次の瞬間、まるで自分に言い聞かせるように、低い声で呟いた。
「……婚約は、もうなかったことにしたいんだ」
一拍遅れて、その言葉の意味が私の頭に突き刺さる。胸の奥に冷水を浴びせられたような衝撃。何を言われているのかわからず、思わずその場で硬直した。
「な……何をおっしゃっているの? それはどういう……」
「ルシア。悪いが、これ以上は無理だ。君と結婚することはできない」
レオンハルト殿下の口から紡がれる言葉を、私はただ呆然と聞くしかない。どうして? なぜこんな突然に? 彼のまなざしには、戸惑いと後悔が入り混じっているようにも見えるが、そこにあるのは確固たる拒絶だった。
「理由を……聞かせてください。何があったの? 私が何をしたの?」
必死で問いかけても、殿下は苦い表情を浮かべて唇を結ぶ。答えてはくれない。私の足は震え、頭が真っ白になる。これまでずっと未来を信じて努力してきたのは、一体何だったのだろう。
すると、不意に控え室の扉が開いて、複数の貴族たちがなだれ込んできた。彼らは私を見るなり、鼻で笑う者や、眉を顰める者、冷え切った目で睨む者――それぞれの反応を浮かべながら取り囲むように立つ。
「これは……なんという醜聞なのでしょう。王太子殿下、さぞお心を痛められたことでしょうね」
「殿下はこの令嬢のあまりに卑劣な行為を知って、ようやく目が覚めたというわけだ」
耳を疑うような言葉が飛び交い、私の頭は混乱の極みにあった。卑劣な行為? 醜聞? 私にはまったく心当たりがない。何がどうなっているのか、誰が私を貶めようとしているのか、まるでわからない。
「お待ちください。私は何もしていません! 一体何の話をしているのですか!」
必死に声をあげても、彼らは嘲笑を含んだ目を向けてくるばかり。まるで私を犯罪者扱いしているかのような冷たい視線に、呼吸が詰まる。
「こんな場所で騒ぎを起こすとは、やはり品性に欠ける令嬢だな」
「殿下。これ以上お付き合いされては、王家の名に傷がつくやもしれません」
そう囁き合う貴族たちの言葉に、私は頭が沸騰しそうになる。どうして? どうして私が糾弾されなければならないの?
「殿下! 私は何もしていないと申し上げているのに……理由を教えてください!」
殿下に向けて訴えるが、その瞳は私をまっすぐ見てはいない。どこか申し訳なさそうに俯き、苦しげに眉を寄せているだけだ。そして、彼の背後から、そっと控えめに現れたのは薄いグレーのドレスを纏ったセシリア。彼女は青ざめた顔で、か細い声を震わせる。
「……本当に、ごめんなさい。私、あなたを責めたくなんてないの。でも……」
セシリアの姿に、貴族たちの視線が再び集まる。彼らの中には、明らかに同情めいた表情を浮かべる者もいた。どうやらセシリアが“被害者”として扱われているらしい――そんな空気が肌でわかる。
「こういう事情ですので……公爵令嬢には、改めて何らかの罰を与えるべきだと思いますわ」
「ええ、殿下もお気の毒に。こんな裏切りに遭われるなんて」
あちこちから勝手な言葉が噴き出す。何を根拠に私を“裏切り者”呼ばわりしているのか。私には何もわからない。だけど、セシリアが小さくすすり泣いている光景は、どう見ても私が加害者であるかのように人々を誤解させている。
「殿下……これは一体、何なのですか。どうして彼女がそんなふうに……私、彼女とはほとんど面識もありません。私に落ち度など――」
「……もういい、ルシア」
レオンハルト殿下の声が低く響いた瞬間、私は胸がぎゅっと締めつけられた。あまりに冷たい声音に、心臓が跳ね上がる。
「もう、君と話すことは何もない。理由など、いちいち説明してやるつもりもない。とにかく、君とは婚約できない。それが事実だ」
「そんな……」
あまりの一方的な言い分に、私はがくりと膝を折りそうになる。まだ信じられない。殿下がこんなにも私を否定するなんて――どうして?
「取り乱すのはおやめなさいな。みっともないわよ」
「そうですわ。名門の公爵家の令嬢が、さも醜態を晒して……」
貴族たちは口々に私を非難し、嘲るように笑う。全身に突き刺さるような視線が痛くて、逃げ出したくても足が動かない。ずっと努力し、周りからの期待に応えようと必死だったのに、今では私が“罪人”のように扱われている。
「王太子殿下はセシリア様をお守りするために婚約を解消されるのでしょう? どうやらこの公爵令嬢、セシリア様に嫌がらせをしていたとか……」
そんなありもしない話をいきなり吹き込まれ、何の証拠もないのにそれを鵜呑みにするのか。理不尽な中傷が私の耳を打ち、息ができないほどの苦しみが襲う。私は必死に叫びたい。「そんなこと、していない!」と。だけど、声にならない。もう全身から力が抜け落ちていくようだ。
「……私は、何もしていません。殿下、どうか信じてください」
か細い声でそれだけを言うと、レオンハルト殿下は微かな躊躇を見せながらも、さらに冷ややかな表情を深める。
「君を信じる? 笑わせないでくれ。もう十分だ……。僕は、君の“裏の顔”を知ってしまったんだ。これ以上付き合いきれない」
「裏の……顔? 違います、殿下……私、そんな……」
言葉の一つ一つが胸に突き刺さり、呼吸が乱れる。周囲の貴族たちがはやし立てるように私を指差し、嘲笑する。たった数十分前まで、私は婚約を正式に発表される立場だったはず。それが今、まるで悪行を暴かれたかのように扱われ、殿下さえも私を拒絶している。現実感がまるでない。
「セシリア様、大丈夫ですか? お辛いでしょうに」
「ええ、でも、殿下がいらっしゃるから……」
すすり泣くセシリアを、レオンハルト殿下がそっと庇うように立ちはだかる。その姿はまるで、“彼女を傷つけたのは私”だと言わんばかりだった。周囲の視線が、完全に“可哀想な被害者”と“加害者である私”を定めているのが痛いほど伝わる。
「私は……何も……していません……!」
震える声を張り上げても、誰も耳を貸さない。殿下は目を伏せたまま、「もうやめろ」という表情で顔を背ける。いつか私を温かく励ましてくれた王太子が、今はこんなにも冷酷で、私の言葉を一切受け入れない。
気づけば、私の周りを取り巻くように貴族たちが円を作り、まるで見世物でも見るかのようにひそひそと囁き合っている。ここは王宮の控え室――祝賀ムードの宴会場とは別の空間だが、壁一枚向こうでは華やかな音楽と笑い声がまだ続いているのがわかる。その賑わいと、私を嘲る視線との落差に、頭がくらくらした。
両肩を激しく揺さぶられる感覚に思わず顔を上げると、そこにいたのは兄エドガーだった。いつからいたのだろう。悲痛な顔で私を抱きしめるように支え、呆然と立ちつくす私を必死に救おうとする。
「ルシア、大丈夫か! 殿下、いったいこれは何の冗談だ? こんなことがあってたまるか……」
「エドガー、私は……私は……」
声を上げたいのに、喉が詰まって言葉が出てこない。悲しみと屈辱が入り混じり、もう涙すら出ない。ただ、大切なものが砕け散っていく衝撃に身を任せるしかなかった。
「ご安心を、エドガー殿。これは冗談などではありません。殿下にご負担がかからぬよう、私たちがこの件を対処いたします」
いつの間にか、王宮の高官らしき男が出てきて、冷たく言い放つ。兄エドガーは怒りに震える目で男を睨み、追及しようとするが、貴族たちが制止するように声をあげる。何もかもが私を取り巻く狂ったような空気の中へ吸い込まれそうだ。
「殿下、ご決断は揺るぎないのですね?」
「ああ……。すまないが、彼女との婚約は解消する」
とどめを刺すような殿下の宣言が、控え室に響き渡った。私が必死に訴えても、誰も信じてくれない。理由すら教えてもらえないまま、ただ――一方的に縁を切られてしまった。
「殿下……そんな……本当に、理由を教えてください……教えてください……」
私は泣き縋るように言葉を絞り出すが、彼はもう目を合わせようとしない。セシリアを気遣う視線はあっても、私には向かない。その光景に、周囲は口々に「残酷ね」「自業自得なのかもしれないわね」と、まるで私の破滅を面白がるような囁きを交わす。
兄エドガーに支えられながら、私は立っているのがやっとだった。心を抉られ、呼吸が苦しくて何か叫ばなければ壊れてしまいそうなのに、もう声も出ない。あの庭で交わした約束、幼い頃から大切にしてきた夢が、目の前で粉々に砕かれていくのを見るしかない。
「ルシア……下がろう。これ以上、こんな場にいられるものか」
エドガーの声がわずかに震えているのを感じ、私は思わず首を横に振る。まだ納得できない。確かめたいことが山ほどある。なのに、殿下が一方的に私を捨てるなんて……。どれだけ努力しても、一瞬で全て奪われてしまうのか。
「エドガー……私、どうしたら……何が……」
「わからない。だが、今はもう、殿下が取り合ってくれない以上、どうすることも……」
周囲の視線から逃げるように、兄は私を連れ出す。振り返って殿下を見ると、彼はセシリアを庇うかのように静かに立っていた。目が合った気がしたのは一瞬だけ。そこには、言いようのない悲しみと、決意が同居したような表情が見えた……気がする。でも、それすら幻かもしれない。
控え室の外に出ると、廊下で待ち構えていた貴族たちが私を見て嘲笑し、あからさまに道を避ける。まるで汚れ物を見るような蔑みの視線が、痛い。必死に踏ん張らなければ倒れてしまいそうで、私は兄の腕に縋った。その瞬間、涙が一筋、頬を伝い落ちる。もう耐え切れない。
「私は……何もしていない……何も……」
小さく呟いた言葉は、誰の耳にも届かなかっただろう。今や誰もが、私を悪者と決めつけているのだから。控え室から離れるにつれ、舞踏会の歓声が遠くなっていく。そこだけは華やかな祝賀で、私の心だけが闇に落ちていく。
「婚約を……解消される……? 本当に、もう……」
こんなにもあっけなく、大切にしていた未来が壊されてしまうなんて。理由もわからずに、私はすべてを失った。この現実は、まだ混乱した頭では到底受け止めきれない。それでも、王太子がはっきり「もう婚約はない」と言い渡したのは事実だ。
冷たい廊下を兄とともに歩く間、私の周囲の貴族や使用人の声がひそひそと聞こえる。
「かわいそうに……いや、あれは自業自得かも」
「何をやらかしたのかしら。セシリア様に何かしたのでは?」
そうした囁きが耳に入るたび、私はただ俯いて足早に通り過ぎるしかない。誰も私の言葉を聞いてはくれない。誰も私を信じてはくれない。もう一刻も早く、この場から消え去りたい――そんな衝動だけが渦巻いていた。
こうして、私の人生は一瞬で暗転した。王太子レオンハルト殿下に婚約を解消された。それも、私が大きな罪を犯したかのように扱われ、彼の口からは何も説明がなく――この国中の貴族たちが見守る中で、私は一方的に捨てられたのだ。
必死に築き上げた名誉、誇り、そして大切に思っていた未来――そのすべてが、破壊されてしまった。理由もわからず、ただ痛みに喘ぐだけ。胸の奥には、あの日誓った夢の残骸が転がっているようで、涙が止まらない。
「どうして……殿下……どうして……」
自分の声ですら、もう遠くで誰かが泣いているようにしか聞こえない。何もかもが不条理で、救いがない。孤独と絶望が、暗い穴のように私を飲み込んでいく。