三百四十八話 最後の男
翌朝。
「好きにしろって言ってくれたのはありがたいけど、それはそれでなにから手を付けようか悩むね」
旅支度をしながら、私はあれこれと考えをめぐらす。
邑のことも気になるし、他のことも気になるし、少しだけ参っている。
けれど私が弱音を吐いていると、周囲のみんなが不安がる。
表情だけでも、努めて平静を装わねば。
「メェェ~~ッ」
「こら、動くなよ」
軽螢はもっと早く起きていて、チリチリパーマになってしまったヤギの毛を刈っていた。
焦げ焦げアフロヤギが視界に入るたびに力が抜けていたので、トリミング処理してくれるのは助かる。
みんなより少し遅れて、寝坊助さんの翔霏が起き、私に訊いた。
「こいつに雷を落として焦がしたのは、痩せた老人だったな」
「うん、菅公さま。菅原道真って人だね。私の国で深く敬われてた学問の神さまで、同時に最も恐れられた雷の祟り神でもあるよ」
「ふん、神を以て神を殺すということか」
軽螢とお揃いの丸坊主になったヤギを見ながら、翔霏は言った。
裏麗央那が召喚した、この世界の秩序を破壊するための英霊たち。
どいつもこいつも、自らの到達した運命に文句のありそうな、クセつよさんたち勢ぞろいだ。
果たしてなにを仕掛けて来るものか、予想をするのは不可能に近い。
その中でもわずかに判明している少ない情報を手掛かりに、私たちも動かないといけないな。
と思っていたら、ヤギの処置が終わった軽螢が、額の汗を袖で拭いながら訊いてきた。
いつの間にか、夏も深まりつつあるので、今日も暑い。
「確かあいつらの中に、一人だけ間に合わなかったとかで来てなかったやついるよな?」
「そうだね。叛逆の剣闘奴隷、スパルタクスだけ不在だった」
古代ローマのダークヒーロー。
どんな顔をしているのか見られなかったのは、少し残念。
そのまま今回のカーニバルに参加せずに、スゥ……と人知れず消えてくれれば、面倒が減ってありがたいのだけれど。
軽螢は、実に彼らしい、そして私や翔霏には思い付きもしない、冴えたアイデアを口にした。
「そのスパなんとかさん、仲間にできねえんかな? もう一人の麗央那が呼んだってことは、こっちの本物麗央那とも仲良くやれるかもしれねえじゃんか。敵より先に俺たちが居場所を突き止めてサ」
「その発想はなかった」
私は純粋に驚いて称賛する。
裏麗央那が召喚した面白メンバーズは、もちろんこの私、表の麗央那から見ても「魅力的な悲劇のヒーロー」たちである。
絵本の中で、事典の中で、教科書の中で。
戦いの果てに敗れていった彼らの物語を、幼い頃から私は激しく感情移入しながら読んだものだ。
そういう連中を、敵は好んで集めたのだ。
翔霏は突飛なことを聞いて、呆れたように差し挟んだ。
「叛逆のなにがしがどこでなにをしているのか、情報が少なすぎる。今から探して相手を出し抜けるわけがないだろう」
「いや、そうとも限らないかも」
悲観的な翔霏の意見にブレーキをかけつつ、私は考える。
スパルタクスさんに関して、少しパーソナリティを振り返ってみよう。
当時の共和政ローマは、戦争で倒した他地域の部族を捕虜にして、奴隷として使役したり、ローマ市民より一段劣る下級市民として差別的な統治をしていた。
スパルタクスもそうした戦の中で負けた側の人である。
彼の出身はイタリアの北東、アルプス山脈を越えたトラキアという地域だったと伝わっていて、それは現在で言うギリシャ北部からブルガリアに跨るエリアだ。
剣闘士として見世物になりつつ過ごしたのち、彼は歴史に知られた通り、大規模な反乱をローマに対して起こす。
それも失敗に終わり鎮圧され、彼自身も戦いの果てに敗れた。
混乱の極地だったために、遺体は見つからなかったと伝わっている。
スパルタクスの青春はローマに負けたことで奪われ、そしてその人生もローマに負けて終焉を迎えたことになるな。
「負けてばかり、踏んだり蹴ったりの人生だな。よほど悪い星の下に生まれたんだろう」
朝食の麦モチをもぐもぐ食べながら翔霏がコメントする。
「いや、それでもローマ全土を震撼させた何十万人規模の大反乱の首領になったんだよ。士は死して名を遺すって言うじゃん。実際にスパルタクスの勇姿は何千年にもわたって語り継がれたんだし、過酷な剣闘奴隷生活でも大怪我一つ負わなかったって資料にはあるんだから!」
つい早口オタクになって反駁してしまった。
私の煩悶を知らずに、軽螢とヤギまで冷めた突っ込みを入れる。
「ン十万って、さすがに盛ってるだろ。白髪の軍師さんでさえ、あのときの乱では二万人くらいしか動かせなかったんだぜ」
「メェ」
「私がデタラメを言っているとでも思っているのか貴様ッ!!」
いかんな、好きな分野の話になると、どうしても頭に血が昇る。
イマジナリーの中だけでは恋多き喪女だったので、スパルタクスの物語にも胸と心を熱く焦がした過去があるのだ。
そう考えると、確かに彼を仲間に引き入れられるのなら、ぜひにともそうした方がいいと思えて来たね。
うん、テンション上がって来たぞ。
「と言うわけで私たちまた出かけて来るけど、椿珠さんたちはどうするの?」
たまたまこのタイミングで邑に逗留していただけの、椿珠さんと鶴灯くん。
彼らには彼らのお仕事、海と陸を行ったり来たりの商売があるので、特に同行を強要したりはしない。
むしろ私たちの代わりに首都と海辺を往復しながら、国内のおかしな情報を収集して欲しいかな。
などと手前勝手な都合を想像していると。
「俺たちはしばらく翼州にいるつもりだぞ。鶴灯の母さんを、州都の北網に呼んでるんだ。それを迎えなきゃならんからな」
「う、うん、おふくろ、た、楽しみに、してた」
イケメン二人は、まったく私の知らない所で、知らない話を進めているようだった。
「なんでそんなことになってるの。私はなにも聞かされてないんだけど」
説明を要求されて、椿珠さんの語るところにはこうだ。
「南部は今、景気が悪くなってるだろ。逆に神台邑や周辺は復興工事のおかげで、日雇い労働者が集中してきたからな。服飾の仕事ができる鶴灯の母さんなら、黙ってても山ほど注文が舞い込んで来るさ。仕立ての工房を北網に構えて、人を何人か使ってもらおうと思ってる」
「まったく、ゼニの臭いにだけは敏感なんだからこのヤサグレ三男はよ……」
椿珠さんこそ、そろそろ部下を育てて仕事を任せて、自分はのんびりすることを覚えても良さそうなくらいだ。
ま、性格的に無理なんだろうなあ、わからないでもない。
とりあえず椿珠さんたちはいつも通りに勝手にすると言うことで、心配なし。
「んじゃちょっくら行ってきましょうかね。あんまり長くかからないうちに、一旦は戻ると思うけど」
出発準備を終えて、私は邑にいる面々に言い残す。
「行ってらっしゃい。くれぐれも怪我には気を付けるんだよ」
籍先生の優しい笑顔に見送られる。
「はい、毎度毎度、お留守番ばかり頼んでしまってごめんなさい。お土産はたんまり持って帰りますので」
みんなに手を振って、にこやかに出発。
翔霏と、別に頼んだわけでもないのに軽螢、そしてヤギがいつも通り同行する。
「で、探すアテはあるのか?」
翔霏の質問に、苦笑しながら私は答える。
「思い当るところが一つ。逆を言うと、そこにいなければ今回の作戦は失敗かな。私たちよりも先に、スパルタクスさんは敵と合流しちゃうと思う」
「まァ最初からダメでもともとだし、それでもいいんじゃね。知らんけど」
「メッ、メェッ」
軽螢に幾分か気を楽にさせてもらいながら、私たちは北を目指す。
神台邑から、あまり人のいない田舎道を北へ北へ向かえば、そこはもう戌族が暮らす北方との境界線である。
大小の山々が北方草原との国境になっていて、山が低くなっている谷間の土地には軍事的関所が点在している。
「こんにちはー。神台邑の麗ですー。お勤めご苦労さまですー」
私は砦の守衛である軍人さんに、雑に声をかける。
一応は私も「国と、翼州の仕事」をしている官人には違いない。
部署は違えど、国境兵さんたちも同じ親分に仕える仕事仲間なのだ。
「やあ、これはこれは麗子爵どのではありませんか。本日もご機嫌麗しゅう」
見覚えのある顔の門衛さんに、半笑いでからかわれる。
「やめてくださいよ、子爵だなんで。一代限りの捨扶持におおげさな」
「すっかり有名人じゃないか」
翔霏まで私の隣でニヤニヤしている。
けれど、彼らの言う通り。
私は姜さんの反乱を止めた功績を評価されて、私の代限りの爵位を国から賜ってしまったのだ。
だから私は神台邑とその周辺いくつかの邑の、名目上の領主なのである。
その地域から上がってくる税金の一部を、まさに貴族の特権として自分の裁量で好きに使うことが許されているのだ、ぐへへ……。
と言っても、実際には税収ゼロのエリア。
私の役目は国のお偉いさんに頭を下げて、復興のための支援金を回してもらうくらいなのだ。
書類上は、兆家の養子である私が分家して、一代爵を与えられたということになっている。
この段になって私はやっと、独立した自分自身の戸籍を、昂国民として手に入れることができたわけだ。
そんな、なんの力も財産もない弱小貧乏貴族、それが私!
「ところで、こんな辺鄙な砦に麗子爵はどのようなご用件でしょうかな」
面白がっている門衛さんの質問に、私は苦虫フェイスで簡潔に答えた。
「国境近辺に、変な人が出たって噂はないですか? 具体的にどんな人かは私たちもわからないんですけど、きっと一目見たら『変なやつだ!』ってわかると思うんです」
紀元前のローマで奴隷をやっていた、おそらく筋骨隆々の男がウロウロしていたら、嫌でも悪目立ちするだろう。
「ふーん、おかしなやつねえ……あ、そうだそうだ」
門衛さんは、なにかを思い出したように話してくれた。
「昨日、砦向こうに住む黄指部の連中が来たよ。見慣れない男に大事な馬が盗まれたから、見かけたら教えてくれってさ」
「ふむ、馬泥棒か。よせばいいのに、よりにもよって」
翔霏がわずかに関心を示す。
馬と共に生きる戌族の世界では、馬盗人は重罪である。
見つかったら袋叩きでは済まないこともしばしばで、往々にして死人、一生背負う障害者が出るほどのリンチが発生する。
「大事な馬、ってのは、黄指部のお偉いさんが乗るような馬かな?」
軽螢の質問に、兵士さんは軽く首を振って教えてくれた。
「いや、どうやら黄指部の大人が、先の戦で馬を多く失った斗羅畏たちに、名馬を贈る約束をしたんだそうだ。その中でも最高の駿馬を盗まれたらしい。馬を無事に納入できなければ、氏部同士の面子に関わるからな。あいつら、相当に焦ってたよ」
馴染のある名前が唐突に出て来たよ。
話を聞いて、翔霏がふっと笑った。
「倭吽陀が乗っていた馬が、戦乱の中で死んでしまったからな。代わりの良馬を見つけて斗羅畏も安心していたところだろうに、盗まれるとは間の悪いやつだ」
「その馬と犯人を見つければ、黄指部にも孫ちゃんにも恩を売れるんじゃね?」
軽螢も打算的なことを言い出す。
フム、とわずかに黙考し、私は目下の方針を告げた。
「馬を盗んだおかしなやつを追ってみよう。それがスパルタクスさんなら大当たりだし、そうでなくても斗羅畏さんたちに良い挨拶になるからね」
ローマに負け、剣闘奴隷に身をやつしたスパルタクス。
彼がアルプス山脈の北、トラキアと呼ばれた地に生まれ育った騎馬民族であるならば、故郷に似たこの北方草原に足を運びたくなるに違いない。
「ただ草原を走りたかっただけなのかな……」
まだ会えぬ目的の人を想像し、私は砦を超えた。