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三百五十五話 ブッダとマーラ

 昂国こうこくへと戻るため、国境の砦へ急いで移動している私たち。


「他に邪魔が入らず、首都まで着けるならいいんだがな」


 道中で翔霏しょうひが案ずる。

 

「その心配はないと思ってるんだけどね」

「なんでだよ」


 私の楽観的な憶測に、軽螢けいけいが疑問を投げる。

 答えはいたってシンプルだ。 


「裏の私は、道真さまを信頼してたはずだから。彼が失敗したらなんてことに、余計な意識を回さないと思う」

「そうだといいがな……ん、この臭いは……?」


 翔霏がなにかに気付き、あらぬ方向を見ながら足を止めた。


「どしたの?」

「温泉が湧いているようだ。硫黄の混じった湯気の臭いがする」


 その言葉に、山羊もスンスンと鼻を鳴らして「メェ」と鳴いた。


「寄り道してる場合じゃねえだろォがよィ」


 珍しくまともなことを言った軽螢に、翔霏が真面目な顔で答える。


「いや、ほぼ進行方向だ。時間の浪費にはならないだろう。どのみち休憩は挟まなければならないのだから、温泉に入れるならその方がいい。確認するだけしてみよう」

「えっうん、そうだね……」


 極めて自信たっぷりにそう言うので、私もつい同意して頷いてしまった。

 このとき、私たちはまだ気付いていなかったのです。

 翔霏と言う女の子が、私たちの想定をはるかに超える温泉好きであったのだと言うことに……。


「軽螢はヤギと見張りでもしていろ。覗くような不埒をしたら歩いて帰れなくなるくらいは覚悟しておけ」


 見事、山中に温泉を発見した私たち。

 翔霏は脇目も振らずにそう指示して、お湯の温度を確かめながら「うむ、うむ」と真剣に納得している。


「わざわざ覗かねえよ、今さらンなもん……」


 やれやれと肩を竦めながら、離れた死角へ向かう軽螢。

 そんな物わかりのいい彼に私は理不尽な怒鳴りを浴びせる。


「貴様ーっ! 私たちの裸体など見る価値もないと、ほざきよるのかーッ!!」

「見て欲しいのか欲しくないのかどっちなんだよ面倒くせえなあ!?」


 ほのぼの系男子、久々にキレるの図。

 こんなバカげたことで怒らせてしまって申し訳ないと思うけれど反省はしない。

 久々にあったかいお湯が私を待ってくれているからね!

 って、ちょっと待てい。

 この男、今さら、と言ったな?

 まさか今までのどこかのタイミングで、私のあられもない姿は軽螢にバッチリ見られていたのでは……。

 などと益体もないことに脳のカロリーを消費するのはまさに無駄の極地であることを悟り、私は考えるのをやめた。


「ぷぃ~~~~~、生き返るワァ~~~~~~……」


 小さいながらも二人が十分に入れる池状の温泉に、体を浸す。


「キュキュ、キィ~」


 なんか野ネズミまで一緒に入って来て、水面を泳ぎ始めた。

 うんうん、ゆっくりお浸かり。

 温泉ほどに心と体を無条件に平安で満たす存在があるだろうか、いやあるまい、反語。

 私も生まれ変わったら、動物園でリンゴ湯に入るカピバラになりたい。


「うむ……」


 翔霏はすでに語彙力を失い、顔だけ水面に出して極上の快楽に身を預けていた。

 鉄分が豊富なのか、赤く濁った温泉である。

 残念ながら透けて見えません。

 どうしてもと言う人は、後日発売されるブルーレイディスク版を買ってね!

 遠赤外線効果なのか、体の芯からぽっかぽかに温まって行く感覚だ。

 今日はぐっすり熟睡できるぞ……。


「って、いかーん! 無駄に貴重な時間を寝て過ごしてしまった!!」


 ざばあとお湯から飛び出し、叫ぶ私。

 お風呂で寝落ちしてしまい、果たしてどれだけの時を浪費してしまったのか、まったくわからなくなっている。


「ど、どうしたんだよ!? 敵かァ?」

「メエッ!!」

「見んじゃねーーッ!!」


 慌てて駆け込んできた軽螢の顔に、道具袋を投げつける私。


「ぶべらっ」


 悶絶して倒れた軽螢は無視して、空の様子を確認する。

 さほど時間は過ぎていなかったらしい。

 この程度の休憩なら、必要の範囲でしょう。

 と自分を納得させ、私はお風呂から上がり着替えを済ませる。


「俺だって入りてえんだぞ、翔霏もさっさと上がってくれよ~~」

「メェ~~~~」


 男子勢のクレームを受け、額にびっしり玉の汗を浮かべた翔霏も重い腰を上げた。


「まったく野暮な連中だ……少しくらい待てんのか」


 ほっかほかのまっかっかに上気した顔で翔霏がボヤく。

 次に来る機会があるかどうかわからないくらいの名も知らぬ僻地だけれど、ここのお湯は星みっつだったね。

 小獅宮しょうしきゅうの地下塩泉に匹敵する、素晴らしい泉質だ。

 交代して軽螢とヤギがお風呂タイムに入ったので、私と翔霏は食事の準備を始める。

 テキトーに野草中心にブッ込んで鍋だな。


「お肉がもう少し欲しいところだねえ」


 と、ないものねだりをする私。


「ふむ……」


 温泉で弛緩しきった翔霏だけれど、一瞬で集中した表情に戻り。


「森の中にタヌキかなにかがいる気配がする。とりあえず仕留めてみるか」


 そう言って足音を完璧に殺し、片手に投げナイフを携えて木々の間に入った。


「ぴぃー……」


 すぐに切なげな動物の断末魔が響く。

 戻ってきた翔霏の手には、丸々と太った尻尾の太いウサギのような獣が握られていた。


「見たことのないやつだな。果たして美味いか不味いか、食ってみないとわからん」

「ぷっくりもっちりしてて、食べごたえはありそう。こんなにカワイイのにゴメンね~~」


 食べられる動物に詳しい翔霏でも知らないということは、北方に固有の生きものかもしれない。

 お風呂を上がった軽螢が来て、驚いて言った。 


「うーんいい湯だったなぁ。ってお前らそれ、ひょっとしてニコミウサギじゃんか!? え、まさか獲れたンか? この山で!?」

「普通にその辺にいたぞ。軽螢は知ってるのか」


 クールに答える翔霏に、ぱあっと花の咲いた表情で軽螢が絶賛し説明した。


「前にじっちゃんが、教えてくれたことあるんだ! 白髪部はくはつぶに出向いて畑の仕事を教えてたときに、煮込めば煮込むほど美味くなるウサギを食わせてもらったことがあるんだって! きっとこいつがそれだよ! まだ死に絶えてなかったんだなァ……」

「なにその人間の都合だけでこの世に生み出されたような可哀想な動物」


 軽螢は感極まって、眼に涙まで浮かべる始末。

 それにしたって名前がひど過ぎるわ、煮込まれること前提かよ。

 でも食べちゃう~~、美味しいと聞いたらなおさら我慢できなぁ~~ぃ。

 ごくり、と喉を豪快に鳴らした翔霏が、張り切ってウサギを捌き始める。


「そうとわかれば徹底的に煮て美味くしてやろう。きっと私たちの日ごろの行いが良いから、神さまかなにかがこうして巡り合わせてくれたんだな」


 美味しいものへの執着なら誰にも負けるつもりがない翔霏。

 滅多に見られないほど真剣な顔で、丁寧にウサギ肉をトリミングしていく姿は、まさに匠。

 私たちはそれから、言葉少なにウサギ鍋をじっくりコトコト煮込み、完成に胸を躍らせたのでした。


「こ、これがニコミウサギの煮込み……」


 気の抜ける台詞を大真面目に吐いて、いい感じに仕上がった鍋を凝視する軽螢。

 辺りには実に馥郁たる香りが漂っており、私の口の端からもヨダレが止まらない。


「待て。ここは私が仕切らせてもらう」


 翔霏がぴしゃりと言って、鍋奉行を買って出た。

 なるべく公平に山菜とお肉を取り分けているつもりでも、気持ち翔霏のお椀に肉が多めに入るくらいは、突っ込まないであげましょう。


「今日の出会いに感謝して、ありがたくいただきます」


 一拝して私は、とろとろぷりぷりに柔らかくなったウサギ肉にがぶりと食らいつく。

 じゅわぁ……。

 口内いっぱいに甘い脂と肉汁が溢れ出て、塩と香草で軽く味付けしただけとは思えないほどの旨味の大洪水が押し寄せる……!

 煮込めば煮込むほど美味しいウサギ、その名に恥じない、まさに神が人に与え賜うた究極の逸品……!!

 これこそ野山の恵みのオーケストレーションやぁ~~~!


「うう、な、なんてものを食わせてくれたんだ。これに比べれば、イワダヌキの肉なんてゴミカスだ……」


 翔霏に至っては、あまりの美味しさに泣いていた。

 イワダヌキが可哀想でしょ、いちいち比べないであげて。

 軽螢もしんみりした顔で、大事に大事にお肉を噛みしめている。


「じっちゃんが、あんなにウマいもんは天下広しと言えど他にない、なんて言ってたっけ。そンときはみんな話半分に聞いてたけど、嘘じゃなかったんだな……」


 まるで雷来らいらいおじいちゃんが隣にいる日々、かつての幸せな時間に戻れたかのように、無邪気な少年の顔になっていた。

 美味しい食事は、幸せな記憶と常に繋がっているんだね。

 最高の食事をゆったりと過ごし、私たちは仮眠をして日の出を迎えた。


 そして、冷静になった。


「なんでこんなに、のんびり過ごしちゃったの!? 急いで昂国に帰ろうとしていてはずでしょ!?」


 叫ぶ私。

 

「仕方ないだろう。温泉にウサギ鍋と、幸運が立て続けに目の前に現れたのだから……」


 気まずそうに眼を逸らし、真っ当な言い訳を小声で述べる翔霏。


「ひょっとしてこれも、もう一人の麗央那が知らず知らずのうちに発揮しちゃってる力なのかもナ」

「無意識に現実を捻じ曲げて私たちの邪魔をしちゃってるってこと? そんなわけ……」


 いや、有り得る。

 なにせ自分の都合良く世界を創り変えようとしている大たわけだからねえ。

 自分の中から出でし災厄に申し訳ない気持ちを新たにして、私たちは次の途を急いだのだけれど。


「麗央那ァ、なんかあっちに光る竹があるぜ」

「無視して!」

「気のせいだろうか。今、一本ヅノを額に立てた白馬が通りがったように見えたが」

「そんなものはいないよ!」


 立て続けに表れるやけにおかしな誘惑の種に、軽螢も翔霏も気を取られっぱなしなのであった。

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