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第1話 幼き日の記憶

 まだ季節の風が肌寒さを残していた頃、王都の北に広がる緑豊かな公爵領に、かすかな春の訪れが感じられるようになった。庭先の草花が一斉に芽吹き、空を見上げれば、透き通った青に薄雲がたなびいている。そこに住む少女、ルシアは少しはにかむように微笑みながら、母とともに馬車に乗り込んでいた。


「今日はどんな人に会えるのかしら……」

 母に聞こえないほどの声でそう呟くと、胸の奥に小さな鼓動が高まるのを感じる。父からは“王宮へ招かれている”とだけ伝えられ、詳しい話は何もされなかった。その理由を問おうとしても、「行けばわかる」と笑うばかり。幼いながらにルシアは不安と期待が入り交じった妙な緊張感を覚えていた。


 王宮に到着すると、驚くほど広大な中庭が視界に飛び込んでくる。白い石造りの回廊を縁取るように咲き誇る花々や、噴水から流れ落ちる水音が優雅に響く。ルシアは“私のいる公爵家の屋敷も十分に広い”と思っていたが、この王宮はまるで世界が違うようだった。母に手を引かれ、緊張を抑えながら廊下を進んでいく。


 ほどなくして案内されたのは、絹張りのソファが並ぶ広間だった。その部屋の奥で、背筋を伸ばした少年がひとり、使用人らしき男性と言葉を交わしている。絢爛たる装飾の衣服を身にまとい、まさに王族の威厳を体現するような雰囲気だ。ルシアはその少年に視線を向けながら、どうしてか胸がどきりと高鳴るのを抑えきれない。


「お待ちしていました。ルシア公爵令嬢、それから奥様」

 使用人がそう言って深々と頭を下げると、その少年――レオンハルトはルシアの方へゆっくりと歩み寄ってきた。年はルシアよりわずかに上か、同じくらいかもしれない。けれど少しきりりとした面差しは、幼いというよりも落ち着きすら感じさせる。


「はじめまして。私はレオンハルトと申します」

 まるで大人の礼儀をそのまま真似たかのような、少しぎこちない仕草で手を差し出す少年。ルシアは思わず目を見開きながら、その手に右手を添える。年相応の無邪気さと、王太子という立場からくる厳粛さ。その二つが入り混じった、不思議な空気が漂っていた。


 この瞬間、ルシアはぼんやりと――“自分はこれからこの人と深く関わっていくのだ”と思った。具体的にどのように、とはわからない。けれど、子どもながらに感じ取る何かがあったのだ。


 それから数日後、ルシアは再び王宮を訪れることになった。今度は父の付き添いで、正式に王家の者に面会するためだと聞かされる。公爵家の一人娘が王太子に拝謁する――それは珍しいことではないが、今回ばかりはやけに格式ばった空気があった。大人たちが妙にそわそわしているのが伝わる。


「ルシア、お前はまだ小さいが、こうした場面で失礼のないようにな」

 そう言って父は優しくも厳かな眼差しを向ける。ルシアは緊張で固まったように背筋を伸ばし、「はい」とだけ答える。自分の家は古くから名門と呼ばれ、国王からの信頼も厚いという話は小耳に挟んだことがある。しかし、だからこそ常に周囲からの目が厳しく、少しでも不都合があればすぐに噂が広がる世界なのだとも、母からは聞かされていた。


 広い謁見の間には、幾柱もの大理石の柱がそびえ立ち、壁を飾る美しいタペストリーや王家の紋章が目を引く。王と王妃、それに数名の高位貴族が居並ぶ中心にいたのは、先日出会ったあの少年――レオンハルト。彼がこちらを見つめると、一瞬ぱあっと明るい笑みを浮かべた。きっとまだ正式な場ではないから、感情を隠しきれなかったのだろう。けれど、その笑みの奥にはどこか幼いながらも重責を背負った影があるように感じられた。


「先日はありがとうございました」

 レオンハルトがそう言葉を発した瞬間、王や王妃、そして父の視線がルシアに集まる。緊張で声が震えそうになるのを堪え、「こちらこそ、お会いできて光栄です」と答えると、傍らで王妃が柔らかく微笑んだ。


「この子は王太子です。将来はこの国を背負って立つ大切な存在。公爵令嬢、あなたにもいずれ大きな役目を担ってもらうことになるでしょう」

 そう告げる王妃の言葉に、ルシアは何を意味しているのだろうかと戸惑いを覚えた。両親はどこか肯定的な眼差しでうなずいている。幼いルシアなりに感じたのは、“自分は将来、この人と婚約を結ぶらしい”という漠然とした確信だった。


 それから時間がしばらく経ち、王宮の一角で控えていたルシアとレオンハルト。周囲の貴族や侍女は二人を遠巻きに見守る形で、一定の距離を保っている。そんな中で、レオンハルトが少し照れたような表情で近づいてきた。


「もう少し、庭を散歩しようか」

 その言葉にルシアはうなずき、どこか安堵した気持ちになる。大人たちの堅苦しい応対から解放され、年相応の無邪気さで話せる時間はわずかだ。広い庭には、色とりどりの花が植えられ、手入れの行き届いた生垣が幾何学模様を描いている。先ほどまでの緊張が嘘のように、ルシアとレオンハルトは少し走り回って遊んだ。


「ここまで走っても、まだ庭の半分もいってないんじゃない?」

「お父様の敷地より何倍も広いわ」

 息を切らしながら笑い合う二人。それはごく普通の子どもらしい姿だったが、ふとレオンハルトが真顔になって立ち止まった。ルシアもそれに気づき、問いかける。


「どうしたの?」

「……いつか僕は、この広い宮殿も、この国もすべて背負うんだって。お母様と父上に言われた」

 どことなく寂しげな声色に、ルシアは戸惑いながらも言葉を探す。自分より少し年上で、どこか頼もしく見えたレオンハルトがこんなにも弱さを見せるなんて思わなかったのだ。


「それは……すごく大変そう。だけど、きっとあなたならできると思うわ」

 ルシアは素直な思いを伝えると、レオンハルトは少しだけ笑みを取り戻す。それでも完全には晴れやかな顔にならないまま、続ける。


「ルシアは、公爵家の娘なんだろ? すごいお家だって聞いたよ。僕より少しだけ自由があるのかもしれない。羨ましいよ」

「羨ましい、かな……。でも私、最近はお母様にお行儀を教わるばかりで。お父様からも“王族の方々に失礼のないように”と毎日のように言われるの。自由かどうか……わからない」

 そう打ち明けた瞬間、二人の間に微かな共感と親近感が生まれた。どちらも窮屈さや責任を感じながらも、それを言葉にする術は持たない子どもたち。立場は違えど、同じように周囲の期待としきたりに縛られているのだ。


「でもね、私……あなたが将来王様になるとしたら、そのときは私も何か役に立てるようになりたいの。父と母がそんなふうに言うのよ。“あなたはいつか、この国のためにも大切な人になるかもしれない”って」

「そっか……」

 レオンハルトはうつむきかけていた顔を上げ、ルシアの瞳を見据える。その瞳はまだ幼いながらも、すでに王太子としての意識を背負わされているようだ。やがて彼はふっと笑みを浮かべ、どこか決心したかのように言葉を紡ぐ。


「もし、僕が王様になったら……いや、なる時が来たら。そのときは、この国をもっと豊かにして、誰もが笑って暮らせるようにしたい。戦なんてなくして、みんなが幸せでいられる国に……。それが、僕の夢なんだ」

「わあ、すてきね。……私も、そのお手伝いができたらうれしい」

 それは幼い二人が思い描く、あまりにも純粋な理想。その夢はあたたかな春の日差しを受けて、庭の花が開くように心の中で膨らんだ。子どもらしく朗らかに語り合う彼らの姿は、この後に訪れる苦しみや悲劇など想像もしない無垢なものだった。


「王様になったら、城の外にも出て、いろんな人の話を聞くんだ。それで、みんなの困ってることを少しでもなくせればって……」

「私も、あなたがそうするなら、一緒にいろんな場所へ行ってみたい。そうして私が何かできるなら、手伝いたいわ」

「ありがとう、ルシア。もし本当にそうなったら……」

 レオンハルトはそこまで言って、急に照れて笑いをこぼす。ルシアもまた恥ずかしそうに視線をそらした。遠目に見ている大人たちは、二人の様子を微笑ましいものとして眺めていたが、その胸にある思惑は子どもたちには知る由もない。


 ――それから数日後、ルシアは父から改めて正式に伝えられた。“将来、あなたは王太子殿下と結婚をすることになるかもしれない”という言葉を聞いたとき、ルシアは驚きながらも自然に受け止められた。あの日、レオンハルトが語った夢を傍で支えたいと思った気持ちが確かにあったからだ。もっとも、婚約とはどういうものなのか、まだ具体的には理解していない。ただ、自分はいつの日か本当にあの庭での約束を果たすのだろうと、漠然と期待するだけだった。


 名門公爵家の後継として、ルシアは言葉遣いや礼儀作法だけでなく、政治的知識や外交の基本なども幼いうちから叩きこまれる。そして同時に、周囲の人間から「将来の王妃候補」として厳しい目が向けられることになる。子どものころはまだそれが実感として湧かず、ただ日々の課題をこなすのに精一杯。だが、それが普通だと疑わなかった。


「ルシア様、今日は馬術の練習がございます。忘れずにお着替えを」

 侍女が慌てて声をかければ、ルシアは小走りで衣装部屋に向かう。どんなに忙しくても、どんなに大変でも、心のどこかにはあの約束が輝いていた。レオンハルトの“誰もが笑って暮らせる国を作る”という無邪気な夢。その夢を支える自分でありたい……それが幼いルシアのささやかな誇りであり、喜びだった。


 そうして季節は巡り、ルシアが少し背が伸びた頃。彼女はしだいに、名門の娘としてのプライドと責任を自覚し始めるようになる。周りの人々が“レオンハルト様の婚約者になるお方”として特別視する一方で、期待も大きければ中傷や妬みも存在するのだと知るには、そう時間はかからなかった。しかし、それでもルシアは怯まなかった。なぜなら、その責任こそがレオンハルトを支えるために必要な力になると信じたからだ。


「王妃になって、あの方のそばに立って支えたい。それが私の道なのだわ」

 ルシアは一人きりの部屋で、そう口に出してみる。まだ幼さの残る顔立ちに、不思議ときりりとした決意の色が浮かんでいた。遠く王宮を見つめる瞳の奥には、あの日の庭で見た春の眩しさがまだ生きている。それはいつか来る未来を思うとき、何よりも心を躍らせてくれる温かな記憶だった。


 だが、その裏側で渦巻いていた王宮や貴族社会の複雑な思惑に、ルシアもレオンハルトも気づいてはいない。王位継承をめぐる密やかな対立、表向きは微笑みを浮かべながら裏で策を弄する者たちの存在。それらの影が、早くも子どもたちの運命に暗い影を落とし始めているなど、まだ誰も知ることはなかった。


 王都の空は青く澄んでいる。風は穏やかで、日差しも優しい。未来は希望に満ち、世界は広大に見えた。レオンハルトとルシアが語り合った幼い夢――大人たちの思惑とは別に、ひたすらに純粋なその想いが、二人のこれからを支える光になってくれると、誰もが願っていたのかもしれない。


 これが、ルシアとレオンハルトが最初に交わした“約束”の思い出。二人が手を取り合い、“いつかこの国をよくするため、一緒に歩んでいきたい”と無邪気に誓った美しい記憶。やがて時が経ち、どのような壁が立ちはだかろうとも、この記憶だけはきっと心の底で輝き続ける。そんな、あたたかくも儚い絆の始まりだった。

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