三百四十六話 敵を知れば己を知る
あれは姜さんが反乱を起こし、それを止めるために北方を駆けていたときのことだ。
「命の巡りが、本当に円環だってんならさ……」
私を庇って毒矢を受けてしまった間者女性の乙さんが、こと切れる前に言ったのだ。
「あたしも、いつか生まれ変わりたいな。あんたたちが作る、新しい神台邑に……」
最高に私を喜ばせるような台詞を遺し、乙さんは逝ってしまった。
もう、彼女と口げんかをすることも。
罵倒の中にあった本当の箴言にハッとさせられることも。
新しい神台邑を彼女に見せることもできなくなり、私の心は張り裂けた。
いや、文字通り引き裂かれたのだ。
二つに。
目の前の悲劇を否定し、都合の悪い事実は書きかえてしまいたい感情と。
その反対に、幸も不幸も分け隔てなく受け止め、運命を肯定するんだと決意した感情に。
真っ二つに割れた両者は、哀れ決別してしまったのである。
今ここにいる私とは、似て非なる存在。
心から切り離して追い出した、通称「裏麗央那」の捨て台詞が頭に響く。
『お、おのれー! 後悔するからね!? 私を追い出したら、大変なことになる! これで終わる私と思うなよーーーーー!! 思うなよーーーーー……思うなよーーーー…………』
無駄に往生際が悪く、リフレインがしつこいのが余計ムカついた。
その言葉に嘘はなく、本当に大変なことになっちゃった。
と、いう事情がありまして。
「おそらく私の心身から分離した、影の私のような存在が、今まさにおかしなことをしでかしている張本人だと思う」
淡々と私が説明する内容に、お堂に集まったみんなはぽかんと口を開け、無言を返すのみだった。
私も信じたくないので、気持ちはわかります。
こういうときでも最高バディである翔霏が、言葉を添えて理解の一助としてくれた。
「私も前に、もう一人の私、のようなおかしな存在と戦ったことがある。嘘だと思うなら、そのときたまたま一緒にいた突骨無に聞いてみろ。ま、ものの数ではなかったがな」
かなり苦戦した記憶は、すっかり改竄されていた。
「あのときは翔霏の『あったかもしれない、もう一つの可能性の姿』が敵になって現れたんだよね。私も今回の事件は、それに似た力が働いてると思ってる」
私が捨てて遠ざけた、イフの世界、それはきっと。
どうしても埼玉に帰りたい戻りたい、お母さんやおじいちゃんに会いたい、東京の高校に通いたいと願い続けた果てにあるものだろう。
目の前の現実が都合よく置き換わるように、昂国での暮らしを否定して以前の暮らしを送れるようにと望んだ世界だ。
普通の15歳女子なら、自分の境遇を嘆いて、かつていた場所に帰りたいと泣いて過ごしていたかもしれないけれど。
「そんなこと言ってられないくらい、いろいろありすぎたからなあ」
あやふやな憶測でしかないことを説明しながら、私は述懐を差し挟んだ。
私は昂国でのめまぐるしい生活の中で、いつしか無意識の底にその感情を封じて、蓋をして生きて来た。
まだ埼玉に帰ってる場合じゃねえと強く意識することで、望郷の本心を誤魔化していたとも言える。
一番のきっかけは、覇聖鳳にこの邑を焼かれたことなんだろうな。
体中から溢れる怒りの炎を燃やしたあの日、埼玉への帰還は私の人生にとって最優先事項ではなくなった。
その違いは、本当に紙一重で。
ボタン一つ掛け違えていれば、帰ることを優先して行動した私が、いたかもしれないのだ。
空気を読めるようで読まない椿珠さんが、みんなに代わって聞きにくい質問を私にぶつけた。
「で、おまえさんは実際のところ、クニに帰りたい気持ちはいくらかでもあるのか?」
「そりゃ帰れるなら帰りたいよ。でも帰れないし、今さら悔やんでも仕方ないじゃん。他に楽しいこともいっぱいあるんだし」
「ま、そういうこったよな。人の生なんてもんはよ……」
寂しそうに、けれど優しげに笑って、椿珠さんは肯定した。
「け、けど」
申し訳なさげな顔で、鶴灯くんが意見を場に投げる。
「そ、その、れ、麗の、ニセモノ、みたいな、やつら、ってのは、こ、この土地を、麗の、ふるさとみたいに、か、変えたがって、るんじゃ、ないのか?」
「見た目は似てても、ニセモノだよ。本物の故郷のわけない」
私は乾いた感情で断言する。
裏麗央那がやろうとしている「世界のやり直し」が、いびつなハリボテ遊びでしかないということは、直感的にわかるのだ。
なぜならあいつは、埼玉や東京をこの地にそっくりそのまま持って来る、とは言わなかった。
フムと顎先を指でかき、翔霏が言う。
「敗者が生まれないような、新しい楽園を実現したい、とか言っていたな。そんなことをしてどうなるのか、私にはよくわからんが」
「その台詞自体が、私の元いた世界を再現できないと自白してるようなもんだよ。第一の望みが叶わないことを自覚してるから、第二候補の実現に着手してるんじゃないかな」
本物の埼玉をこっちの世界に丸ごと転移するなんてことは、いくら不思議な力を駆使しても決して実現できないのかな。
そもそも、裏麗央那が私の意識から分離した存在であるのなら、私の知らないことはあいつも知らないはず。
現実の埼玉県を隅から隅まで熟知しているわけがないので、想像で補ったマガイモノ、埼玉モドキがこっちの世界に現出していると考えるのが妥当だろう。
さっきまでいたドーム球場だって、一般客から見えない内部の構造は適当にでっち上げていたはずだ。
派手な演出の混乱で、あまり細かいところを観察できなかったのが悔やまれるね。
ふーんと聞いていた椿珠さんが、今後の指針を窺う。
「で、そこまでわかってるんだ。連中に好き勝手させないために、こっちが先手を打ってできることはあるんかね?」
「うーん……」
私は唸り、人差し指を舐めてこめかみをくりくりする。
相手が私の別存在なら、私が嫌がることは相手も知っているということだ。
だとすると神台邑か、首都の河旭か、翠さまたちの故郷である角州が襲われちゃったりするのかも。
いや、待てよ。
やつと私が同一存在であるとしたら、私が本当に嫌がることをするだろうか?
私は視線を移し、幸せそうな顔でおやつの野菜くずを食べているヤギを見る。
「メェ?」
菅原道真公に雷を落とされたこいつの体毛は、茶色に焦げてチリチリのアフロになってしまっている。
それ以外はどこも調子の悪いところなどなさそうで、相変わらずくりくりとした輝く瞳で、なにも考えていなさそうにこっちを見ている。
「命のやり取りには、ならないかも」
ぽつりと呟いた私を見て、みんなが驚きの顔を浮かべた。
一人だけ納得の表情でいるのは翔霏だ。
「だろうな。あいつら、信じられん覇気の割に殺気がまったくなかった。弟を殺したなんとかという男だけは正気を失っているのか、いまいち様子がつかめなかったが」
軽螢もその言葉を継いで言う。
「なんか、楽しんでる感じだったよな。これからみんなで遊びに行くんだ、みたいな。ついてったら面白そうかも、って思っちゃったぜ、俺」
「行きたいなら行っていいよ別に……」
呆れながら私は立ち上がり、さてと気合を入れるためパンパンと自分の頬を叩く。
「敵が私の別側面である以上、あんまり悲惨なことは起こって欲しくないっていう共通認識があるはず。大切な人が死んだりするのは嫌だってのは、この私も、私の無意識も、等しく共有してる感覚のはずだから」
「だからってほったらかしにしていいもんなのか?」
椿珠さんの疑問に私は首を振り、質問に質問を返す形で答えた。
「人は殺したくない。けれどこの世界を根本から変えたい。そういうとき、まずなにをする? いいや、私だったら、なにを思いつく?」
「えぇ? お前さんだったら……なんだろうな、なにをしても今さら、驚かんが」
ムムムと考えているみんなの前で、翔霏だけが冷静に言う。
「麗央那のような知恵を持った存在が、もしこの世界を変えたいと願ったなら、まずするべきことは決まっている」
続けられたその答えに、全員が息を飲んだ。
「神を、殺すんだろう」
みんなの言葉にできない感情と視線が、一斉に私に刺さるのを感じた。
震えている子までいる。
私は肯定の頷きを返して、翔霏の解答が満点であることを認めた。
「そうだね。私が前に暮らしていた世界に、みんなが知ってるような神さまはいなかった。こっちとあっちの一番の違いはそこ。だったら私の分身は、まず神さまをこの世界から抹殺して、その後で自分好みの世界を適当に作りはじめるに違いない」
まったく、表と裏に分離する前の私なら、四柱の神さまにとてもお世話になった思い出も共通のはずだろうに。
その恩義よりも、ホームシックが勝ったのか、私の無意識下では。
ま、私は元々、自分勝手な女だけれどね。
残酷な事実を思い知らされているようで、へこむなあ。
「け、けどよ」
呆然から立ち直った軽い螢が訊いてきた。
「か、神さまを殺すなんて、できっこないって。俺たちやヤギみたいな、普通の生きモンとは別だろ? 神さまは昔からそこにただ『いらっしゃる』もんで、生きるとか死ぬとかじゃねえと思うんだよな……」
「この国の人はそう思ってるだろうけど、少なくとも『私』はそう思ってないんだ。ごめんね」
神と言えど、いくら不思議な存在であれど。
この世にあるものなら、その形は必ず変化する。
氷が水になり、蒸気になるように。
人が死に、土に還り、植物の栄養や虫のエサとなるように。
運命の円環を渡っているはずなのだ。
なんらかの形でこの世にあるものは、永遠不変ではありえない。
神がいつまでも神である道理こそ、ないのだ。
存在するなら、神さまだって制止したりバラバラにできると、今の私は確信している。
とんでもなく大きい数字でも、頑張れば小さい数の集まりに素因数分解できるようにね。
目的が少しだけ定まったからか、さっきより晴れた顔をして翔霏が言った。
「なら、次の私たちの戦いは、神を護る戦いか。ありがた過ぎて想像もできんな」
「うん。毎度毎度悪いけど、今回も付き合ってね」
まったく果てしないスケールに、みんな絶句しているけれど。
私も正直、なにをどうしたらいいのかまったく分からないけれど。
うん、大丈夫、大丈夫。
「ちっとも負ける気がしないね」
虚勢ではなく、決意の元に断言できた。
自分が相手の戦いに、負けられるわけがないのだ。