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第18話 旅路の誓い

 王都に大きな波紋を残した暗殺未遂事件から数日が過ぎ、城内の騒動はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。しかし、そこには言いようのない後味の悪さと、深い溝が刻まれている。

 リシャールが捕らえられ、王太子を陥れようとした計画の全貌が明らかになるにつれ、人々は王家に複雑な視線を向けるようになっていた。なにより、王太子レオンハルトが自らの過ちを公に認め、ルシアを疑ったことへの謝罪を行ったのは衝撃的な出来事だった。王宮では、少なからぬ者が彼の行動を称える一方で、その裏には「これほどの混乱を招いたのだから当然だ」という冷ややかな声も混在している。


 王太子の私室に足を踏み入れると、その陰鬱な空気が否応なく胸に迫る。レオンハルトは机に突っ伏すようにして沈みこみ、書類もまともに目を通していない様子だった。昼間の光が窓から射し込んでいるのに、部屋の中はまるで夕暮れのように暗い。

 侍従長が声をかけるが、レオンハルトは反応が薄い。心ここにあらず、とでも言わんばかりに、ただ苦悶の表情で額に手を当てていた。


「殿下……いかがなさいますか。執務を延期されますと、国政にも差し支えが出ますが……」

「……少し、時間をくれ。すぐに行くから」

 かろうじて声を絞り出す。もう何度目になるかわからない同じやりとりに、侍従長も困り果てた顔をして退出していく。その後ろ姿を見送った後、レオンハルトは机に乗せていた小箱を静かに開いた。中には、幼い頃のルシアとの手紙や思い出の品がしまわれている。彼女が小さな筆跡で書いた何気ないメッセージ――「早く立派な王様になって、一緒に国をよくしよう」と記された紙きれを手に取り、レオンハルトは切なさに瞳を伏せた。


(あの頃、俺は何の疑いもなく、彼女を信じていた。もっと早く、あの誓いを思い出していれば……こんなことにはならなかったのに)


 喉がひりつくような痛みを覚えながら、彼は小箱を閉じる。もう一度手のひらで軽く撫でるが、それだけではあのあたたかな日々は戻ってこない。自分を苦しめるのは無力感と後悔ばかりだ。

 王太子としての立場も危ういとはいえ、レオンハルトは何よりルシアへの罪悪感に苛まれていた。どう償えばいいのかもわからず、声をかけても彼女の表情は変わらず、静かな拒絶の気配が漂うだけ。彼女の中で、信じてもらえなかった悲しみや怒りが想像を超えるほど大きいことは、今のレオンハルトにもはっきり伝わってくる。


 一方、公爵家の屋敷では、ルシアが旅の準備を進めていた。かつて起こった陰謀の首謀者リシャールが明るみに出たことで、公爵家への風当たりは以前よりやわらいだものの、だからといって彼女の心が安らぐわけではない。

 彼女は広い寝室で衣装をまとめながら、マリエと向き合っている。マリエが必死に説得を試みるが、ルシアは静かに首を振った。


「ありがとうございます、マリエ。けれど、今の私には……ここに留まるのは、正直つらいのです。名誉が回復されたとしても、私の心の傷はまだ残っていますから」

「ルシア様……。せめて、もう少し時間を置いてからでは……? 殿下も、今は悔いておられますし……」

「わかっています。でも、この場所で殿下を近くに感じるたびに、胸が苦しくなるんです。……どうしても距離が必要なの。兄様には迷惑をかけてしまうけれど、私自身が立ち直るために、どうしても」


 淡々とした言い方ではあるが、その瞳には静かな涙が浮かんでいる。ここはかつて、自分が誇りを持って暮らしてきた家だ。両親や兄、マリエをはじめとする使用人たちとの思い出が詰まっている。だが今は、王太子との辛い記憶ばかりが頭をよぎり、ここにいるのが苦しくなってしまった。

 マリエが言葉を失って立ち尽くすと、扉が開き、エドガーが入ってきた。妹の姿を見るなり、苦渋の表情を浮かべて歩み寄る。


「ルシア、本当に行くのか。せっかくお前の無実は証明されたし、家もこれから再建できそうなのに……」

「知ってる。でも、私がここに残っても心が追いつかない。殿下のことを考えると、どうしても辛くなるから……」

 その言葉に、エドガーは悔しそうに眉を寄せる。愛する妹を遠くへ行かせたくない気持ちと、彼女を解放してやりたい気持ちとの間で揺れているのだろう。だが、兄としての彼は、ルシアがここまで決意を固めていることも理解している。


「わかってる。お前がここを離れるのは、家族としては寂しい。俺にとっては大事な妹だし、正直、そばにいてほしい。だけど、お前が限界だというなら……止めるわけにはいかないな」

「兄様……ごめんなさい。私がこんな形でしか身の振り方を決められなくて……」


 ルシアの瞳にまた涙が浮かぶ。エドガーは妹の肩に優しく手を置き、ぎゅっと握りしめる。彼女に必要なのは、きっと無理強いではなく温かい理解だとわかっているからだ。

 遠くから見れば、屋敷は落ち着きを取り戻しつつあるように映るかもしれない。だが、ルシアの内面の葛藤は嵐のように荒れ狂っていて、今しばらくは立ち止まれそうにない。だからこそ、旅の支度を進めるしかないのだ。


「……わかった。荷造りが終わったら教えてくれ。明日の朝、俺も見送る。お前がいなくなるなんて考えたくないが、これ以上ここにいて苦しむのも見たくないからな」

「ありがとう、兄様。……本当に……」


 言葉が次につまってしまう。兄の優しさに応えきれないもどかしさが、息を詰まらせる。エドガーもまた、俯きがちに深く息を吐く。

 マリエは黙ったまま何かを言いかけ、結局やめたように口をつぐんだ。彼女もまた、ルシアがこの家を去るという事実を受け止めきれずにいるが、きっと一番大切なのはルシアの心の回復だと思い、あえて何も言わないのだろう。


 そんな沈黙の中で、ルシアは小さく頷いてからベッドの上に広げていたカバンを再び閉じる。中には日用品や衣類、そして何より、自分を取り戻すための小さな希望が詰まっているのだと思いたい。

 しばらくして、エドガーが意を決したようにルシアに視線を向ける。


「……殿下から、何か連絡はなかったのか?」

「いいえ。謝罪の時以来、一度も会っていません。……殿下は、自分のことで手一杯でしょうし、私もどう対峙していいか、わからない」

「そうか……。もし殿下が自らお前に会いにきたら、少しは気持ちが変わったりするのか?」

 ルシアはかすかに苦笑いを浮かべる。思い返せば、かつてはあれほど心を許し合っていた相手。それが今は、どちらも言葉を交わすことすら恐れている。受けた傷は深く、時間が必要なのだ。


「会えたとしても、たぶん同じ。今の私には、何を言われても受け入れられないから。あの時の絶望を、すぐに忘れられるほど、私は強くないの……」


 静かな言葉が部屋の中を満たす。エドガーはそれ以上問い詰めることはせず、ただ妹を見守る。外の廊下からかすかに使用人たちの足音が聞こえるが、この部屋に満ちているのは重苦しくも温かな空気だった。


「夜が明けたら、旅は始まる。お前はもう覚悟しているんだな」

「……はい。兄様にも何度も言っているのに、繰り返しになってごめんなさい。でも、これが私の選んだ道です」

「わかったよ。支度が済んだら、少しゆっくり休め。明日は早いんだろう?」

「ええ……そうする。ありがとう」


 そう告げて、ルシアはカバンを抱えなおす。涙はもう枯れてしまったかのように、今は出てこない。ただ、胸の奥には大きな空洞が広がっているような気がする。それを埋めるのは、今のところ遠くの地へ旅立って、静かに自分を見つめ直すことしかないのだろう。


 エドガーが部屋を出ていくと、マリエが最後にそっと近づき、「お手伝いできることがあれば何でもお申し付けくださいませ」と頭を下げた。ルシアは微笑み返す。


「本当にありがとう、マリエ。あなたには苦労ばかりかけて……もう少しで終わるから、大丈夫よ」

「どうか……くれぐれもお気をつけて。私はいつまでもお待ちしていますから」

「……うん、ありがとう」


 マリエが部屋から出ていくと、ルシアは一人きりになった。静まり返った空間に、かすかな風の音が響く。思わず窓を開けると、夜の帳が降りて屋敷の庭を薄闇が包んでいた。かつて王太子との舞踏会の練習をした庭。エドガーや両親と歓談したテラス。すべてが懐かしく切ない。

 けれど、明日にはもう、この部屋には自分はいない。荷造りを終えて、少しだけ眠りにつけば、朝がやってくる。旅立つ前夜、最後に一度だけ深く息を吸い込む。涙は出ない。今はただ、この静寂を心に刻みつけるように、闇を見つめていたい。


(この国にはまだ未練がある。それでも……今は遠くへ行くしかない)


 そう胸中で繰り返す。兄との会話が頭に残っている。悲しいけれど、あたたかい。失ったものが多くても、私にはまだ家族がいて、私を認めてくれる人たちがいる。それだけが救いだった。

 夜は深まっていく。遠くの方でかすかに犬の鳴き声が聞こえ、屋敷は静まる。明朝、私は出発する。心の準備はできているはずなのに、胸は張り裂けそうなほど痛む。だけど、進まなければならない。自分を取り戻すために――。


 こうしてルシアは旅立ちに備えて最後の夜を過ごす。兄エドガーとの別れは苦しいけれど、いつかすべてを許せるようになったときには戻ってくると誓いながら。窓の外にはかすかな月明かりが広がり、どこか儚さを湛えている。彼女はその光を見つめながら、目を閉じて何も考えないようにしようとする。

 許しや和解には時間が必要なのだと、痛感しながらも――それでも、自分が踏み出した道の先に、ほんの少しの光を信じていた。

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