第3話 不安の夜
私は今、自室の大きな鏡の前に立っている。窓の外には夜の帳が下りかけていて、遠く街の灯りがちらちらと瞬いているのが見える。明日はついに王宮の舞踏会で、そこで王太子レオンハルト殿下との婚約が正式に公表される予定だ。子どもの頃から「いつかこうなるかもしれない」と言われ、ずっと準備を続けてきたはずなのに――いざ前夜を迎えると、胸の奥が得体の知れない不安でいっぱいになる。
私はドレスの袖口にそっと触れてみる。明日は仕立て屋が何度も寸法合わせをした特別な衣装を着ることになっているけれど、もう頭の中では「失敗したらどうしよう」「ちゃんと踊れるかな」と、そんなことばかり考えてしまう。子どもの頃の私は、もっと純粋に“レオンハルト殿下のお役に立ちたい”とだけ思っていたのに、いつの間にこんなに緊張しいになってしまったのだろう。
「明日は……大丈夫、よね」
ほとんど自分に言い聞かせるように呟いた声が部屋の中に虚しく響く。分厚い絨毯と豪華な調度品に囲まれたこの部屋は、もともとは客人をもてなすための特別室だったが、“いずれ王太子殿下と結婚する娘”としてしつらえられた場所だと聞かされている。心細くてたまらない今、この部屋の豪奢さがかえって居心地の悪さを際立たせているように感じた。
「ルシア様、失礼いたします」
控えめなノックの後、老使用人マリエが入ってくる。白髪の混じった髪をきっちりまとめ、背筋を伸ばした佇まいには、長年この公爵家に仕えてきた誇りが滲んでいる。私は思わず姿勢を正してマリエを見つめた。
「おや、お顔の色が少し優れないご様子ですね。ご気分はいかがですか?」
「……なんだか緊張してしまって」
そう言って小さく笑うと、マリエは優しげに微笑み返し、銀のトレイを差し出す。そこには温かなハーブティーが揺れていた。
「今夜はあまり深く考えず、お茶を飲んで早めに休まれるのが一番です。大切な舞踏会の前ですから、少しでも体を休めませんと」
「ええ、わかってはいるの。ありがとう、マリエ」
カップを手にすると、優しい香りがふわりと鼻孔をくすぐる。幼い頃、まだ侍女に甘えていた時代から、マリエの淹れるお茶は私にとって格別だった。落ち着く香りと温かさが、どれほど私を救ってくれたかわからない。けれど今は、どんなに香りが優しくても、不安がなかなか消えてくれそうにない。
「本当に私は、殿下の婚約者としてふさわしいのかしら……」
思わず胸の内を口にしてしまうと、マリエはトレイを脇に置き、静かに言葉を返してくれる。
「ふさわしいかどうかは、ルシア様が決めることではないかもしれません。ですが、これまでの努力や誠実なお心は、必ず誰かが見ていてくださるはずです。もちろん、殿下も」
「そう……だといいのだけれど」
実際のところ、この家で暮らす使用人たちも、私が“将来王太子妃になるかもしれない”と早くから聞かされていた。けれど、社会はそんなに甘くない。名門の娘として、周囲は常に私に高い水準の礼儀作法や教養を求める。できて当たり前だと言われるたびに、息苦しさが増していく。思えば、まだ十代の後半になったばかりなのに――と、弱音を吐きそうになる自分が情けない気もする。
マリエは静かに私を見つめたまま、穏やかに微笑む。
「明日は殿下とともに、堂々と舞台に立たれてくださいませ。どうか、その自信を忘れずに。お二人のお姿を拝見できるのを、私も楽しみにしておりますよ」
そう言って部屋を後にしようとする背中に、私は思わず声をかける。
「マリエ、ありがとう。本当に……ありがとう」
私の呟きが聞こえたかどうか。老練の使用人は振り返らず、静かに扉を閉めた。その音がすとんと胸に落ちる。
それから少しして、廊下に足音が聞こえたかと思うと、今度は兄エドガーが顔をのぞかせた。今日は公務で遅くなると聞いていたから、会えないと思っていたのに。
「ルシア、入るぞ。……具合はどうだ?」
「兄様……」
エドガーが部屋に入ってくると、私はほっとした気持ちになって、小さな笑みを浮かべた。けれど、すぐに自分が心配ばかりかけている立場なのを思い出し、視線を下に落とす。
「みんなに“頑張れ”って言われているうちに、逆に不安になっちゃって……。私、本当にやっていけるのかな」
「そりゃあ、そう感じるだろうな。明日は大勢の貴族や要人が集まる場で、いよいよ婚約が発表されるんだから」
エドガーは隣の椅子を引き寄せて腰掛け、私と同じ高さで目を合わせる。昔は兄がこんなふうに目線を合わせてくれると、それだけで心が落ち着いたものだ。今でも、その感覚は変わらない。
「俺はずっと言ってるけど、ルシアがここまで頑張ってきたことはみんな知ってる。父上や母上だけじゃない。俺も、マリエも、そして殿下も。ちゃんと見てる」
「でも……このところ、殿下とゆっくり話す機会も減っているし、彼がどう思っているのか、私にはわからないわ」
レオンハルト殿下は王太子としての公務で多忙になり、私も公爵家の行事や勉強で余裕がなく、なかなか二人で話す時間が取れなくなってきている。手紙を交わすことはあっても、直接面と向かって、子どもの頃のように笑い合える時間は限られていた。
「王太子殿下は今、必死に“王になるための準備”をしている。側近たちに囲まれ、王家の式典やら政務やらに追われているだろう。だけど、だからといって、お前を軽んじているわけじゃないはずだ」
「ええ、わかってる。殿下はそんな人じゃない……」
そう答えたものの、胸の中の不安は、言葉だけでそう簡単に消えてはくれない。子どもの頃の純粋な気持ちで“いつか一緒に国をよくしよう”と語り合った二人。あの記憶に嘘はない。でも、この数年の間に、お互いが担うべき責任と義務は大きく膨れあがっているのだ。
「俺が保証するよ。ルシアは十分ふさわしい“王太子の婚約者”だ。なにせ俺の妹なんだからな」
エドガーが冗談めかして笑うものだから、思わず私もくすりと笑ってしまう。ほんの少しだけ、心が和らいだ気がした。
「ありがとう、兄様。そう言ってもらえると、なんだか安心できる」
「よし、じゃあ安心したところで……もう夜も遅い。あんまり考え込みすぎるなよ。疲れて体を壊したら元も子もないからな」
そう言い残し、エドガーは部屋を出ていく。扉が閉まると同時に訪れる静寂が、さっきよりは少しだけ優しく感じられる。私は一人部屋に残り、大きく息をついた。
机の上には、明日の舞踏会で使う予定のアクセサリーが丁寧に並べられている。どれも家が用意してくれた、高価で美しいものばかりだ。大粒の宝石があしらわれた髪飾りや繊細なレースの手袋、そしてピンクを基調としたドレス――母が一つひとつ厳選したもので、私自身も試着して胸が躍ったが、今はただ重く感じる。華やかであればあるほど、自分がそんなきらびやかなものに見合う器量を持ち合わせていないのでは、という疑問が湧いてしまうから。
「明日……無事に務められるかな。いや、務めなきゃいけないのよね」
その独白が、どれほど心に沁みてくることか。さらに沈黙が長引きそうだったので、私はごそごそと机の引き出しを開け、小さな木箱を取り出した。中には、レオンハルト殿下と子どもの頃に交わした手紙の一部が大切にしまってある。幼い筆跡が、まだまだぎこちない言葉で綴られている。
「“いつか僕が王様になったら、この国をもっといい場所にしたい。それを君と一緒に……”」
小さな字でそう書かれているのを読むと、まるであの春の庭を駆け回った日の光景がまぶたの裏に広がるようだ。あの頃は、こんなに大変だとは思っていなかった。ただ素直に“やりたいこと”を語り合っただけだったのに。
「殿下……私、ちゃんとあなたを支えられるわよね」
声に出して問いかけても、当然返事はない。けれど、それでもこの手紙が私の心を少しだけあたためてくれる。困難なことも多いけれど、あの時の約束に嘘はないはずだ――その思いが私を明日へと向かわせる力になる。
ベッドに腰を下ろし、しばらくぼんやりと天蓋を見つめていた。シーツに身を横たえれば、体は確かに疲れているはずなのに、頭が冴えて眠気がまったく訪れない。もし眠れずに明日を迎えたらどうしよう。そう思えば思うほど、胸が苦しくなっていく。
「だめだ、こんなことを考えていても仕方ない……」
思い切ってベッドを出ると、窓辺にある一輪の花に目をやった。昼間に庭師から贈られたばかりの薔薇で、鮮やかな紅色が夜の闇にほんのり浮かんで見える。その花を軽く撫でてから、私は再びマリエからもらったハーブティーを一口飲む。少し冷めてしまったけれど、口に含むと香りはまだ豊かだ。
「……どうか、明日はうまくいきますように」
どんなに努力を重ねても、不測の事態は起こりうる。私が立派に見えるかどうかなんて、周囲の判断に委ねるしかない部分もある。それでも私は、やれるだけのことはやったはずだ。ダンスも、礼儀作法も、政治教養も――自分で言うのも変だけれど、少なくとも精一杯身につけようと努めてきたと思う。
「これ以上悩んだって、何も変わらないわ」
自分にそう言い聞かせると、少しだけ眠気が訪れた気がする。確かに心の中には今でも恐れがある。私が本当に“王太子の婚約者”にふさわしいのか、自信なんて全然ない。けれど、殿下との約束を守るためにも、私にしかできないことがあると信じて、ここまで来たのだ。
布団に潜り込み、瞳を閉じる。自室の天井はいつもと変わらず、淡い光だけが浮かんでいるように見える。明日の舞踏会の場面を想像しては胸が騒ぎ、深呼吸してはまた違う不安が押し寄せる。それらをなんとか打ち消すように、子どもの頃の思い出をゆっくりと思い返してみる。
「“いつか僕が王になるときは、君と一緒にこの国を守りたいんだ”」
彼がそう言ってくれた時の笑顔は今も脳裏に残っている。もし、あの光をまた見られるなら、私はどんな重圧だって耐えてみせる。そう――この揺るぎない気持ちだけは、どんなに不安を抱えても私の支えになってくれるのだ。
「殿下……明日、うまくやりましょうね。あなたに恥をかかせないように、頑張るから」
そう口の中で呟いた途端、少しずつ体が緩んでいくのを感じる。たぶん明日も緊張は解けない。けれど、きっと大丈夫。私が自分を疑ってばかりいたら、それこそ失礼というものだ。そう言い聞かせながら、私はようやく瞳を閉じる。
夜の静寂が、窓の外に広がっている。遠くでふと、鈴虫のような声がかすかに聞こえる気がして、私は眠りの底へと少しずつ沈んでいった。夢の中で、あの日の春の庭が広がるなら、私たちは笑顔で手をつないでいるだろうか。それとも、何かが変わってしまった未来を見せられるのだろうか――。そんな考えが頭をかすめたが、すぐに眠りに包まれ、思考はほどけていった。
こうして、婚約発表前夜は更けていく。期待、緊張、恐怖、そして淡い希望。私の胸の奥で複雑に絡まりあった感情が、明日の舞踏会でどう動いていくのか。それはまだ神のみぞ知ること――私が自分の足でしっかりと立ち、声を発し、微笑むことでしか答えを探せない。だからこそ、今はただ休む。明日、少しでもいい顔で殿下の隣に立てるように……。