第12話 闇の策謀
リシャールは、夜の王宮を静かに歩いていた。厚い石造りの壁や柱が月の光を受け、薄青い陰影を落としている。忙しない昼間とは打って変わって、人影もまばらなこの時間こそが、彼にとって最も落ち着いて思索に耽ることのできるひとときだった。
すれ違う衛兵が彼に敬礼をする。王太子の側近として高位の立場にあるリシャールは、無言でそれを受け流しながら、足を止めることなく奥へ進む。目指す先は、王宮の隅にある一室――表向きは記録の保管庫とされているが、その実、権力の暗部を示す書類や報告書が集められる特別な場所だった。
「誰がいつ、どう動いているか。それを見極めるのも、王を支える者の務めだ」
小さく呟いて部屋に入ると、石の床には小さな机が置かれ、文書が積まれている。リシャールは慣れた手つきで蝋燭に火を灯し、その明かりを頼りに数枚の記録を確認し始めた。そこには公爵家に関する情報――特に、ルシアが王太子との婚約を解消されて以降の動向が克明に記されている。
彼女の兄エドガーが密かに動いていることは、すでにこちらも掴んでいた。あれほどの頭脳と行動力を持つ男を放っておけば、いつか自分の計略の糸を見抜かれるかもしれない。だが、今のところはその程度で済んでいるようだ。確信を得られるような証拠を一切彼に渡さないよう、リシャールは周到な手を回していたのだ。
「エドガーがなかなか手強いのは承知している。でも、まだ決め手を掴めずに焦っているようだな。実に好都合だ」
口元にわずかな笑みを浮かべながら、リシャールは書類を机に戻す。いつもなら隙なく彼を補佐する部下の姿があるが、今夜は彼一人。こんな“内心”をさらけ出す場所には、あえて誰も近づけなかった。
――そもそも、なぜ名門家であるルシアの家を排除しようとしたのか。リシャールには、確固たる目的があった。王家と結びつくような強力な貴族家が増えるほど、王太子が強大な後ろ盾を得て自立してしまう。彼にとって、王太子があまりにも安定した地盤を築いてしまうのは好ましくなかった。
それは決して、王太子の存在そのものを憎んでいるわけではない。リシャールなりに、「王国を守るため」という歪んだ正義感があった。かつて内乱に近い形で王家が揺らいだ記憶が彼にはあり、強大な貴族が王に取り入るたび、国の足元がぐらつくのを見てきたのだ。
「権力を一つに集中させてはならない。貴族と王族が互いに牽制しあい、絶妙なバランスを保つことで、この国は生き延びてきた。それを脅かすような芽は、早めに摘んでおくべき……」
ルシアが公爵家とともに王太子に嫁げば、王家と名門家の結びつきはより盤石なものとなる。さらに、ルシア個人の能力や人気を考えれば、王太子が強い支えを得るのは間違いないだろう。それはリシャールの思う“国の在り方”には不都合だった。彼は、王太子がまだ政治力を持ちきれず、自分の助言が不可欠な状態であってほしい。だからこそ、婚約破棄を仕掛け、公爵家を弱体化させる必要があったのだ。
「お前の罪は、存在しない。だからこそ捏造する価値がある」
そんな自嘲混じりの言葉を、リシャールは一度だけ誰もいない部屋の壁に向けて放った。彼自身、あの令嬢が重大な悪事を働いたなどと、本気で信じてはいない。むしろ、最初から“でっち上げ”の証拠や噂を用意し、それをレオンハルトの周囲に流布させただけだ。しかし、王太子や貴族たちはそれに容易く踊らされた。初めから人々の不安を煽り、セシリアという“被害者”を据えることで話を自然に仕立てあげたのだ。
セシリアには、立場の弱さをうまく突きつけた。彼女が怯えれば怯えるほど、周囲は「確かに彼女は何か被害に遭ったのだろう」と思い込む。レオンハルトが見せた少しの優しさを、さらに大袈裟にかき立てるような演出をすれば、王太子の守護欲をくすぐるのは造作もなかった。セシリア自身も嘘をついている自覚があるだろうが、そこを巧みに誘導すれば、彼女は流されるまま協力者になる。
「人というものは、簡単に思い込みに駆られる。僕が意図的に書状を捏造し、噂を流せば、それだけでルシアが裏で何かしていると信じこんでしまう。レオンハルト殿下も、あっという間にその罠にはまった」
それでいて、リシャールには“国のため”という理屈がある。もし王太子があまりにも盤石な権力を得れば、次代の王位をめぐって血生臭い争いが繰り返されるかもしれない。リシャールは、それを“自分が防ぐ”のだと思い込んでいる。彼が望むのは、王太子が強大な後ろ盾を得ず、ある意味で不安定なまま自分の助力を必要とする体制。それこそが、国を混乱に陥れず、うまくコントロールする秘訣だと信じている。
「もちろん、こんなやり方が歓迎されないのはわかっている。だが、それでも、この国は間違いなく安定する。それに、まだ殿下は何もできないからこそ利用価値があるのだ」
王太子としての自尊心が高いレオンハルトは、リシャールを疑うことなく「有能な補佐役」として頼りにしている。実際、リシャールは数々の政務を的確に処理し、周囲の評判も高い。彼が歪んだ独善的な考えを抱いているなど、外から見れば想像しにくいだろう。
一方で、公爵家は絶大な影響力を持ち続けてきたが、婚約破棄を機に急速に地位を揺るがされている。ルシア自身も引きこもり、ろくに抵抗できない状況だ。これこそ、リシャールが狙っていた“名門の無力化”であり、“王太子の周囲から有能なパートナーを排除する”計画の成功の一端でもある。
「セシリアは、今後どうするか。あの娘は私の操り人形として残しておいても構わないかもしれない。殿下が彼女に肩入れする以上、利用価値はあるし、時が来たら捨て駒にしてもいい」
机の上に広げられた文書には、セシリアの生活費や護衛手配など、王太子から援助が回されている記録がある。もちろん、それもリシャールの手配が背景にあるのだ。セシリアは怯えながらも、抜け出せない沼にはまった状態で、都合の良い情報源になっている。彼女を“新たな許嫁”として仕立て上げるのも悪くはないが、現時点ではルシアのような名門の後ろ盾がないため、それほど大きな権力を得るとは考えにくい。リシャールにとっては、必要に応じて使い捨てできる存在に過ぎなかった。
そして、部屋の奥にしまわれた古い巻物を引き出し、リシャールはそれを淡々と開く。そこには、王家の継承歴と、かつて起こった内乱の記録が書かれている。王位継承争いの最中、家臣や貴族の裏切り、さらには暗殺までが行われた悲劇が克明に記されていた。
「最悪の場合、こうなることだってある。もし殿下が制御不能に陥り、国を危機に陥れるならば……」
ここでリシャールは淡々とした視線を巻物から外し、どこか遠くを見るように目を細める。彼の脳裏には、いざというときの最終手段が浮かんでいた。王太子があまりにも独断専行し、国政を混乱させるようなことがあれば、その重責を即座に外し、場合によっては“消し去る”ことさえ考えているのだ。
それを「暗殺」と呼んでいいのか、あるいは“正当な粛清”と捉えるか――リシャールにとって、それは大きな問題ではない。彼は自分を「この国を救うための影の功労者」であると信じている。必要とあれば、血を流すこともやむを得ないと確信しているのだ。
「王太子が自らの力を過信し、強力な味方を得てしまう前に手を打つ……それが僕の役目。必要とあれば、どんな手段を使ってでも、国の混乱を防ぐ」
その瞳には奇妙な熱が宿っている。冷徹な計算と、歪んだ愛国心が入り混じった、複雑な輝きだ。公爵家の名誉やルシアの心情など、彼にとっては些細な犠牲でしかない。むしろ「上手く利用すれば」国全体を救えるのだと信じているからこそ、情け容赦ない手を打ち続けられる。
部屋から出る前に、リシャールは再び巻物を丁寧に仕舞い込んだ。すべてを闇に葬り去るように鍵をかけると、満足げに微笑む。
「まずは、王太子が自立しきれない状態を維持すること。名門公爵家の失墜も順調だ。……後は、エドガーがどこまで騒ぐかだが、その時も然るべき対応を取ればいい」
そう心中でつぶやきつつ、彼は蝋燭の灯を吹き消す。闇に沈んだ部屋を後にしながら、リシャールの足取りは軽かった。彼は王太子の身の回りで起こるすべてを把握しようとし、その結果次第では、さらに危険な計画を実行に移す覚悟を秘めている。
ルシアへの偽りの罪、セシリアの悲嘆を利用した思惑。そして、最終的に王太子の進退までも左右しかねない凶行――一切の綻びを見せず、彼は暗い策謀を巡らせている。それが「王国を守るため」という大義名分のもとに行われると信じているのが、リシャールの何よりの厄介さだった。
闇の回廊を抜けた先にあるのは、静まり返った王宮の庭。夜のしじまに満ちる冷気をものともせず、リシャールはまるで勝利を確信したかのように微笑んだ。もはや名門公爵家も王太子も、彼の手のひらの上で転がされている。彼に歯向かおうとする者は、さらに深い闇へと誘われるだろう――その事実を、まだ誰も知らないまま、静かな夜は更けていく。