第4話 疑念の影
煌びやかな燭台の明かりが差し込む大広間は、すでに多くの来賓で賑わい始めていた。壁際には厳かな紋章を掲げたタペストリーが連なり、足元を彩る絨毯は足音を吸い込むように柔らかい。ここは王宮の舞踏会場。今宵は王太子レオンハルトと公爵令嬢ルシアの婚約が、ついに正式発表される――はずの盛大な場だった。
ルシアは、広間の入り口付近でほんの一瞬だけ立ち止まり、喧噪の向こうにいるはずのレオンハルトを視線で探した。自分は今から、彼の隣に立ち、王国の中心へと踏み出すことになる。昨夜あれほど感じた不安と緊張は、まだ胸の奥にくすぶっているものの、周囲には悟られないように微笑みをつくってみせた。
「公爵家のご令嬢、こちらへどうぞ」
案内役の侍女が丁寧に導いてくれる。彼女は少し緊張したようにルシアを見ながら言う。
「殿下はすでに会場にいらっしゃいます。きっと間もなく、皆さまの前で……」
それきり言葉を濁すのは、まだ正式発表の儀式が始まっていないためかもしれない。あるいは、どこか奇妙な空気を感じ取っているのだろうか。ルシアはその曖昧さに小さな不安を抱きつつも、侍女を追って広間へ足を踏み入れた。
シャンデリアが煌めく天井の下、さまざまな装いの貴族たちが華やいだ雰囲気をまとい、上品に会話を交わしている。その中には、ルシアの家と親しくしている伯爵夫人や、普段から彼女を何かと支えてくれる人々もいる。けれど、彼らが向ける視線には妙なざわめきが混じっているようだ。
「まあ、今日という日は特別な夜になるのでしょう?」
「ええ、けれどどうも落ち着かないわ。王太子殿下のご様子が……」
そんな囁きが聞こえる。周囲の貴族たちが、いつも以上にルシアを意識しているのがわかった。どこか冷ややかな――まるで面白がるような眼差しを含む一団もあるように感じられた。
「おや、公爵令嬢。これはご機嫌麗しゅう」
声をかけてきたのは、先日ルシアが夕餐会で会った子爵家の婦人で、派閥を見定めるのが得意だと噂される人物だ。彼女はにこやかな笑みを浮かべながら、どこか探るような視線を投げかけてくる。
「今宵はとびきり華やかなドレスですこと。きっと殿下もお喜びになるでしょうね」
「ありがとうございます。少々緊張しておりますが……皆さまに失礼のないよう努めますわ」
「まあ、殿下と歩まれるということは、それも当然かもしれませんわね」
婦人の口調には刺々しさはないが、底意地の悪さをほんのり含むニュアンスがあった。ルシアはぎこちなく微笑みつつ会釈し、その場を離れる。
この舞踏会は、宮廷の伝統行事として年に数回開催されるが、今回は特に重要視されている。なにせ“王太子殿下が、公爵家の令嬢との婚約を公式にアナウンスする”と話が広まっているからだ。普段なら各家がこぞって社交を楽しむ場であるはずが、今夜はその一件を見届けようと、誰もがより浮足立っているようにも見える。
しかし、ルシアはまだレオンハルトの姿を捉えられていなかった。いつもなら、入り口からわずかに歩けば、すぐに視界に入るはずの彼が、なぜか見当たらない。
(殿下、どこにいらっしゃるの……?)
そう心の中で問いかけながら、自然と歩みは奥へ向かう。
やがて、大理石の階段の上に立つレオンハルトの姿がちらりと見えた。彼は真新しい正装を纏い、周囲には数名の護衛や高官が付き従っている。いつもは堂々とした立ち居振る舞いで、微笑みをたたえたまま人々と挨拶を交わす姿が印象的だったが――今日はどうも様子がおかしい。
レオンハルトはしきりに視線を伏せ、何かを考え込むように唇を引き結んでいる。来賓が言葉をかけても、愛想笑いで返すだけ。まるで意識が上の空だ。それどころか、ルシアが視界に入ったらしい瞬間も、いつものように穏やかに笑ってはくれなかった。
(どうしたの、殿下……いつもと違う)
ルシアは胸の奥に得体の知れない冷たいものが広がるのを感じる。今朝までは、いよいよ婚約発表の時が来た、と少しだけ高揚していたというのに。いざ舞踏会が始まってみると、空気はどこか張り詰め、周囲の人間はその変化に気づいているのか、奇妙な視線をルシアに送ってくるようだ。
そもそも、殿下との正式発表はいつ行われるのか――通常であれば、王家の者が高壇に立ち、開会の挨拶の後、特別な紹介の場面が設けられる。ところが、時間が来ても誰も壇上に上がらない。レオンハルト本人ですら、あまりにも落ち着きを欠いているように見える。
「ねえ、あれが王太子殿下と噂の……」
「そうよ。公爵令嬢はお気の毒に、あの人を待っているみたいだけど……」
一部の貴族が口元を隠してくすりと笑うのが、ルシアの耳にかすかに入ってきた。何がおかしいのだろう――その答えを確かめたくても、まるで視線が固定されてしまうかのように、ルシアは階段上にいるレオンハルトを見つめ続けるしかなかった。
するとふいに、一人の女性がレオンハルトの隣に現れた。薄いグレーのドレスを纏い、恥じらうように身を縮めている。その女性はセシリアという名の貴族令嬢だ。子どもの頃から王宮の奥方に仕えていたと聞いたことがあるが、詳しい素性はルシアもよく知らない。
セシリアはレオンハルトと何か言葉を交わしているらしく、その表情は微妙に曇っている。時折、申し訳なさそうに俯いたり、戸惑いの色を浮かべたり――そうしているうちに、レオンハルトがセシリアに視線を向ける。その目に、いつもの穏やかな光がないのがわかる。
ルシアは遠くから眺めるしかなかったが、あの二人の間に何やら重い空気が漂っているように感じられた。まるで、深刻な話し合いをしているかのようだ。
「……何が起こっているの」
思わずルシアの唇から言葉が零れる。もちろん、周囲には聞こえないくらいの小さな声だ。セシリアという女性は、これまで大きく注目されることのない控えめな令嬢だと聞いていた。だが、ここ最近になって宮廷内で見かける機会が増えているという噂もあった。もしかして、レオンハルトは何か別の相談ごとをしているのだろうか。
やがて、階段の上で二言三言言葉を交わした後、レオンハルトはセシリアに短く目礼をして、その場から離れようとする。セシリアは悲しげな表情を浮かべ、名残惜しそうに俯いている。ルシアの方を向く気配はない。
(今すぐ殿下のもとへ行って、何があったのか聞きたい……けど)
ルシアの足は重く、踏み出せない。なぜか今、レオンハルトに近づくのが恐ろしい気がする。
気づけば、周囲の貴族たちがこちらを注目し始めている。誰もが今夜の“正式発表”を待ち焦がれているはずなのに、会場全体には妙な不協和音が漂うばかりだ。全員が、“何か変だ”と感じている。そんな緊張感の中で、時間だけが過ぎてゆく。
ルシアは一つ深呼吸をして、意を決して階段へ向かって歩を進めようとした。どうしようもない不安を抱えたままでも、レオンハルトと話さなければならない――その思いが、彼女の背中を押す。けれど、わずかに歩み寄ったところで、レオンハルトの取り巻きの一人が素早く動き、ルシアの進路を塞ぐように立ちふさがった。
「公爵令嬢、申し訳ございませんが、今は少々お時間を……」
「ですが、私は殿下にお声をかけたいのです。婚約の発表が行われる、とお聞きしていますが」
ルシアは可能な限り穏やかな声を保とうとしたが、胸の鼓動は激しく脈打っている。取り巻きの男は困ったような表情を浮かべると、ひそかに目を伏せた。
「それが……殿下にはお考えが終わっておられない部分があるのかもしれません。もうしばらく、ご様子を見ていただければ……」
「終わっておられない、とは……どういうことですか?」
問い返しても、男は曖昧に頭を下げるだけだ。まるで答えに詰まるようなその態度に、ルシアの不安はますます募る。
そうこうしているうちに、会場の向こう側で何やらざわめきが起こった。貴族たちがひそひそと声を交わし、あちこちで視線がルシアとレオンハルトの間を行ったり来たりしているのがわかる。誰も正式発表が遅れている理由を明言しようとしない。だが、“今夜のはずなのに、なぜ始まらないのか”という疑問は誰しもが感じているはずだ。
ルシアはやむを得ず、一度身を引いて会場の端に身を置いた。そこには兄エドガーもいて、心配そうに彼女を見つめてくる。
「ルシア……どうした? 殿下とはまだ話せないのか?」
「……うん。何か様子がおかしいの。まるで、私と話す前に、別の何かを考え込んでいるみたいで」
「なるほど……」
エドガーは口を閉ざし、周囲を見回す。レオンハルトを取り巻く数名の顔ぶれに見覚えのある者がいるのか、彼は何かを考えているようだった。しかし、今はすぐにルシアを助けに動き出すこともできないようで、ただ静かに会場の雰囲気を観察している。
その間にも、舞曲が流れ始め、貴族たちが連れだってダンスを楽しむ光景が展開されていく。本来ならば、その中心にルシアとレオンハルトが立ち、婚約の喜びを披露するはずだった。それなのに、二人はまだ一度も顔を合わせていない。視線すら合っていない。
やがて、レオンハルトが密かに退出しようとしているのを見かけ、ルシアの胸はさらに騒ぐ。彼は今、誰とも目を合わせずに会場の脇の扉へ向かい、そのまま消えていこうとする。
「殿下……お待ちください!」
思わず駆け寄ろうとしたが、またしても護衛らしき者がルシアの前に立ちふさがる。ルシアは仕方なく数歩で止まり、歯噛みするように唇を噛み締めた。
「よろしければ、お静かにお願いできますか。殿下はお疲れのご様子で、少し休憩に……」
張りついたような愛想笑いを見せる護衛の言葉を、ルシアは胸の痛みとともに聞き流す。殿下が本当に体調を崩しているのか、それとも何か深刻な問題が起きたのか。どちらにしても、ルシアには確かめようがない。
人々の囁きが大きくなる中で、貴族たちの視線はルシアへと集まる。何も発表されないまま時間が経過し、王太子当人が姿を消そうとしている――その異常事態に、噂好きの者たちは興味をそそられて仕方がないようだ。
「これはまさか、話が流れてしまったのかしら」
「いやだわ、せっかく用意したドレスが台無しじゃない?」
「見て、あんなに落ち着かない様子の公爵令嬢……お気の毒だけれど、何か問題が起きたんじゃないの?」
そうした声が、風に乗ってルシアの耳に届く。まるで彼女をあざ笑うようにも聞こえる。名門の娘が大勢の目の前で冷遇されている――そんな図式に面白みを感じている者すらいるのだろう。ルシアは頭の奥がじんと熱くなるのを感じながら、必死に自分の感情を抑え込んだ。
(こんなはずじゃない。殿下は、私のことを……)
そう思いかけたとき、不意に通路の奥から声がかかった。
「ルシア……少し話があるんだ」
聞き慣れた声が、しかしどこか上ずっている。振り返ると、そこには舞台袖のような場所に立つレオンハルトの姿があった。先ほどまでの迷いや伏し目がちの態度は変わらないけれど、はっきりとルシアに視線を向けている。
護衛が進路を塞ぐのをとどめるように手をあげ、彼は静かに言葉を続ける。
「今ここで話すのは……いろいろ差し障りがある。すまないが、裏の控え室へ来てもらえないか」
「……わかりました」
ルシアは促されるまま、一歩を踏み出す。胸の奥で、不安と混乱が煮えたぎっている。けれど今は、とにかくレオンハルトの言葉を聞かなくてはならないだろう。
彼の瞳には、いつもの優しさがない。まるで遠くを見つめるように焦点が合っていない気がする。二人が一緒に会場を去ろうとしている姿に、周囲の貴族たちはまたしてもざわざわと騒ぎ立てるかもしれない。けれど、ルシアには今、何よりもレオンハルトとの話が重要だった。
(どうしてそんな顔をしているの、殿下。何があなたをそこまで追い詰めているの……?)
次々と疑問が湧き上がる。しかし、それらを問いただせるのは、実際に二人きりになってからだ。
そうしてルシアは、胸を強く締めつけられるような思いを抱きながら、舞踏会の熱気を背に受けてレオンハルトの後を追う。宴が続く大広間では踊りや歓声が響き続けていたが、その中にあったはずの祝福の空気はどこか不穏な影に覆われ始めている。
夜会の華やかな装いに身を包んだまま、ルシアは王太子の後ろ姿を見つめた。その歩みには覇気がない。いつもなら誇り高く背筋を伸ばしていた彼が、今日はやけに物憂げだ。そして二人の行き先へ、さりげなく視線を送る貴族たちの中には、何か面白い展開を期待するかのように好奇の目を向ける者もいた。
この日が、ルシアにとって生涯忘れられない夜になるのだとは――その時、まだ誰もはっきりとは知り得なかった。けれど、どこからともなく漂い始めた不穏な空気だけが、鋭く胸を刺し始めていたのである。