第19話 最後の言葉
夜の帳が降り、屋敷の廊下に淡い灯だけがゆらめいていた。私はその灯を頼りに、扉を開ける。息を吸い込むと、どこからか漂う懐かしい花の香りが胸を締めつけるようだった。外へ旅立つ前夜――この家を離れるのが本当に最善なのか、何度も考えたはずなのに、まだ心は揺れ動いている。
兄エドガーが待っている部屋の扉をノックすると、低い声で「入れ」と返ってきた。私は意を決してその扉を開ける。いつもは厳粛な面持ちで書類に目を通している兄が、今日は小さなテーブルに肘をついて、頬杖をつくようにして窓の外を眺めていた。
「兄様……ごめんなさい、こんな時間に呼び出したりして」
「いや、お前から声をかけてくれるのを待っていた」
私が部屋に一歩踏み出すと、兄は椅子から立ち上がり、軽く肩をすくめるようにして微笑んだ。どこか沈んだ空気の中でも、兄の姿を見るとほっとしてしまうのは、幼い頃から変わらない。
私は深く息をつき、改めて頭を下げる。
「兄様、明日の朝早く、私はここを出ます。……最後にもう一度、話がしたくて」
「わかってる。お前の気持ちが変わっていないのも、重々承知してる。だけど、一度だけ聞かせてほしい。……本当に行ってしまうのか?」
「……はい。どうしても今は、この家にいると息苦しくて……。殿下のことで心を痛め続ける日々から、早く抜け出したいんです。兄様にまで迷惑をかけてしまうのはわかっているけれど……」
言葉に詰まってしまう。兄がどれほど公爵家を守るために尽力してきたか、私もよく知っている。そんな彼のもとを離れるのは、正直後ろめたさが募る。それでも、ここを離れなければ、自分が本当に壊れてしまいそうなのだ。
「そうか……。残念だ。正直、俺は、お前ともう少し一緒にこの家を再建したいと思っていた。名誉を取り戻せたと言っても、まだやるべきことが山ほどあるからな。……でも、今のお前はそれどころじゃないってことも、わかってる」
兄は悲しそうに視線を落とす。私が黙り込むと、彼はゆっくりと近づいて、その大きな手を私の肩に置いた。
「頼む。……いつかでいいから、戻ってきてほしい。俺はお前がいないと、どうにも心細いんだよ。公爵家にとっても、そして何より俺自身にとっても、お前は大切な妹だから」
「兄様……」
喉の奥が苦しくなる。兄は少し照れくさそうに首を振ったが、その目にははっきり涙が浮かんでいた。私はその優しさに甘えたくなり、思わずしゃくり上げそうになる。
「ごめんなさい、兄様。私が勝手に出て行くなんて、親不孝だし、あなたにも苦労をかけるとわかっています。だけど、私はこのままここにいたら、きっと心が壊れてしまう。自分を少しでも取り戻すためには、少し距離が必要なの」
「わかる。お前を無理やりここに縛りつけるつもりはない。ただ、忘れないでくれ。お前の居場所はいつだってここにある。いつでも帰ってきていいんだ」
「……ありがとうございます。いつか、すべてを許せるようになったときには、きっと戻ってきます。今は、自分でもどうしようもないくらい、心が荒んでいて……許すってことがどういうことなのかも、わからなくなってしまったから」
そう言いながら、私は兄に向かって静かに頭を下げる。いろいろな感情が込み上げてきて、胸がいっぱいになる。兄に対しても言いたいことは山ほどある。私はこう言いたかった。「あなたが私の兄で本当によかった。ありがとう」――だけど、声が出ない。言葉にするともう涙で話せなくなりそうだから。
「ルシア……その……ありがとう」
逆に兄が先に、震えた声でお礼を言う。私の心にしまった言葉を、兄は察してくれているのかもしれない。二人きりの部屋で、どちらも目が潤んで、それでもどうしようもなく笑ってしまいそうになる。悲しいのに、どこか懐かしくもあたたかい、そんな空気だった。
「ごめんなさい、兄様。いろいろ背負わせて。私が殿下との縁談に絡んでから、家の行く末も大きく揺らいだし、兄様はいつも大変な思いをしていたのに、私までこうやって逃げるように旅立つなんて」
「逃げてなんかいないさ。お前が必要な道なんだろう。俺はそれを信じるだけだ」
兄が私を強く抱きしめるように腕を回す。私もその腕にすがりながら、静かに目を閉じた。ずっとあたたかな支えであり続けてくれた兄が、こうして最後まで私の決意を認めてくれることが嬉しくて、でも苦しくて。
そうしてしばらく、二人で何も言わずに立ち尽くす。私が旅立てば、兄には家をまとめる責任が重くのしかかるはずなのに、「留まれ」とは言わない。それが、どれほどの愛かを思うと、もう涙をこぼさずにはいられない。
時間がどれほど経ったかわからない。最後に兄が大きく息をつき、私の肩を離した。目を見合わせると、どちらも赤くなった目をしていたが、変に取り繕ったりはしない。今さら隠す必要もない。
「明日の朝、見送りに行くよ。馬車の準備もしてあるから、俺に声をかけてくれ」
「……うん、ありがとう、兄様」
「お前は明日から大変だ。どこへ行くかもはっきり決めずに旅立つんだろう? 風邪など引かないようにな」
そんな些細な言葉がやけに胸に染みる。私が軽くうなずき、小さく笑うと、兄は表情を曇らせながら扉を開けて部屋を出ていった。扉が閉まった瞬間、張りつめていた感情がぷつりと途切れ、私はそっと咽び泣きそうになる。
次の朝、まだ日は昇りきっていない。屋敷の玄関先には馬車が用意され、エドガーと数人の使用人、そしてマリエが集まっていた。私は荷物を最低限にまとめ、もう一度屋敷を振り返る。ここでの生活は苦しくなったけれど、それでも多くの思い出が詰まった場所だ。
遠くから小走りで近づいてきたマリエが息を切らしながら頭を下げる。
「ルシア様、最後までお仕えできず申し訳ございません。どうか、お身体に気をつけて……いつか必ず、お戻りになってくださいませ」
「マリエ……ありがとう。あなたに甘えてばかりだったわね。あなたがいてくれて、本当に救われたの。もし、私がきちんと戻れるようになったら、また私にお茶を淹れてほしい」
マリエは目尻を熱くしながら何度も頷く。使用人たちも口々に「どうかお元気で」「お嬢様」と言ってくれる。私は感謝しきれない思いを胸に、ひとりひとりに視線を送り、笑みを返した。
エドガーが馬車のドアを開け、私に手を差し伸べる。私はその手を借りて車内に入る。最後の最後にもう一度だけ、兄に目を向けると、彼は寂しげに微笑んでいる。
「ルシア、これ以上は何も言わない。行ってこい。お前が帰りたくなったときは、遠慮なく戻ってこいよ。約束だぞ」
「うん……本当にありがとう、兄様。あなたが私の兄でよかった。ごめんなさい、こんな形でしか礼が言えなくて……」
言葉が胸に詰まり、声が掠れる。エドガーはそのまま、ドアをそっと閉めてくれた。使用人の一人が馬を走らせ、ゆっくりと馬車が動き出す。私は窓から兄の姿を最後まで見つめた。兄もまた、こちらに向かって少し手を振っているのが見える。
揺れる馬車の中で、私は静かに涙をこぼす。けれど、昨日の夜に兄とかわした言葉や抱擁を思い出すと、心の奥にほんのりと温かい光がともる気がした。この旅は決して兄への当てつけでもなく、家からの逃避でもない。私が自分を取り戻すための大切な一歩。それを愛する家族が理解してくれたことが、何よりも救いだった。
馬車が通りを抜け、やがて街道へ差しかかる。見慣れた王都の風景が、少しずつ遠のいていく。私の中には悲しみや喪失感が渦巻いているが、同時にどこかで「これから先、きっと私は強くなれる」と信じたい気持ちが生まれていた。
「いつか、すべてを許せるようになったときには……必ず、戻ってこよう」
小さく呟くと、朝の風が淡くカーテンを揺らす。胸の痛みはまだ消えないし、傷ついた思い出を抱えたままだ。だけど、この旅が私に新しい力をもたらしてくれるかもしれない。そう思いながら、私は瞳を拭い、馬車の窓をそっと閉じた。
こうして、私は王都を離れる。大切な兄との別れは苦しかったけれど、彼の愛情と、私がいつでも帰れる場所があるという支えがあるからこそ、踏み出せた勇気でもあった。しばらくは涙が止まらないだろう。けれど、いつかきっと、笑顔で帰る自分を想像してみよう――そう思いながら、馬車は静かに旅路を進んでいくのだった。