第14話 決断の時
朝の冷たい光が差し込み始める頃、私は部屋の窓辺で膝を抱えていた。床には、いつかのまま散乱している手紙や小物たち。心を乱すだけだと、ずっと見ないようにしていたけれど、今はもう、部屋の荒れ様にすら慣れてしまった。
それでも、一晩中悩み抜いた疲労は拭えない。まぶたは重く、身体も鉛のようにだるい。けれど、今日だけは自分を奮い立たせなければならない気がする。なぜなら、マリエや兄エドガーが新しい情報を持ってきてくれたからだ。部屋を閉ざしていた私にも、少しずつ“見えない糸”が見え始めている――その事実だけは、確かなのだと信じたい。
マリエの淹れてくれたお茶を啜りながら、私は彼女と兄から聞かされた話を思い返す。両者の口ぶりによれば、リシャールという男が裏で暗躍しているらしい。王太子レオンハルトが私を疑うよう仕向けたのも、セシリアが“被害者”を演じたのも、すべてこの人物の影が見え隠れしているという。
ふと、頭の中で疑問が生まれる。なぜ、そんな男が私を貶める必要があるのだろう。私はただ、王太子の婚約者としての責務を果たそうと努力してきただけ。思い当たる限り、政争に深く関わった覚えはない。けれど、“名門の娘”として私が持つ存在感そのものが、彼らにとって邪魔だったのかもしれない。
過ぎ去った舞踏会の夜に、レオンハルトが私を突き放した光景が鮮明によみがえる。怒りと哀しみ、そして今も拭えない絶望。しかし、兄は言った。「リシャールの狙いは公爵家の排除と、王太子の掌握」だと。それが事実なら、私に罪を着せるのは手段に過ぎず、彼らはさらに深いところで王太子を利用しようとしているのではないだろうか。
「……殿下が、危ない目に遭うかもしれない」
思わずこぼれた独り言に、胸がきゅっと締めつけられる。あれほど私の気持ちを踏みにじり、私を信じなかった王太子――正直なところ、恨みが消えたわけではない。あの人の顔を思い出すたび、怒りと憎しみの混ざった感情がこみ上げてきて、「復讐してやりたい」という衝動さえ湧く。
でも、いざ「復讐」を思い描くと、胸が苦しくなるのはなぜだろう。殿下を打ちのめしてやりたいという気持ちと、昔のように笑い合った日々を捨てきれない自分が、同時に存在している。
「今の私は、どっちを望んでいるの……」
口に出すだけで、涙がにじむ。もしすべてに決着をつけるなら、殿下を陥れることだってできるかもしれない。兄やマリエの力を借りて、この国の権力闘争に加わり、私を追い詰めた相手を逆に追い詰める――そんな想像すら、頭をよぎることがある。あの日、心をズタズタにされた私が、その復讐のために生きるのは自然なのかもしれない。
けれど、まだ心の底で別の声がする。子どもの頃、殿下と語り合った“王国の未来”のこと。戦のない平和な国を作りたいと笑った彼の瞳は、嘘偽りなく輝いていた。当時の私も、それを支えたいと思っていたのだ。数えきれないほどの努力をして、礼儀や政治を学び、少しでも殿下の力になりたかった――その思いが、私の全てだったはず。
「もう、そんな理想は消えてしまったはずなのに。殿下が私を裏切った以上、忘れてしまえばいいのに……」
まるで、二つの相反する感情に引き裂かれそうになる。憎むべき相手なのか、かつての夢を共にした友なのか。自分がどこに立っているのか、わからなくなりそうだ。
そんな時、そっとドアがノックされる音がした。弱々しい声で「どうぞ」と答えると、兄エドガーが入ってくる。彼の顔つきはいつもより険しいが、何かを決意したような鋭さがある。
「ルシア、具合はどうだ?」
「……相変わらず。でも、兄様の足を引っ張るわけにはいかないわ。ありがとう」
言葉を交わすうち、自然と兄は私のそばに腰を下ろした。エドガーは複雑な表情をしながら、少し声のトーンを落として言う。
「お前に伝えておかなければならないことがある。まだ決定的な証拠はないが、リシャールという男が、どうやら今回の婚約破棄の裏で糸を引いているらしい。あのセシリアという令嬢も、脅されて動いている可能性が高い」
「……やっぱり、そうなのね」
私が確認するように呟くと、兄はうなずく。マリエからも似た話を聞いていたが、兄もそこにたどり着いたということは、かなりの確度で事実なのだろう。もう私だけの妄想ではない。あの人は本当に私を陥れ、殿下を支配しようとしている……。
「あなたは、どうしたい? このまま黙って彼の思い通りにされるなんて、悔しすぎる」
「……わからない。正直、殿下にも裏切られたし、私の家も落ち目になって……どうにかやり返してやりたいって思ってしまう」
エドガーは黙って私の言葉を聞く。怒りと憎しみの入り混じった声だったけれど、彼は否定も肯定もせず、ただ慎重に耳を傾けてくれる。兄がいてくれてよかったと、改めて思う。
「ルシア、お前の気持ちはわかる。俺だって、あの王太子が憎くて仕方ない時がある。だけど、本当にそれだけでいいのか? お前がずっと追いかけてきた夢は……王太子と共に、この国を守ることじゃなかったのか?」
「でも、その王太子は私を信じてくれなかった……私が頑張ってきた意味なんて、もう……」
涙がこぼれそうになるのを堪えきれず、私は顔を背ける。兄はそっと手を伸ばして私の肩に触れ、切ないほど優しい声で続けた。
「お前が長年培ったものを、こんな形で失わせるのはあまりにももったいない。リシャールの思惑に踊らされるままになるのか? あるいは、お前が真実を明らかにして、殿下を含めてこの国を守り抜くのか、どちらかを選ぶのはお前だ」
「……殿下を含めて、守り抜く……」
自分の中に、その言葉が深く刺さる。憎しみの裏で、私はまだ殿下の身を案じていることを否定できない。もし、リシャールがさらに危険なことを企んでいるなら、放っておけば殿下は大きな混乱に巻き込まれるかもしれない。私がその陰謀を暴けば、もしかしたら、殿下を救うことができるかもしれないのだ。
「ルシア様……お茶を持ってまいりました」
ひそやかなノックのあと、マリエが姿を見せる。彼女は私たちの会話に耳をそばだてることなく、いつも通り優しい眼差しを注いでいる。
何気ない仕草でカップを差し出しながら、マリエは微笑みを浮かべた。
「どうやら少し、前を向く準備ができたようですね。先ほどお部屋の外でお話を聞いていたわけではありませんが……ルシア様のお顔が、先日よりずいぶん力強くなった気がいたします」
「……そんなに変わったように見えるのかしら」
思わず問い返す。マリエは穏やかにうなずき、微笑を湛えたまま私の瞳を見つめる。
「ええ、あなた様の中で、新たな決意が芽生えたのでしょう。どんな道を選んでも、あなたはもう、単なる被害者として泣いてばかりの女性ではいられないようにお見受けします」
その言葉に、胸がざわつく。確かに、昔のような無邪気さはないし、裏切られた痛みは今も残っている。けれど、兄の言葉を借りれば、私は“この国を守りたい”という気持ちを完全には捨てていないのだろう。子どもの頃に語り合った夢が、まだ小さく光を放っている。それを自覚した途端、心がぎゅっと痛むと同時に、どこか熱いものが込み上げてくる。
「……私、決めた。復讐するんじゃない。リシャールが企んでいることを暴いて、殿下が本当に守りたかったものを支えるために、自分のできることをやる……」
自分で言いながら、不思議と涙は出なかった。むしろ、身体の奥に力がみなぎるような感覚がある。憎しみに染まるのは簡単だけれど、それでは私が今まで築いてきた誇りも、夢も、全部失ってしまう。
それでも殿下が私を軽んじた事実は消えない。正直、許すつもりもない。でも、国を悪意に支配されるのはもっと嫌だ。私が復讐に費やす時間を、国を守るための行動に回すほうが、よほど有意義だと思ったのだ。
「もし、殿下や周りが間違っていたとしても、私は正しい道を選びたいの。復讐に走るのではなく、真実を掴んで、この国を……みんなを……守り抜きたい。そうすることでしか、私は私を取り戻せないと思う」
口を結んで静かに言い放つと、兄は驚いたように私を見つめ、やがて微笑んだ。私を深く傷つけた王太子を守るという選択肢には、兄も複雑な思いがあるだろう。だが、その覚悟を否定せずに受け止めてくれる姿が、何よりの救いだった。
「お前らしいな、ルシア。怒りや哀しみを抱えたまま、それでも人を守る道を選ぶんだな」
「……私が自分を憎みたくないから、そうするだけ。殿下を全部許すわけじゃないわ。でも、あの人が昔語った国の未来が、ただの嘘だったとは思いたくないの」
そう言い切った瞬間、心の奥にあった闇が少しだけ晴れた気がする。復讐という名の闇に沈めば、一時的に気分は晴れるかもしれない。でも、それは私がずっと目指してきたものとは相容れない。どうせなら、最後まで私の理想を捨てずに戦いたい――今はそう強く思えるのだ。
「これからリシャールのことをもっと探ろうと思う。殿下をかすめ取ろうとしているのが、どれほど危険な行為か、思い知らせてやらないと」
言葉には自然と力がこもる。多少の危険は承知の上だ。それでも行動しなければ、永遠に私が取り戻したいものは戻ってこない。
「マリエ、兄様、私に力を貸して。もし私が道を踏み外しそうになったら、止めてくれる?」
お願いするように視線を向けると、マリエは微笑み、エドガーは静かに頷く。
「あなた様がどの道を選んでも、私たちは支え続けます。歩むのはルシア様ご自身ですが、あなたを一人にはしません」
「俺も、ずっとお前の味方だ。危険を恐れるより、今は行動するしかない。国全体が、このままではリシャールの掌で踊ることになる」
そうして、私の中にぽっかりと空いていた穴に、一滴ずつ光が注ぎ込まれるような感覚が広がる。憎しみだけに身を委ねない道を選んだからといって、痛みが消えるわけではない。でも、前に進むための足掛かりを見つけたのは確かだ。
私はそっとベッドから立ち上がり、散乱した手紙や小物を一つずつ拾い上げる。あの庭で殿下と語り合った思い出――今はまだ痛々しいほど苦しくても、私にはやはりそれを踏みにじりたくない理由がある。私自身がこれまで必死に守ってきた大事な夢を否定したくないから。
「復讐じゃなくて、真実を。殿下を、国を、そして私自身を救うために……戦う」
その言葉が、どこか遠い日の自分を呼び戻してくれるようだった。幼い頃に抱いた純粋な理想。王国の未来を一緒に築こうと誓ったあの人との約束。裏切られたとしても、私は私のまま生きていきたい。
屋敷の外を見つめると、朝の光が少しずつ強まり始めている。長い闇夜に閉ざされていた私の部屋にも、今日の光はしっかり届き始めた。どんな苦難が待ち受けようとも、もう決して逃げ出さないと誓う。
それが、私に残された意地であり、戦う覚悟。たとえ王太子が過ちを犯しても、私がその過ちを利用して彼を貶めることはしない。もし王国を陰から壊そうとする勢力がいるなら、私は最後まで足掻いてやる。
復讐か、許しか――そんな単純な選択肢ではなく、もっと大きな“守るべきもの”があることに気づいたから。今はただ、この両手にあるわずかな希望を信じて、行動していくしかないのだ。
そう胸に刻み、私は一筋の涙を拭う。そして、マリエと兄に向かって小さく微笑んだ。どんなに苦しくとも、心を折らずに立ち上がる。かつて誓った夢を、今こそ“私自身の手”で守り抜くために――。