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第15話 潜む影

 王宮の大広間は、美しい音楽と華やかな笑い声に包まれていた。天井から吊るされたシャンデリアの光が人々の衣装を照らし、幾重ものきらめきが波打つ。貴族たちは思い思いにダンスのステップを踏み、あるいはワイングラスを片手に談笑を楽しんでいる。今日は王太子レオンハルト主催の舞踏会――かつてルシアとの婚約が破棄された後も、彼は公務の一環として社交の場を設け続けている。周囲からの称賛と期待を一身に背負いながら、その笑顔にはどこか陰りが混じっていた。


 一方、その賑わいの裏側では、ある男の思惑が静かに進行している。宮廷の高官リシャール――彼はすでに名門公爵家を弱体化させ、王太子を自身の掌中に収めつつある。今夜の舞踏会は、王太子がさらなる支持を得る場として企画されたものだったが、リシャールにとってはもう一つの狙いがあった。王太子の暗殺計画――それは今はまだ遠い先の想定にすぎないが、条件が整えばいつでも実行に移せるよう、準備を進めているのだ。


 華やかな曲が流れ始め、客人たちは次々とダンスフロアへ向かう。レオンハルトは宰相や諸侯と会話を交わしながらも、視線を宙にさまよわせるようにして落ち着かない。これは彼の舞踏会なのに、どうしてこんなにも気が晴れないのか――自分でもわかりきった答えを直視できずにいるようだった。時折、気丈にふるまうセシリアに目を向けるが、彼女の顔にもまた、どこかしら影が差している。


 実はセシリア自身、今夜の舞踏会に潜む“罠”を薄々感じ取っていた。リシャールがどのような計画を企てているのか、詳しくは知らされていない。しかし、最近のリシャールの言動や周囲への圧力からは、ただならぬ凶行の気配が漂う。セシリアが怯えているのは、自分がこのまま巻き込まれてしまうかもしれないからだ。そして何より、レオンハルトさえも危険にさらされるのではないかという疑念が日に日に膨らんでいた。


(もし、わたしがあの夜、真実を話していれば……ルシア様も、殿下も、こんな不穏な状況に陥らなかったのかもしれない)


 セシリアは心の内でそう呟いては罪悪感に駆られ、けれど恐怖に縛られて何もできない。今さらリシャールに逆らえば、どんな報復を受けるかわからないし、自分一人の声を上げたところで、人々は王太子の新たな伴侶を望む空気のほうを信じるだろう。彼女にとっては、ここで黙って現状に耐えるのが精一杯だった。


 そして今夜、そんな舞踏会の煌めく会場へ、ある二人の姿がひそかに紛れ込んでいた。ルシアと兄エドガー――ふたりは公爵家の縁者として特別に名を連ねるわけでもなく、ごく一般の客人に紛れて会場を見渡している。服装は華やかさを押さえた貴族らしい装いだが、ルシアの顔を正面から見る者はほとんどいない。周囲から白い目で見られてもおかしくない状況だからこそ、彼女は姿を隠すように薄いヴェールをかぶっていた。


 ルシアの胸は高鳴っていた。王太子を救うなんて、おこがましいと思ったこともある。それでも“自分のできる範囲で、真実を追い求める”と決めた以上、こうして危険を顧みず行動に移さなければならない。兄エドガーの情報によれば、リシャールが暗殺という重大な策を練っている可能性があるという。ターゲットは王太子だけではなく、あるいはその周囲も含まれるかもしれない。もし何かのきっかけで計画が加速すれば、今夜の舞踏会が血塗られた場になる可能性も否定できない。


(殿下はこの舞踏会にどんな気持ちで臨んでいるのだろう。あの日、私に向けた冷たい視線はもう忘れたいはずなのに……)


 ルシアは胸の痛みをこらえつつ、ちらりとフロア中央を見やる。レオンハルトは貴族の一団と会話している。楽しげに装った顔を浮かべてはいるが、その瞳はどこか鋭く、時折不安げにきょろりと視線をさまよわせる。不自然な様子を誰がどのように感じ取っているのか――これほど大勢がいる場で見抜くのは難しいが、ルシアの目には微かに違和感が映る。

 さらに視線を移すと、会場の片隅でセシリアが椅子に腰かけているのが見えた。彼女はダンスにも加わらず、所在なさげにテーブルに置かれたグラスに手を伸ばしている。ルシアは、あの令嬢が自身を陥れた中心人物の一人であるという苦い記憶を抱えながらも、妙に心配になるのを止められなかった。あの表情はまるで、“いつ何が起こってもおかしくない”と怯えているようにさえ見える。


(やはり、セシリアもリシャールに操られているのかもしれない。……ならば、彼女も私と同じく被害者? それでも、あの夜のことは許せないけれど……)


 頭を巡らせているうちに、エドガーがそっとルシアの手を引いた。彼の表情は固く、喧騒にまぎれて小声で囁く。

「警備の配置に少し奇妙な点がある。この舞踏会は殿下が主催するのに、外部の衛兵が妙に多い。しかも、リシャールに近い者ばかりみたいだ」

「まさか、今夜のうちに……?」

「わからない。ただ、可能性はある。リシャールが王太子を狙っているなら、何らかの演出で暗殺を隠す算段をしているかもしれない」

 背筋が震える。こんな明るい音楽と人々の笑顔があふれる場で、ひとたび凶行が行われれば、逃げ場のない大惨事になるかもしれない。兄エドガーは怯むことなく、目を見据えて続ける。


「俺は警備に不審な点がないか、もう少し確かめる。お前はフロアを見渡して、リシャールの動向を探れ。奴が今夜の主役をどんなふうに操る気なのか、少しでも掴むんだ」

「わかった。……気をつけてね、兄様」

「お前もな」

 そう言葉を交わすと、エドガーは周囲の人混みに溶け込むように歩き出した。ルシアは唇を噛みしめながら、辺りの様子を観察する。ドレス姿の令嬢や仕官服の紳士が行き交い、誰もが宴に酔いしれているようだ。だが、その裏に潜む影を知ると、この華やかさがかえって不穏に映る。


(殿下のそばにはリシャールがいるはず……まずは彼を見つけないと)


 ダンスフロアの中央付近では、レオンハルトが腰に剣を帯びた者たちと話し込んでいる。よく見ると、その中の一人がリシャールだ。茶色がかった黒髪をきっちり整え、優雅な態度を保ちながら、王太子や取り巻きの貴族たちに丁寧に挨拶を交わしている。公の場では誰もが「有能な補佐役」として彼を評価しており、その柔らかな笑顔に疑念を抱く者は少ない。

 ルシアは柱の陰からそっと様子を伺う。今夜のリシャールに不審な動きはあるのか――しばらく注視していると、彼は取り巻きの一人とわずかに目を合わせ、小さくうなずいたように見えた。それはほんの一瞬だったが、何らかの合図に思えた。ルシアが胸をざわつかせていると、ふと気配を感じて振り向く。そこには、セシリアの姿があった。


「……ル、ルシア様……?」

 小声で名前を呼ぶセシリアの瞳には、驚きと困惑が混じる。ルシアは驚きつつも、とっさに彼女の手を取ってしまった。二人にとっては、複雑な再会だ。視線が交わる一瞬、セシリアは申し訳なさそうに唇を震わせる。


「どうして、ここに……危ないですよ。もしリシャールに見つかったら……」

「わかってる。でも、あなたはなぜそんなに怯えているの? リシャールが本当に何かやろうとしているの?」

 問いかけに、セシリアはすぐに返事できない。周囲に聞かれるとまずいと思ったのか、彼女はルシアを引き寄せて人気の少ない窓際へと移動する。夜風が入り込み、ふたりのドレスの裾を揺らした。

 セシリアは小刻みに息をつき、俯きがちに言葉を吐き出す。


「……わたしは何も知らされていません。けれど、リシャールの周りの人たちが厳戒態勢をとっているようです。殿下も、今日はなんだか落ち着かなくて……。怖い。わたし、もう耐えられない」

「耐えられないなら、なぜ殿下に助けを求めないの? あなたが真実を話せば、リシャールの計画を止められるかもしれない」

 そう畳みかけるルシアに、セシリアは悲痛な表情を浮かべる。指先が震え、怯えきった瞳には涙がうっすらにじんでいた。


「できないんです。わたしが今さら“あれは嘘でした”なんて言えば、殿下からも見放される。リシャールはもっと恐ろしい手を使うでしょうし……」

「……そう」

 セシリアを強く責める気にはなれない。彼女もまた、追い詰められているのだろう。ルシアは心中で複雑な感情をこらえつつ、彼女の肩に手を置く。


「わかったわ。無理強いはしない。でも、もしも本当に何かが起こりそうなら、教えてほしい。殿下やこの国を壊そうとする企みに、黙って加担するのは、もうやめにしてほしい」

 セシリアは歯を食いしばるようにしてうなずくが、それ以上の言葉を発せず、足早に離れていった。何かを言いかけたようにも見えたが、言葉にする勇気がなかったのだろう。人の流れに紛れた彼女の背中は、小さく震えているようだった。


(やっぱり、リシャールが動くのは今夜かもしれない)


 ルシアはそう確信し、視線をフロア中央へ戻す。レオンハルトは貴族たちとの会話に応じながらも、時々あたりを見回している。そこへリシャールが静かに近づき、何か囁いた。王太子は一瞬表情を曇らせたが、すぐにまた無理やり笑みをつくっている。心ここにあらずといった様子だ。

 エドガーの姿を探すと、会場の端で衛兵と軽く言葉を交わしているのが見えた。大きな事件が起こる前に、警戒を強めるつもりだろう。ルシアはひそかに息を整え、ドレスの裾をきゅっと握る。


(もう後には引けない。リシャールが何を仕掛けるかはわからないけど、必ず阻止してみせる。殿下を裏切ったまま終わるのは……私の、本意じゃない)


 そこへ、リシャール本人がふと視線を向けてきた。彼もまた、客を巡るふりをしながら、フロアをくまなく観察しているようだ。一瞬だけ、ルシアの姿を捉えたかのように思えたが、彼はすぐさま取り巻きのほうへ向き直り、何事もなかったかのように談笑を続ける。

 そのわずかな瞬間に、背筋に冷たいものが走る。彼の微笑の奥には、冷徹な策略家の狂気が潜んでいると知る者は少ない。このきらびやかな舞踏会こそ、彼の暗躍の理想的な舞台となるだろう。


 舞曲が終わり、音が止んだタイミングで、レオンハルトがフロアの中央に立つ。貴族たちが視線を集める中、彼は乾杯の挨拶を述べようとしているようだ。手には装飾の施されたワイングラスを持ち、いかにも王太子らしい気品を醸し出す。しかし、その胸中にどれほどの不安が渦巻いているかは、今のルシアには手に取るようにわかる気がした。


(殿下、お願い、あなたが無事でいて……私はまだ、あなたを憎み切れないまま、守りたいと思っているの)


 そんな思いを抱きながら、ルシアはエドガーに合図を送る。兄と息を合わせて、いつでも対応できるように動くつもりだ。

 これから何が起こるのか――まだ誰も知らない。けれど、華麗な舞踏会の裏でひそやかに息づく黒幕の狙いは、今まさに最終段階に向けて蠢き始めている。ルシア、エドガー、そしてセシリアさえも、その渦中に飲み込まれようとしていた。

 誰もが優雅な笑みを保つ中で、圧倒的な緊張感が漂い始める。まもなく、この豪華な夜会が運命を大きく揺さぶる事件の舞台となる――そう予感させる不穏な空気が、静かに花々の香りを侵食していくかのように、会場を包み込み始めていた。

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