第2話 重荷の中で
朝の光が差し込む窓辺で、ルシアは背筋を伸ばした姿勢のまま静かに本をめくっていた。鮮やかな装丁の書物には、王国の政治体系や歴史が詳しく記されている。まだ幼い頃、王太子レオンハルトと庭を駆け回って遊んだ日々から幾年かが過ぎ、今の彼女には“求められる知識”が山のようにあった。
「今日は歴史の復習をなさるのですね、ルシア様。午前中は書斎に籠もられるご予定でよろしいですか?」
侍女が遠慮がちに声をかけると、ルシアは本から視線を上げ、かすかに微笑む。
「ええ、少しでも多く覚えておきたいの。午後にはダンスの稽古もあるでしょう? その前に、区切りのいいところまで勉強しておきたいわ」
侍女は控えめに会釈し、部屋を後にする。扉が閉まると同時に、ルシアはため息をつきかけて、一度唇を引き結んだ。幼い頃、何もわからず純粋に“王太子を支えたい”と思った気持ちは今も変わらない。けれど、成長するにつれて、そのためには膨大な努力が必要だという現実を痛感している。
礼儀作法に始まり、舞踏会でのエスコートの要領、各国の文化や言語など、習得すべきことは尽きない。さらに、名門家の跡取り娘として、家を継ぐための実務的な知識も欠かせない。王都に流れる政治の動向、貴族同士の同盟や派閥の関係――こうした情報はあまりにも膨大で、ルシアはしばしば自分の容量を超えてしまうのではないかと不安を抱いていた。
机に広げられた地図には、王国を取り囲むように隣接する諸国が色分けされている。それらの国との同盟や対立の歴史を暗記しようと、ルシアは目を皿のようにして文字を追う。
「公爵令嬢だから、当たり前……」
そう呟くと、頭の中に厳しかった母の声がよみがえる。名門ゆえに周囲の期待は高く、少しでもできないことがあればすぐに「公爵家の娘ともあろうものが」と冷ややかな視線を向けられる。家の格式が高いほど、それに見合う品格と知識を兼ね備えることは当然――貴族社会において、それは揺るぎない常識だった。
昼前に書斎から出ると、今度はダンスの師匠がルシアを待ち構えている。広々としたレッスンルームの床に足を踏み入れた瞬間、彼女は浅く息をつき、気持ちを切り替えた。
「お願いします。今日は難易度の高いステップも試してみたいんです」
いつもは厳めしい師匠も、その言葉には思わず唸るように目を丸くする。
「よろしいでしょう。しかし、無理をして怪我をなさらぬよう……」
そう前置きされたものの、ルシアは無理な注文をした自覚がある。けれど“できないままでは終われない”という気持ちが彼女を突き動かしていた。
ダンスとは、ただ舞踏会で華麗に踊るだけではない。貴族同士のコミュニケーションであり、王太子の隣に立つ上で求められる大切な才能の一つだ。ステップやリズムのミスは、そのまま相手の評判を傷つけることにつながりかねない。ルシアは自分の体を厳しく律し、辛い練習にも食らいつく覚悟で臨んでいた。
踊りの稽古は長時間に及び、汗をかいて息を切らしたルシアに師匠は言う。
「今日のところはここまでに。うむ、動きにぎこちなさが残りますが、随分と様になってきましたね」
「ありがとうございます。次の舞踏会では失敗しないように、もっと練習します」
礼儀正しく一礼をしながらも、ルシアは内心で安堵する。師匠があまり多くを口にしないときは、一定の合格ラインに達している証拠だ。それでも彼女には完璧と言い切れない歯がゆさがあった。まだまだ自分の足りないところばかりが目についてしまう。
自室に戻ると、用意されていた昼食を取る間もなく、今度は言語の家庭教師がやってくる。ルシアの国は周辺諸国との貿易や交流も盛んなため、複数の言葉を解さねばならない。流暢に会話できるようになるには、幼少期からの慣れが重要だと聞かされていたが、ルシアもさすがに一度に多くを詰め込みすぎて混乱しそうになる。
「本日の課題は、隣国の公用語で書かれた資料の音読です。この国は商業が盛んなため、外交文書も複雑な表現が多いですから、気を抜かぬよう」
「はい、よろしくお願いいたします」
静かに微笑んで答えるものの、ルシアの胸の奥は焦りと息苦しさでいっぱいだった。視線だけは決して曇らせまいと、必死に意識している自分に気づく。
「こうして当たり前のように勉強できるのは、私が公爵家の娘だから。それに……いつか王太子の隣に立つなら、これくらいできないと」
いつの間にか、ルシアの中では“努力すること”が日常となり、“心が折れてはいけない”という強い信念にもなっていた。
そんな彼女を、時に優しく、時に厳しく支えてくれる存在が兄のエドガーだ。父の跡を継ぐ第一候補であるエドガーは、政治や軍事の知識を深めるべく王宮にも出入りしている。年が離れているわけではないが、ルシアよりも少しだけ大人びた雰囲気があるのは、彼もまた責任を背負っているからだろう。
「よう、ルシア。今日もずいぶん勉強しているみたいだな」
夕刻、久しぶりに顔を合わせると、エドガーは気軽な調子で話しかけてきた。ルシアはホッとしたように微笑み返す。
「ええ、やることがたくさんあって……。でも、兄様こそ遅くまでお疲れさまです」
「はは、俺はまだまだ半人前だよ。父上には“もっと国の実情を学べ”って言われてばかりだし。気がつけば、王宮で書類を読み漁っている」
エドガーはそう言いながらも、いつもルシアを気遣う目をしていた。幼い頃から妹を大事に思い、その幸せを願ってきた兄。彼は王太子との縁談についても好意的に受け止めているようで、「あの方ならルシアにとっても良い相手だろう」と言ってくれる。
「どうだ? 難しいことばかりで疲れてはいないか?」
「……正直、疲れる時はあるわ。でも大丈夫。私は王太子殿下に恥じないように頑張りたいから」
少し強がった言い方になってしまったかもしれない。けれど、この程度で甘えていては名門の跡取り娘として失格だ――そんな思いがルシアを突き動かす。エドガーは、そんな妹の様子を見て、やや心配そうに視線を落とす。
「焦りすぎるなよ。レオンハルト殿下は、お前を立派に飾りたいわけじゃないはずだ。お前が一緒にいてくれればきっと、それだけで喜ぶだろう」
「そう、かもしれないけれど……。でも、私は何もできないまま隣に立つなんて嫌。少しでも力になりたいの」
「うん、わかった。でも無理はするな。ほんの少しでも辛くなったら、俺や父上、母上にも相談しろ」
エドガーの言葉に、ルシアは思わず胸が熱くなる。親や教師からは常に“もっと、もっと”と厳しい目を向けられる。そんな中、兄だけは“背伸びしすぎるな”と声をかけてくれるのだ。ルシアはそれだけで救われる思いがした。
それでも、日々の稽古や勉学は容赦なく続く。時折、レオンハルトから届く手紙は、忙しないルシアの心を少しだけ軽くしてくれる。
「殿下もお勉強が大変なのね。これまでの王家の歴史を把握するだけでもかなりの情報量だわ。お互い、がんばりましょう――か」
レオンハルトの筆跡は整ってはいないものの、彼の人柄がにじみ出る温かさを感じる。手紙の最後には「また近いうちに会えることを楽しみにしています」と添えられていて、それを見るたびにルシアは心が柔らかくなる。自分だけが苦しいわけではなく、彼もまた王太子という重責を負って懸命に努力しているのだ。
そんな二人を、周囲がどう見ているかというと、必ずしも温かい目ばかりではない。
「公爵家の娘が王妃になると、本当にあの家は安泰ですわね」
「まあ、名門と呼ばれるだけあって、実際に国の基盤を支えている家柄ですもの。けれど、あの娘さん、本当に王太子の隣に相応しいのかしら?」
屋敷の廊下や街角で耳にするそうした声は、表向きは尊敬を装っているが、内心は妬みや冷ややかな評価を含んでいることも多い。ルシアがそれを聞かないふりをしても、胸の奥に棘のように突き刺さるのは避けられない。
さらに、貴族社会特有の取り決めや派閥のせいで、ルシアと家族の言動はいつも監視されているような感覚がある。隙を見せれば誰かが噂を広め、時には敵対派閥が策略を用いて地位を脅かすことすらあるという話を、エドガーから聞いたこともある。
「ここに生まれた以上は仕方ないわ。私は私のできることをするだけ……」
そう自分に言い聞かせ、ルシアは朝から夜遅くまで学問や稽古に身を投じる。それでも、時にふと夜中の部屋で孤独を感じ、涙を流してしまう瞬間がある。子どもらしい無邪気さで笑っていた頃からは想像できないような“重圧”が、年齢を追うごとに確実に増してきたのだ。
そんなある日、久しぶりに家族で夕食を囲む機会があった。いつもは父が執務や夜会で不在だったり、ルシア自身も勉強漬けだったりと、家族の団欒は意外と少ない。
長いテーブルの中央に座る父は凛とした顔立ちで、普段から厳格なことで知られている。しかし娘の将来を思えばこそと、ある種の期待を込めて彼女を見ているようだった。
「ルシア、学業は順調か? 王太子殿下からの連絡はどうだ?」
「はい、殿下もお忙しいそうですが、時々お手紙をくださいます。私も遅れを取らないように頑張っております」
「そうか。それなら何よりだ。……とはいえ、王宮に出向くことも増やさねばなるまい。結婚の正式な話が決まる前から、王城の行事や貴族の集まりには積極的に顔を出して、存在感を示しておくんだ」
厳しい響きにも聞こえる父の言葉は、実際には娘を鼓舞しようというものだった。王妃候補として公に認められれば、公爵家としては名誉も大きいが、その分だけ注目も集まる。子どもの頃は「いつか結婚するかもしれない」と漠然と捉えていた話が、徐々に現実味を帯びつつあるのをルシアは感じた。
食事を終えた後、エドガーがそっとルシアの横に近づき、声を潜める。
「気負うなよ。父上は強い言い方をするけど、結局お前のことが大切なんだ。わかってるか?」
「……ええ、わかってる。でも、私も気を引き締めないと。いろいろな噂や視線があるでしょ? もし不出来なところを見せたら、殿下に迷惑がかかるし、家の恥にもなるわ」
そう答えるルシアの表情は、幼い頃のあの無邪気な笑顔とは違い、どこか張り詰めたようなものだった。エドガーはその変化に気づきながらも、どうしてあげることもできないもどかしさを抱えている。妹が自分で選んだ道――でもあるからだ。
夜、寝る前に手紙を整理していると、レオンハルトからの言葉が心を温めてくれる。
「“僕も毎日勉強ばかりで息苦しい。だけど、遠くで君も頑張っていると思うと、少しだけ心が楽になるよ”」
そこにはまだ少年らしさの残る素直な想いが記されていた。ルシアはその一文を、まるで宝物のように読み返す。
「私も……あなたを支えるためにがんばるわ」
そう小さく口にし、手紙を大切に引き出しへしまい込む。今の自分はもう“ただ庭で遊びたい”なんて言えない立場だ。それでも時々夢に見るのだ。あの日の春風の中で、一緒に笑って走り回ったあの時間を――あの無邪気さは、彼女にとって何にも代えがたい原点だった。
翌朝、ルシアはまた早くに起き出し、鏡の前で身なりを整える。ドレスの裾を踏まぬように歩く練習をし、正しいお辞儀の角度を確かめる。そして数冊の書物を小脇に抱え、父のもとへ向かった。
父がいる執務室は、普段は使用人すら気軽に近寄れないほど重厚な扉で仕切られている。そこにノックをして入ると、父は忙しそうに書類に目を通しながら顔を上げた。
「ルシアか。どうした?」
「今日は午後に近隣の伯爵家の夕餐会がございますよね。そちらでお披露目もあるとお聞きしました。私、しっかりとした受け答えができるように予習をしてまいりましたが、念のため父上のアドバイスをいただければと思いまして」
「そうか。……よかろう、少し時間をとろう」
表情は厳めしいままだが、その奥には“我が娘ながらよくやっている”という誇らしさが滲んでいると、ルシアは感じた。思えば父に褒められた記憶は少ない。けれど彼が自分を思っていることは、言葉にしなくてもわかる気がする。
夕餐会では、何人もの貴族がルシアに声をかけてきた。名門家の令嬢であり、王太子の婚約者候補――その立場は注目を浴びるに十分だ。
「ご機嫌麗しゅう。お噂はかねがね伺っておりますわ。王太子殿下とも、近々正式に婚約を発表なさるとか?」
皮肉なのか、それとも単なる興味なのか。目の前の婦人は笑みを貼り付けたまま、探るような口調で話す。ルシアは平静を装って応じる。
「どうなるかはまだ、王家と父や母とが相談して決めることでございます。私としては殿下のお力になれればと願っておりますわ」
訓練通りの言葉を返しながら、ルシアは自分がまるで仮面をつけているかのような感覚を覚える。表面上は穏やかに微笑み、礼儀正しく振る舞う。その裏では「うまく切り抜けられるか」「次は何を言われるだろう」という不安が常に渦巻いている。
しばらくして、邸の広いバルコニーから夜空を仰いだとき、ルシアはそっと自分の胸に手を当てた。長時間の社交は思いのほか体力を消耗させ、足に少しだけ痛みを感じる。数曲のダンスをこなし、立ち話に応じ、そして笑顔を絶やさないのが貴族としてのマナー。どれだけ練習しても、本番では緊張と疲労が重くのしかかる。
「それでも……私が頑張らないと」
夜空に向かってそう呟く声は小さいが、意志の強さを含んでいた。レオンハルトを支え、自分の家を守るためにも、弱音ばかり吐いてはいられない。
遠く王都の中心にある王宮を思い浮かべると、あの笑顔が脳裏に蘇る。何度か手紙を交わし、時々は直接会って話す機会もあるが、レオンハルトが背負う重責はさらに大きいに違いない。ルシアはそのことを想像し、また自分に活を入れる。
しかし、その一方でほんの少し――ほんの少しだけ、二人の間に「周囲の期待値の差」を感じる瞬間が増えているのも事実だ。
たとえば宮廷の人々は、王太子と名門公爵家の娘が結ばれることを歓迎しているように見えながら、その裏で噂を立てる者もいる。貴族社会の中には王妃の座を狙う他の名家もあるし、王太子との絆を自分たちの利権拡大に利用しようとする動きだってある。レオンハルトもまた、そうした複雑な政治の駆け引きの渦に否応なく放り込まれている。
「いつか、あの方を信じきれなくなる日が来てしまうのだろうか……」
そんな不安が頭をかすめても、ルシアはすぐに首を振る。大切なのは、レオンハルトとの約束を信じ、自分にできることを着実に続けること。それが、名門令嬢としての責任――そして、自ら選んだ道だと繰り返し言い聞かせる。
邸宅から戻り、夜も更けた廊下を歩いていると、兄エドガーがそこにいて、待ちかねたように声をかけてきた。
「遅かったな。もう屋敷へ帰っている頃だと思っていたが」
「夕餐会で話し相手が多くて……。おかげでくたくたよ」
ルシアは軽い調子で言いながら、どこか弱った笑みを見せる。エドガーは妹の肩にそっと手を置き、部屋まで送るように並んで歩き出した。
「お疲れさま。……本当にお前が必要以上に頑張りすぎていないか、俺はそれが心配なんだ」
「兄様がそんなことを言うなんて。私、大丈夫よ。まだまだ平気」
そう答えながらも、ルシアの声には微かな震えがあった。兄にだけは本音を見抜かれてしまう気がして、少し怖い。幼い頃から何かあるたびに、エドガーはルシアを守ろうとしてくれてきた。だが今はもう、兄だけに守られるわけにはいかない立場だ。
「そうか。でも、いつでも頼っていいからな。お前は俺の大事な妹なんだ。忘れるなよ」
「ありがとう……兄様」
そう言ったきり、二人は多くを語らない。重い沈黙が走廊を包むが、その余計な言葉を交わさない静けさが、かえって互いの思いの深さを物語っていた。
こうしてルシアの日々は、“名門令嬢の責務”と“王太子の将来を支える決意”に挟まれながら、ひたすらに努力することに費やされていく。幼い頃は確かにあった無邪気な喜びも、今では大人たちの期待と厳しい視線に塗りつぶされそうになる瞬間が多い。
それでも彼女は前を向き、歩き続ける。疲れを感じるたびに、レオンハルトとの約束を思い出し、自分の足元を見失わないよう踏みとどまるのだ。
「少しでも殿下の力になれるように。少しでも家の名に恥じぬように」
夜、寝台に横たわり、瞼を閉じる前にそう心で繰り返す。夢の中では、あの日の春風が吹き渡る庭を思い浮かべる。レオンハルトと手を取り合い、笑いあったあの景色。何も怖くなくて、何も複雑ではなかった、あの瞬間――。
あの笑顔を護るために、今の自分がある。それを思えば、どんな重い責任も背負えるような気がする。そして同時に、その笑顔との間に生まれるかもしれない“すれ違い”が、いつか彼女を大きく苦しめることになるかもしれないという不安も、かすかな影として胸に残っていた。
貴族の世界は厳しい。名門に生まれながら、努力を怠ればすぐに足元をすくわれる。王太子の傍に立つなら、誰よりも努力しなければならない――ルシアの毎日はまさにその想いの繰り返しで、焦燥と責務に追われながらも、確かに充実した時間でもあった。
笑顔で乗り切るだけでは許されない。だが、それでも立ち止まらないのは、彼女が純粋に“愛する人の夢を支えたい”と望んでいるからなのだ。
こうして、幼いころのほのぼのとした日々は過去の記憶となり、ルシアは少しずつ貴族社会の厳しい風の中で揺れながらも成長を続けていく。彼女の瞳には、まだ見ぬ未来がどのように映っているのか――それを問うのはまだ早い。今はただ、積み重なる学びと稽古の果てに“王太子の婚約者たる資質”を手にしようと、少女は一心に足を動かしている。