三百四十九話 あの稜線を越えて
思いのほか、馬泥棒は早く見つかった。
砦を超えて黄指部の集落を目指していた途中、松林の近くにある原っぱで言い争いをしている集団を見つけたのだ。
「やっと見つめたぞコノヤロウ! よくも俺たちの馬を!」
「この馬が誰のために用意されたお宝か、まさか知らねえとは言わせねえぞ」
口角泡を飛ばして、怒りに叫んでいるのはもちろん、黄指部の人たちで。
「いや、借りただけなんだ! この馬があんまりにも熱心に『もっと思う存分、青い野原を走り回りてえよお』って俺に囁くもんで! 可哀想になっちまってここまで連れて来ただけなんだって!」
訳の分からない弁解をしているのは、中背痩せマッチョの男性。
ボロ布を体に巻き付けたような服で身を纏い、すね当ての付いたストラップサンダルを履いていた。
黒髪に黒い瞳で、顔の彫りも浅い。
「馬の言葉がわかるワケねえだろ。おかしなこと言ってんなあの兄ちゃん。なあ?」
「メェ、メェ」
軽螢とヤギがなんか言ってるけれど、突っ込んだら負けなのでスルー。
十中八九、彼が在りし日にローマ全土を震撼させた、大叛逆者スパルタクス、なのだろう。
古代ローマの人と言うイメージはないけれど、ああ彼はトラキア出身でしたね。
歴史の話をすると、かの有名なアレクサンドロス大王がトラキアにあたる地域を征服する以前、そこはアケメネス朝ペルシャという国が支配していた。
だからトラキアにはペルシャ、今で言うイラン系の民族が多く混血したはずで、スパルタクスがそう言う出自でも不思議はない。
私たちがイメージする、金髪碧眼の白人らしい白人は少なかったのだろうな。
「ふざけたことぬかすんじゃねえ! 大人しくその馬を返すんだな!」
「素直に認めりゃあ、命までは取らねえでやらあ。多少の痛い目は覚悟してもらうがよ」
男たちに詰められて、馬を引きながら後ずさるスパルタクス、らしき人。
「そそそ、そう気色ばむなって。あんたらも馬の気持ちになってみろよ? まだまだこいつの青春は終わってないんだぜ? どんな偉い親分さんに貰われて行くのか知らねえが、ろくに走ることもなく屋敷で飼い殺しなんかにならねえのか?」
伝説を残した大暴れん坊らしからぬ柔弱さで、相手を説得しようと努力している。
「どうする? 面倒が起こる前に割って入るか?」
翔霏が私に、そう提案したとき。
別の一団が、馬のいななきとギャロップを伴って、草原に突入して来た。
「要らん心配だ。もううんざりだと根を上げるほどに、その馬には四方八方を駆けてもらうことになるだろうからな」
隊を指揮する男の、硬質で低い、良く通る馴染みの声が響いた。
「あら、斗羅畏さん、来ちゃったよ。相変わらず足取りが軽いことで」
「こっちの台詞だ。なぜお前らがここにいる……」
毎度見慣れたうんざりした顔で、斗羅畏さんは招かれざる私たちに溜息を返した。
馬泥棒スパルタクスと私たちを交互に見た彼の顔には「また面倒事が増えたのか」と言わんばかりの表情がハッキリと浮かんでいた。
「こ、こりゃあ斗羅畏どの。わざわざお出ましいただかなくても……」
「みっともねえところを見せちまい、申し訳ねえ。俺たちだけでカタをつけるべきなのに」
へこへこと恐縮する黄指部の面子に、斗羅畏さんは軽く首を振って答えた。
「飛び切りの名馬を譲っていただけるとの申し出だ。初めから挨拶に伺わせてもらうつもりだった。ここに行き当たったのは道中の偶然だ」
だから気を遣わなくていい、と顔に示して、斗羅畏さんは改めて問うた。
「で、どうのこうのとたわけた屁理屈を並べる貴様はなんだ? ただ馬が欲しいだけの乞食か?」
ぶしつけな質問を投げられたスパルタクス。
それでも気を害した素振りなく、はにかみながら自分の後ろ髪をいじりながら言った。
「いやまあ、こいつを無理に盗もうってんじゃねえんだ。ただちょっと、一緒に思い切り、なにも考えずに走り回りたくなっただけなんだよ。信じてくれ」
「フン。なら、そうだな……」
斗羅畏さんは草原の果て、低い丘に挟まれてる谷あいの地形を見つめ、提案した。
「あの丘まで、その馬で好きに駆けて見せろ。俺が追い付けなかったら、その馬は貴様にくれてやる。どこへなりとも勝手に行くがいい。俺が追い付いたら、馬も貴様も俺と一緒に来てもらう。黄指部の面々も、それで異論ないか?」
突然の申し出に、言われた彼らは少しの混乱を見せるも。
「と、斗羅畏どのがそれでいいなら、俺らは文句ねえがよ」
「ああ、元はあんたに渡すつもりの馬なんだ。そういうことなら、うちの頭領に申し訳も立つしな」
と、納得して経緯を見守る様子に入った。
斗羅畏さんは一度言い出したら聞かないし、変に口を出すとへそを曲げるタイプであることを、草原の民ならみんな知っているのである。
駆けっこの準備のため、革鎧を外す斗羅畏さん。
翔霏が彼に、当然の質問を放った。
「袋叩きにして、馬を取り返せばいいだけの話だろう。相手は一人だ」
「よそさまの領に来て、そんな恥さらしなマネはせん。それにお前ら、あいつの目を見なかったのか」
「目がどうかしたの?」
言われて私は、スパルタクスの顔をじっくり観察するけれど。
「なんだ? かわい子ちゃんがいるな。そんなに見つめないでくれよ。ただでさえ暑いのに、体の芯が火照っちまう」
詳しく見ても印象は変わらず、人種の特定がしにくい顔でへらへらと笑っている。
ちょっと嬉しいこと言われても、ドキっとなんてしてませんからね!?
私が平静を装うのに努力している横で、斗羅畏さんはぽつりと言った。
「親爺とそっくりな目をしている。なんらかの地獄を見た経験が、やつにもあるんだろう」
「ああー、そっか、阿突羅さんも……」
斗羅畏さんの祖父で養育者だった、先代の白髪部大統である阿突羅さん。
彼も子どものころに家族を殺され、人買いの間をたらい回された馬飼い奴隷の出身であると、前に聞かされたことがある。
そんな悲惨な生い立ちであるにもかかわらず、阿突羅さんは愛情深く子や孫たちに接し、仲間たちとまとめあげ、氏族と国を超えて誰からも尊敬される大親分になった。
斗羅畏さんはこの短い邂逅で、剣闘奴隷として望まぬ戦いに命を賭けたスパルタクスの瞳の中に、共通点を感じ取ったのだろう。
だからこそ、彼の人間としての「器」のようなものを推し量りたいと思い、唐突な勝負を持ちかけたんだな。
競争の準備が整ったらしいところで、軽螢が持ち前の気楽さでスパルタクスに話しかけていた。
「なあ兄ちゃん、なんでこんなとこまで来たンだよ。本当はもっと南の、山の向こうにいたはずだろ?」
「え、よく俺のこと知ってるな。どこかで会ったか?」
「ちょっとややこしい話なんだけど、兄ちゃんの知り合いを知ってる、って感じかナ」
裏麗央那が英霊たちを召喚したのは、ほぼ確実に昂国の中でのことだったはずだ。
そのときにスパルタクスだけ、集合に応じず単独行動をし始めて、なぜか国境を超えてまで戌族が暮らす北方平原に来てしまっている。
軽螢の質問に、スパルタクスはこう返した。
「誰かに呼ばれてここに来たのは、ハッキリわかってるんだけどよ。ふと遠くを見たら、さっき越えて来た山々が連なってるのが見えてなあ」
翼州と北方を分かつ、私たちも通って来た山地のことだ。
気持ち良さげに目を細めて南の峰を振り返り、スパルタクスは続けた。
「あの峰を越えたら、どんな景色が広がってるのか、ってな。気になっちまったかららにゃ、行かずにはいられねえと思ったんだ。こんな見事な馬にも会えたし、やっぱ来て良かったぜ。ここは風も美味いし最高だ。田舎を思い出すよ」
「ヒヒン」
馬の横腹を優しく撫でて語るスパルタクスの顔には、微塵の暴力性も見いだせなかった。
世界最強のローマを敵に回し、数万の暴徒を引き連れて叛乱を起こした人と同一人物だなんて、到底思えないくらいに。
「もういいなら始めるぞ。せいぜい気合を入れて逃げるがいい。できるならの話だが」
スパルタクスと馬首を並べ、声をかける斗羅畏さん。
「確かに、斗羅畏はしつこいからな。必死で走れよ」
「おう、俺の逃げっぷりをしっかり見ててくれよな、別嬪さん」
斗羅畏さんに嫌味を言いたいがためだけに、スパルタクスに肩入れして激励する翔霏。
まったく誰にとっても深刻さのかけらもない、夏の昼下がりの競馬。
「俺はあの変な兄ちゃんが勝つと思うな。だって馬が良いんだろ?」
「いやあ坊主、斗羅畏が負けるわきゃねえだろ」
「あいつの妙な自信みたいなのが気になるけどな」
軽螢と黄指部の男性は、地べたに座り込んでおやつを賭けはじめる始末。
私もお弁当を広げようかしら、なんて思っていたそのときに。
「行けッ!!」
「楽しもうぜ、相棒!!」
タイプの違う二人の男が、蒼天の下に馬で飛び出した。
「さすがに速いねー」
「相手も玄人のようだな」
あっと言う間に遠ざかる二人の背を見つめ、私と翔霏は素朴な感想を漏らす。
ハナ差もないくらいにぴったり並んで競って走る二頭の馬と、鞍上の好漢たち。
季節は夏、夏は昼、昼は快晴。
中天からは陽光が惜しみなく降り注ぎ、山鳥は優しい風を受け、空を翔け踊りながら思い思いに歌う。
これ以上に素晴らしい瞬間が、他にあるだろうかと思えるほど。
けれどその神聖ですらある尊い勝負に、水を差すお邪魔虫が一匹、闖入する。
「あー! ずるいぞとらいー! おれをのけものにして、あそんでるんだー!?」
とんでもない速度で脇から現れたのは、倭吽陀だった。
「なっ!?」
「うおっ、危ないながきんちょ!!」
二人の競争を邪魔するように斜行して前に出た倭吽陀。
巧みな操馬でしれっと先頭に躍り出て、陽気に叫ぶ。
「よーし、このはらっぱをいっしゅうな! まけたやつは、かおにらくがきだー!」
「おい、いきなり来て勝手なことを言うな!」
「はっはは、面白え! それで行こうか!」
倭吽陀を追う斗羅畏さんと、なぜか逃げずに並走するスパルタクス。
あっと言う間にレースのルールは変わり、三騎がターフを駆け巡る。
「あいつが倭吽陀、覇聖鳳の忘れ形見か……」
「ちんまいのに、いっぱしに乗るじゃねえか。良い武者になるぜありゃ」
勝負の行く末を眺めながら、ギャラリーも口々に感心の言を述べる。
私たちは前後の面倒事もすっかり忘れて、目の前のレースを堪能したのだった。
こんなことをしている場合じゃないと思うのだけれど。
不思議と、焦りも不安もなかった。




