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第10話 揺れる決意

 日の光が窓辺を照らす王太子の私室で、レオンハルトは机に肘をつき、深く思い悩んでいた。思考の渦は、このところずっと止まる気配がない。

 王太子としての日々は忙しく、何かと行事や執務が立て込んでいるのに、頭の片隅ではいつもルシアの名がよぎってしまう。先日の婚約破棄以来、彼女の姿を見ることもないが、その不在がかえって強烈に意識を呼び覚ますのだ。


(あれで本当によかったのだろうか……)


 そんな疑問がわずかに胸を掠めるたび、レオンハルトは顔を上げて周囲を見回す。近くに控えている従者や侍従たちは誰もが王太子を敬い、彼の判断を称賛している。

 ――よく決断されました。あの娘は危険でした。そう口を揃えて告げられると、確かに自分の決断が正しかったように思えてくる。だが、その一方で心の奥底に澱のようなものが沈んでいるのも否めない。


「殿下。今宵の夕餉ですが、枢機公やその他の貴顕が同席される予定でございます。例の一件につきましては、改めて殿下をお褒めになるとのことですが……」

「わかった。なるべく控えめに受け答えるつもりだ」


 従者とのやり取りを簡潔に終わらせた後、レオンハルトはひとり思い出を辿るように瞼を閉じた。

 なぜ自分は「ルシアが裏で良からぬことをしている」と信じてしまったのか――そもそもの始まりは、宮廷の側近たちや、特にリシャールという男の囁きだった。彼は王太子の政治顧問のような立場にあり、幼い頃から王宮に仕えているというが、比較的最近、レオンハルトの身近に取り入ってきたところがある。


 リシャールはある日、レオンハルトの前にそっと一枚の書面を差し出してきた。それは、どうやら公爵家内部の書状らしく、ルシアが“ある令嬢を陥れようとした計画”を示す内容だという。

 当初、レオンハルトはにわかには信じられなかった。幼い頃から知っているルシアは、そんな陰湿な手段を弄するような人間ではない。だが、リシャールは粘り強く「それでも証拠があるのです。殿下、あなたは王太子として疑わしき人物を見過ごしにはできないでしょう」と説得してきた。


「殿下、どうか冷静に。ルシア様は美しく有能な方かもしれませんが、その裏でとんでもない工作をしている可能性があるのです。殿下のお立場を想えば、ここは念のため調べを進めるべきかと」


 その時のリシャールの言葉は、思い返してみれば極端だったかもしれない。しかし、王太子として日々多くの案件を抱えるレオンハルトには、そこまで細かい不審点を洗い出す暇もなかった。リシャールの言う“偽りのない証拠”と、周囲の数名の取り巻きたちが揃って「公爵令嬢の裏の顔」を指摘する状況に、いつしか真実味を感じるようになってしまったのだ。

 さらに、そこへ“セシリアの涙”が重なった。彼女は怯えた様子で「ルシア様が私を脅してくる」と言い、具体的な話までは語ろうとしなかったが、いかにも苦しんでいるようだった。半信半疑で様子を見たレオンハルトは、血の気の薄い彼女の頬や潤んだ瞳にほだされてしまい、気づけば「大丈夫だ、僕が守る」と誓っていた。


(あれから、セシリアはずいぶん安定したようだけれど……本当はどうなんだ?)


 レオンハルトはまぶたを開き、机に置かれた書類に視線を落とす。そこには、セシリアに対する多少の支援金や護衛の配置など、王太子として手配した項目が並んでいた。彼女を“不当な扱いから守る”ための措置とはいえ、どこか心が晴れない。


(ルシアの顔を思い出すたび、どうしてこんなに胸が痛むのだろう。いや、僕は正しい決断をしたはずだ……。だって、あれだけの証拠があったのだから)


 心の内でそう自分に言い聞かせる。だが、一方で幼い頃の記憶が脳裏によみがえる。まだ小さかったレオンハルトが庭を走り回っていた頃、隣にいたのはいつもルシアだった。礼儀作法や貴族のしきたりに厳しく縛られていた彼女が、レオンハルトにだけは素直な笑顔を向けてくれた。深夜まで勉強を続けても投げ出さなかった彼女の頑張りを、レオンハルトは誇らしく感じていた時期さえある。


 それが今、どうしてこんな苦い決別になったのか。

 周囲は口を揃えて「公爵家の娘が裏切りを働いた」と言う。リシャールやその仲間も「ここで手を打つのが国のため」と諭す。彼らによれば、ルシアは王妃になるにふさわしくないどころか、王家に危害を加える可能性すらあるという。実際、あれほど完璧にふるまってきた彼女なら、裏で権力を掌握しようと目論んでいてもおかしくない――そう聞かされると、レオンハルトは自分の判断を誤っていないと思いたくなる。


(自分は間違っていない……あれほど多くの者が“ルシアは危険だ”と証言していたのだから。そもそも、ルシアは弁明する機会があったはずなのに、自分の潔白を証明する確かな手立てを出せなかった。それが彼女の限界なのだ)


 そんな理屈を頭に巡らせるたび、わずかな安堵が生まれる。しかし、それも一瞬で掻き消える。あの舞踏会の控え室で、ルシアが涙ながらに訴えた「何もしていません」「理由を教えてください」という言葉が、今でも耳から離れない。国の重責を担う王太子として、人目を気にしながらああいう場で毅然と切り捨てるしかなかったのだ……と、思い込もうとするほど、なぜか違和感が募っていく。


(彼女はそんなに卑劣なことができる人間か? 本当にそうなら、あの哀しげな表情は嘘だったのか?)


 答えが出せないまま、宮廷内ではレオンハルトを称える声が後を絶たない。「さすがは王太子殿下。あの家を見抜かれた」「あの娘は殿下の足を引っ張る存在だったのだ」――大人たちは口々におだててくる。レオンハルトは思わず笑みを浮かべて応じるが、その実、心は少しも満たされない。


 人前では「僕は国のために正しい決断を下した」と強がってみせるが、夜になると眠りが浅くなるほど後味の悪さを感じているのは事実だ。

 セシリアを守ろうとする気持ちは嘘ではない。彼女は弱々しく、世慣れない印象があるうえ、怯えた表情で助けを求めてきた。しかし、同時にレオンハルトは苦しい矛盾に苛まれている。どうして心の奥にルシアの笑顔が焼き付いて離れないのか。どうして、その笑顔を裏切りだと断じ切れないのか。


(自分は本当に正しいのか。それとも……)


 誰にも言えない疑念が、彼の胸中で渦巻いていた。見なければよかったと思うくらいの“証拠”が次々と差し出され、半ば強制的に「ルシアを排除するのが妥当」と思い込まされていくうちに、レオンハルトはどうしようもなく苦しんでいた。それでも、王太子としての自尊心が「ここで迷うのは弱さの証」とささやき、彼を立ち止まらせない。


 そんな葛藤を抱えたまま、レオンハルトは執務机を離れ、窓辺へと向かった。王宮の庭には陽光が降り注ぎ、数名の貴族が連れ立って散策を楽しんでいるのが見える。この光景を、かつてルシアと一緒に眺めた頃はもっと穏やかな気持ちでいられたはずなのに、今はどこか寒々しく感じられる。


「殿下、ご報告です」

 後ろから従者の声がした。聞けば、セシリアが今日の午前中に体調を崩し、部屋で休んでいるらしい。侍女の話では、やはり“あの日の心労”が尾を引いているようだという。

 レオンハルトはゆるやかに息を吐き、うなずく。それでもなお、どこかで「彼女を守るのが自分の役目だ」と言い聞かせることで、ルシアを断罪した自分の行動を正当化しようとしていた。セシリアが弱った姿を見るたび、レオンハルトは「自分は正しかった、彼女を救ってやらねば」という思いを再確認できるからだ。


(王太子として、弱き者を守るのは当然だ。あのままルシアを放置していれば、セシリアがさらに追い詰められていたかもしれない。僕は間違っていないはず……)


 それでも、深いところで針のような痛みが走る。かつて自分が最も信頼していた存在を切り捨てた。あの裏切るような行為の記憶は、決して消えてくれない。

 ごくまれに、レオンハルトは一瞬だけ「自分が間違っていたかもしれない」と頭をよぎらせることがある。だが、その度に現れるのがリシャールや周囲の側近たちの肯定の声だ。


「殿下はお優しすぎる。あの娘は殿下の温情を利用して、陰で何を企んでいたかわかりません。殿下こそ、正しくご決断をなさいました」

「セシリア様の悲痛なご様子を見れば、誰が被害者かわかるというものですよ。殿下が不当に疑うなどあり得ません」


 そうした言葉が耳に入るたび、レオンハルトは意識的に目を逸らす。結果として、みずからの判断を肯定せざるを得なくなってしまう。それが「王太子としての責任」だと、いつしか思い込むようになっていた。


「これでいい……僕は、間違っていない」


 呟いてみても、心の奥に刺さる棘は抜けきらない。ベッドサイドの引き出しには、幼い頃ルシアから送られた書簡の一部がまだ残っている。あの頃は、二人でまだ見ぬ王国の未来について語り合い、お互いが励まし合う関係だったと思い出すと、なぜこんなにも苦しくなるのか、理解ができない。


 正しさとは何なのか。自分は本当に、王太子として国を想う行動をとれているのか――そうした疑問を振り払うように、レオンハルトは窓を閉めた。夜になればまた席を設けられ、貴族たちから「殿下の英断」を称えられることだろう。

 そんな称賛を受けるたび、皮肉にも「自分はきっと正しい」と思い直す一方、心は深く冷え込んでいく。孤独の底に沈みかけても、けれど王太子という立場が弱音を許さない。


(もし、あのとき少しでもルシアの声をちゃんと聞いていたら、違う結末があったのか?)


 そんな思いが去来しても、今さらあの日には戻れない。彼女がどれほど苦しんでいようと、レオンハルトには声をかける手段がない。婚約は公式に破棄され、周囲もそれを当たり前の事実として受け入れている。今さら「やっぱり彼女は無実だった」などとは口が裂けても言えない。

 王太子として“間違った決断”など、してはいけない――その自尊心が、レオンハルトを真実から遠ざけているのかもしれないと、薄々感じながらも、そこに目を向けるだけの勇気が彼にはまだなかった。

 たとえ笑顔で称えられても、その裏にある疑念を拭いきれず、王太子としての責務を果たす日々が続く。いつか、この葛藤は決定的に彼の心を揺さぶることになるかもしれない。だが今のレオンハルトは、立場の重みに押されながら、違和感を抱えたまま「自分こそ正しい」と信じ込もうとするばかりだった。

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