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第11話 交錯する想い

 公爵家の屋敷の門が静かに開き、一台の馬車が奥へと進んでいく。その車体には王家を示す紋章が小さく刻まれ、護衛と思しき騎士が数名付き従っていた。まだ午前の光が優しく射す時刻とはいえ、門番たちの表情はどこか緊張に満ちている。かつて華やかだった公爵家は今、王太子との婚約解消以来、重々しい空気が漂う場所となっていたからだ。


 馬車を降りたレオンハルトは、息をつく間もなく迎えの侍女に案内される。普段なら主が玄関で出迎えるような格式があってもおかしくないが、今はそんな慣例に従う余裕など公爵家にはなかった。

 屋敷の中は薄暗く感じられる。絨毯が敷き詰められた広い廊下を渡りながら、レオンハルトは無言のまま歩を進める。内心では胸がざわついていた。どの顔を見ても、まるで歓迎などしていないことが見て取れる。それも当然だろう――彼自身が、ここの令嬢・ルシアとの婚約を一方的に破棄したのだから。


(本当に、今ここに来ていいのだろうか)


 そうした迷いが脳裏を掠めるたび、レオンハルトは目を伏せながら唇を引き結ぶ。彼が今日ここを訪れたのは、ルシアとのことをどうにか整理しようと思ったから。確かな確証もないまま、王宮の側近たちの勧めで“婚約解消”に踏み切ってしまったことへの後味の悪さが、ずっと離れないのだ。もっと言葉を交わしたい、もう一度直接会って――それがレオンハルトの胸にわずかに灯った願いだった。


 古い木製の扉が開かれ、侍女が「こちらです」と小声で告げる。扉の向こうは応接室と呼ばれる場所だが、以前のように来客をもてなす明るい雰囲気はない。ひんやりとした空気の中、ルシアが窓辺に背を向けたまま佇んでいた。

 レオンハルトが足を踏み入れた瞬間、ルシアは振り返らない。侍女が小さく一礼をして下がると、部屋には二人だけが残された。窓越しの光で薄く縁取られる彼女の姿を見て、レオンハルトは思わず息を飲む。久々に見るルシアは驚くほどやつれており、肩先に漂う雰囲気からは、生気が失われているのが痛いほど伝わる。


(こんなにも変わってしまったのか……いや、当然か)


「……久しぶりだな、ルシア」

 そう声をかけてみるが、ルシアは微動だにしない。まるで、ここにいることを無視しているようだ。

 レオンハルトは胸を刺す痛みに耐えながら、一歩、また一歩と近づく。以前なら、彼女はどんなに怒っていても視線を合わせることは避けなかった。しかし今、頑なに顔を向けないその背中からは、はっきりと拒絶の意思が感じられる。


「用件は何ですか。王太子殿下が、わざわざこんな屋敷まで足を運ぶなんて」

 低く、冷やかな声。いつもなら彼女の声には少し張りがあり、それが誇り高い令嬢の雰囲気を醸していた。だが今は、その張りが失われ、沈んだ響きだけが残っている。レオンハルトはその変化がやるせなく、ますます気後れしてしまう。


「……君に、話がしたくて」

 そう言いながら、レオンハルトは心の中でどんな言葉をまず伝えるべきか迷う。謝罪だろうか、それとも釈明か――しかし自尊心と、王太子としての立場を意識する余り、言葉がまとまらない。

 しばしの沈黙を経て、ルシアがゆっくりと振り返る。彼女の瞳は疲弊と怒りが入り混じっていて、かつての優雅さを思うと胸が痛むほど。それでも、そこにはまだ消えきらない強い意志の光が宿っていた。


「……話って何ですか。私がどんなに無実を訴えても、殿下は聞く耳を持たなかったのでしょう? 今さら何をおっしゃりたいのか、わかりません」

「それは……」

 一息に責め立てられ、レオンハルトは言葉を詰まらせる。真実を知りたい、あるいは一度話を整理したい――そんな生ぬるい思いで来た自分が甘かったのかもしれない。ルシアの怒りと悲しみは、一朝一夕で収まるはずもないのだ。


「殿下が私を捨てたのに、お気の毒な被害者を守るためだったのでしょう? それで、私が悪者だと。私が裏で卑劣なことをした、そう信じて疑わないのですよね」

 ルシアの声には、僅かに嘲るような調子が混じる。もともと彼女は誇り高く、王太子との結びつきを何より重んじてきた。その結びつきを引き裂かれた恨みは、深く彼女の心を蝕んでいる。

 レオンハルトは目を伏せる。「本当は、あのときだって迷っていた」と言いたくても、妙なプライドが邪魔して言えない。ただ、「あれは……俺だって、苦渋の決断で」と声を震わせるのが精一杯だった。


「苦渋の決断……? 私には単に、殿下が周りに流されて私を切り捨てただけにしか思えません。そうではない、とは言えますか?」

「それは――」

 決定的な反論を言葉にできない。レオンハルトは唇を噛んだ。王太子として権力闘争に無関心ではいられず、周りの声に押されるまま婚約破棄に踏み切った面があるのは否定できない。リシャールが提示してきた“証拠”や、セシリアが涙ながらに訴えた話に負けたのだ。

 それを正直に打ち明ければ、ルシアはどう思うだろうか。彼の弱さを見て、さらに侮蔑するのではないか。それとも、傷ついて絶望してしまうのか。そう考えると、言いよどんでしまう。


「殿下は、私を一度でも信じようとしてくださったのですか。あの場で私が必死に訴えた言葉を、一度でも丁寧に聞こうとはしてくれましたか」

「……聞ける状況じゃなかった。それに、証拠もあったんだ。君が裏で何をしていたか……」

「それが捏造だという可能性は、殿下の中には少しもなかったのですね」

 ルシアの言葉は鋭く、乾いた棘のようにレオンハルトを突き刺す。仮にも幼い頃からの仲だったのに、一方的に裏切ってしまった。いざ対面してみれば、自分の非情さを思い知らされるだけで、かえって反論すらできなくなる。

 それでも王太子としての矜持がある以上、レオンハルトは完全に頭を下げることができなかった。心のどこかで、「自分だって被害者だ」「国を守るために必要な決断だった」と言い訳したい感情があるのだ。


「……実際、セシリアはおびえていた。君のせいだと……彼女が言った。僕は守らなくちゃいけない立場なんだ。だから……」

「だから、私を捨てたのですね。まるで何かの駒のように」

 ルシアはレオンハルトを睨みつける。悲しみと怒りがない交ぜになった目には、未だ残る愛情さえも微かに灯っているように見える。完全に憎むことはできない――それが彼女の苦しみを際立たせている。

 その沈黙が次なる言葉を阻みそうになった瞬間、ドアが勢いよく開き、エドガーが部屋へ飛び込んできた。


「殿下、勝手にうちの妹の部屋に押し入って、何をしておられる!」

 目に怒りを宿し、エドガーは真っ直ぐにレオンハルトを指差す。すでに事情を聞いた侍女が彼に知らせたのだろう。屋敷に王太子が来ているとはいえ、エドガーにすれば許せない不法侵入同然に映る。

 レオンハルトは、その剣幕にたじろぎそうになりながらも背筋を伸ばす。王太子として、こちらも譲れない一線があるのだ。


「……そちらこそ、もう少し落ち着いてはどうだ。俺はあくまでも彼女と話がしたくて……」

「話だと? どの口が言う。妹をあれだけ追い詰めておいて、今さら何を聞こうと言うのですか!」

 エドガーの声は激昂しているが、その根底には妹を思うあまりの痛みがある。ルシアが王太子に会っても心がさらに乱されるだけだという予感から、少しでも早く追い返そうとしているのだ。

 その迫力に押されてか、レオンハルトも苦い顔で視線を逸らす。


「ここは俺が統べる王国だ。誰の家であろうと、訪れることに問題はない。まして公爵家は、かつて俺の婚約者を輩出した由緒ある家だろう?」

「……何を勝手なことを。妹を陥れたのはそちらではないか。さんざん好き勝手言って、挙げ句の果てに捨てておいて、どの面下げてここに来られる」

「俺は決して好き勝手などしていない!」

 レオンハルトが声を荒らげた瞬間、ルシアは苦しそうに俯いた。二人の怒号が部屋に満ちるのは耐えがたく、彼女の細い肩がわずかに震える。

 それに気づいたエドガーは、さらに怒りをあらわにする。妹がそんな状態であるにもかかわらず、王太子が傲慢に振る舞うのが許せないのだ。


「殿下、もうお引き取りください。あなたがどれほどの権力を持とうと、ルシアを傷つける権利などないはずです」

「……俺は、傷つけるつもりなど……」

「結果的に傷つけたのではないですか。いや、結果的などという甘い言葉では済まない。あなたが一方的にルシアを悪者に仕立て、それによって家も彼女の心も破壊された。今、何を言い繕おうと、ルシアの痛みは消えない」

 エドガーの口調は静かながら、滲む憤怒は明確だ。レオンハルトは返す言葉もなく、ただその視線を受け止める。理不尽な立場に追い詰められた妹を守る兄の姿を見て、レオンハルトは一瞬だけ申し訳なさそうな表情を浮かべた。しかし、すぐに固く拳を握り、王太子としての意地を取り戻す。


「ならば、なぜあのときルシアは自分の無実を証明できなかった? 誤解だというなら、そう言葉にするだけでなく、はっきりと証拠を示してくれれば、俺だって……」

「証拠? あなたが周りの捏造だと疑うことすらしないで、いったいどんな証拠なら耳を傾けてくださったのです? すべてを最初から否定する気だったのでしょう」

 レオンハルトは言い返そうとするが、のどが詰まって声が出ない。確かに、あの舞踏会の控え室で、ルシアが必死に訴えていた時、自分はほとんど聞く余裕を持たなかった。疑念を抱えるよりも、周囲の言葉を信じてしまったのだ。

 それが事実だということは、否定のしようがない。


「……二人とも、やめて……もう、そんなふうに私を巡って争わないで」

 ルシアが絞り出すような声で呟く。その目は乾いているが、そこに宿る悲痛は尋常ではない。エドガーもレオンハルトも、かけ合う言葉を失い、部屋に重苦しい沈黙が降りてくる。

 ルシアは深く息をついてから、レオンハルトに静かに向き直った。彼女の視線には恨みだけでなく、かすかな未練や戸惑いが入り混じっているのが見て取れる。


「殿下。……今回のことは、私にとって一生忘れられない屈辱です。ですが、あなたを憎み切れない自分が、本当はもっと辛い。どうしてこんなふうになってしまったのか、まだ心が受け止められません」

「ルシア……」

「どうか、出て行ってください。これ以上、私の前に現れないで。そうしないと、私の気持ちが壊れてしまう。……私は、あなたのことをまだ……」

 言葉の最後は声にならない。ルシアは顔を背け、ぎゅっと唇を噛む。レオンハルトはその仕草に何とも言えない苦しみを覚え、伸ばしかけた手を途中で止めた。

 エドガーは一歩前に出て、ルシアの背を支えるようにする。そしてレオンハルトをきっと睨みつけた。


「殿下、ルシアがそう言うのだから、もう帰っていただけますね」

「……わかった」

 レオンハルトは小さく肩を震わせて、結局何も言い返せずに踵を返す。詰まった思いを抱えたまま、この部屋にいるのはあまりにも辛い。彼が退室の扉に手をかけた時、ルシアがかすかに口を開いたような気がしたが、声は聞こえなかった。

 こうして、二人の再会は最悪の形で終わりを迎える。レオンハルトは屋敷を出る道すがら、まるで胸に鋭い刃が突き刺さったような痛みを感じていた。ルシアもまた、兄に支えられながら震える手を押さえ、もう涙すら出ないほどの疲労に襲われている。


 互いにすれ違い、傷を深め合うしかできなかった再会。和解の糸口など見つかるはずもなく、むしろ両者の関係はより悪化してしまった。けれど、憎しみ切るにはあまりにも長い過去と想いがある。嫌いになりたいのに嫌いになれない、その苦悩がさらに彼らを追い詰めていた。

 こうして再び、ルシアの部屋には重い静寂が戻る。レオンハルトも公爵家をあとにし、護衛たちに囲まれながら馬車に揺られて帰路についた。しかし、どちらも心の奥底で、「これで本当によかったのか」と自問を続けることになる。激突した思いは、そのまま雪解けどころか、さらなる不和の種を宿して――まだ解かれない闇の中で揺れ続けていた。

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