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さよならを言わなかった夜

作者: 薩摩 芋子

月の光が、机の上の封筒を静かに照らしていた。


 小さな図書室の片隅。棚を拭いていたセレナの手が、不意に止まった。

 差出人の名を見た瞬間、胸の奥にしまっていた何かが、音もなく崩れ落ちていく。


 ——ノア。


 震える指先で封筒をなぞる。

 角がわずかに擦れ、紙は少し黄ばんでいた。


「……どうして、今……」


 封はまだ切られていない。誰の手にも触れられず、時の流れだけを吸い込んだような、そんな封筒だった。


 ゆっくりと引き出しの椅子に腰を下ろすと、セレナは両手でそれを胸に抱いた。

 怖かった。手紙を開けてしまえば、ノアの声が、言葉が、本当に“終わって”しまいそうで。


 けれど、そのまま何も知らずにいるのは——


「……ノア」


 誰もいない図書室に、掠れるような声が落ちた。

 月の光だけが、静かに彼女を包んでいた。


 * * *


「あの……失礼します。セレナさん、でいらっしゃいますか?」


 図書室の扉が開いたのは、夕方の閉館間際だった。

 窓の外にはもう月が昇り始めていて、セレナはカーテンの隙間から差す光を手のひらで遮った。


 振り返ると、見慣れない青年が立っていた。軍服のような上着に、肩には色褪せた布の包み。


「……はい。私がセレナです」


 セレナは、深く息を吸って立ち上がった。

 ノアがもうこの世にいないことは、ずっと前に知らされていた。

その知らせを受け取ったとき、セレナは何も感じていないように装って日々を過ごした。

泣いてしまえば、彼との記憶が終わってしまう気がしたのだ。

それでも、夜になると心の中にぽっかりと穴が空いたようで、静かな図書室の片隅で何度も名前を呼びそうになった。

けれど、あの別れの日に言葉を交わせなかったことを、彼女は今も悔いていた。

心のどこかで、あの夜もう一度抱きしめていれば、何かが変わったかもしれない——そんな想いが、今も小さな棘となって胸の奥に刺さるようだった。


 青年は深く一礼し、包みの中から一通の封筒を丁寧に取り出した。

見慣れた文字が、セレナの目に飛び込んでくる。

胸の奥が、静かに軋んだ。


「これは、ノアさんから預かったものです。戦地で、亡くなられる直前に……」


 セレナの鼓動が、ひとつ、大きく跳ねた。


「あなたが……ノアの、戦友の方ですか?」


「ええ。ノアさんとは部隊が同じで。彼は、最後まであなたのことを……ずっと」


 青年の声が少し震える。


「……この手紙を、必ずあなたに渡してくれと託されました。でも、戦争が終わってからも、僕は処理業務や後方の任務に追われていて……ずっと渡せずにいたんです。今日ようやく……ここに来ることができました。」


 言葉が続かず、彼は手紙を差し出したまま頭を下げた。


 セレナは、何も言わずにそれを受け取る。震える指で、封筒の端をそっとなぞった。


「……ありがとうございます」


 それだけを、彼女は絞り出すように言った。

 涙はまだ落ちてこなかった。けれど胸の奥が、少しずつ、ほどけていくのを感じていた。


 * * *


 ——セレナへ


 この手紙が、君のもとに届く頃、僕はもう君の隣にはいられないかもしれない。

 そう思うと、言葉がうまく書けなくて、何度も手を止めてしまったよ。


 君と過ごした日々は、僕にとって宝物だった。

 朝の図書室、君が棚に手を伸ばしてるのを、いつも見ていた。

 午後の広場で、君はベンチに腰かけて、膝の上で刺繍をしていたね。

陽の光が髪に当たってきらきらと揺れていて、目を細めて糸を通す君の横顔が、やけにきれいで——

その姿は、目を逸らせないほど静かで美しくて——

僕はただ、心の中に焼きつけるように見つめていた。


 君はきっと、気づいてなかったと思う。

 言葉が少ない僕の代わりに、君は笑ってくれた。

 その笑顔があったから、僕は怖くても前を向けたんだ。


 戦場の空は、時々、あの夜の月に似ていた。

 満月が空に浮かんだとき、僕は君を思い出す。

 あの夜、君は駅まで僕を見送りに来てくれた

列車の汽笛が遠くから聞こえてきて、ホームに静かな緊張が満ちていた。

君の指先が、僕の袖を少しだけ掴んでいたことに、ちゃんと気づいていた。


「さよなら」なんて、言いたくなかった。

言葉にしたら、本当に終わってしまう気がして。


だから僕は、君の顔を両手でそっと包んで、ただ唇を重ねた。

それが、“伝えたかったすべて”だった。


触れた時間は短くて、けれどその熱は、今も僕の中に残っている。

声にできなかった想いを、あの夜、君は受け取ってくれたのだと信じたい。


それでも、あの一歩を踏み出したあと——

僕は何度も、君の名を呼びたくなって、振り返りたくなって……でも、できなかった。


あの夜が、ふたりの物語の終わりになってしまったことを、今もずっと悔やんでる。


本当は、もっと未来の話をしたかった。


どんな家に住むかとか、君の好きな花のこととか、そんな些細なことを、ずっと語り合いたかった。


どんな朝ごはんを作るかとか、休日にはどこへ行くかとか、

そんな何気ない日々のことを、君と笑いながら語り合いたかった。

季節が移ろうたびに、君の好きな景色や匂いを知っていきたかった。

ただそばにいて、当たり前のように笑い合える日々を、いつか迎えられると信じてた。


君のことを想っていた気持ちは、きっと君にも伝わっていたと思う。

でも、あのとき僕たちは、どこか遠慮がちで、想いを曖昧なままにしていた。

お互いの気持ちに気づいていながら、言葉にするのが怖かったんだ。

ただそばにいることが心地よくて、その関係を壊す勇気が持てなかった。


だから、この手紙で、最後にようやく伝えるよ。


——愛してるよ、セレナ。


 僕の願いは、君がどうか、笑って生きてくれること。

 それだけが、今の僕にできる、たったひとつの祈りです。


 もし生まれ変わって、もう一度君に出会えたら——

 今度こそ、さよならを言わずにすむように、生きたい。


                   ノア


 * * *


 「……ばか」


読み終えた手紙を、セレナは胸に抱きしめた。

文字はもう滲んで読めなくなっていた。

けれど、その言葉は、確かに彼女の心に届いていた。


自分の想いに気づいていながら、言葉にしなかったノア。

その優しさも臆病さも、全部わかっていたからこそ、胸が苦しかった。

それでも最後に、ちゃんと気持ちを残してくれた彼に、どうしようもなく涙があふれた。


「そんなふうに……ちゃんと、言ってくれたらよかったのに」


 喉の奥から込み上げる嗚咽を堪えるように、セレナは目をぎゅっと閉じた。

 けれどもう、止めることはできなかった。


 泣いていい。

 今夜だけは——泣いてもいい。


 窓の外には、満月が浮かんでいた。

 まるで、彼が見上げた月と同じ場所に、今も光っているようだった。


 セレナはそっと立ち上がり、机の引き出しからあのハンカチを取り出した。

色は褪せ、刺繍の糸も少しほつれていた。

それは、手紙と一緒に戦友が渡してくれたものだった。

ノアが肌身離さず持っていたその布は、遠い戦地から、言葉の代わりに、彼の想いを携えて戻ってきたのだった。


涙を拭いながら、セレナはゆっくりと息を吸った。

 そして、一歩、足を踏み出す。


「……ありがとう、ノア」


 声は小さくても、確かに届く。

 この空のどこかで、彼が聴いていてくれると信じて。


 満月の夜、セレナは初めて“言葉”を口にした。

 ずっと飲み込んできた、たったひとつの想いを、ようやく彼に伝えられた気がした。


 静かに、月が彼女を照らしていた。

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