表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/37

第22話:壊れた王女の心と絶対服従(前編)

ムーンベリクの王女は、サマルティアの王子による執拗な嫌がらせと冷酷な命令に、日々その心を削り取られていた。彼女は毎朝目を覚ますたび、胸に重くのしかかる不安と罪悪感に押し潰されそうになりながら、なんとか足を動かしていた。鏡に映る自分の顔はかつての生気を失い、いつも晴れやかだった微笑みはすでにどこかへ消えてしまっていた。


かつての彼女は、ムーンベリクの再興に全身全霊を捧げる誇り高い王女だった。敵国の侵攻によって滅亡寸前に追い込まれた故郷を復興させ、民の信頼と希望を背負って歩む存在であるべきだった。しかし今の彼女は、冷酷な王子の命令を拒むこともできず、むしろ彼の怒りを買わないようにと怯えるばかりだった。


自らが犯した一度の過ち――それは、ローランシアの王子への不貞という、決して許されない裏切りの行為だった。その一瞬の感情に流され、彼女は義務を忘れてしまった。彼女の心にあったのは、ムーンベリクの王女という責務を超えた、ただ一人の女性としての愛の衝動だった。しかしその結果、全てを失った。サマルティアの王子の冷酷さを呼び起こし、ローランシアの王子への愛も汚してしまった。そして今、ムーンベリクの民にすら胸を張ることができない。


その中でも、耐えがたかったのはサマルティアの王子の変貌だった。かつて彼は穏やかで思慮深く、時には優しい言葉で彼女を励ましてくれた存在だった。その人間らしい温かさが、今ではすっかり消え失せてしまった。その瞳には冷酷な光が宿り、彼の口から発される言葉は命令か侮辱のどちらかだった。


最も彼女の心を苛んだのは、その変貌が自分が原因であるということだった。自分の裏切りが、王子をここまで冷酷な存在にしてしまった。もしあの時、自分が別の選択をしていたなら、王子は今でも優しい笑みを浮かべてくれていたのだろうか。その後悔が何度も胸を刺し、彼女を夜も眠らせなかった。


「すべて私のせい……」


そう呟いては、涙が知らず知らずのうちに頬を伝う。それでも、彼女はムーンベリクの民に笑顔を見せねばならない。再興を託された使命を果たさねばならない。心が悲鳴を上げる中で、彼女は立ち上がり、日々を乗り越えていた。それが、もはや空虚な意地にすぎないことを理解しながらも。



********************



その夜、王女は一つ一つの足音を重く感じながら、サマルティアの王子の部屋へ向かっていた。廊下は静まり返り、蝋燭の炎が揺れるたびに、壁に映る自分の影が不安に震える彼女の心をさらに掻き立てた。冷たい石畳の感触が、彼女の歩みを重くしているかのようだった。


扉の前に立つと、深く息を吸い込んで心を落ち着けようとしたが、心臓の鼓動が激しく耳に響き、息は浅く震えたままだった。それでも彼女は意を決し、そっと扉を開けた。


部屋の中は薄暗く、重い空気が漂っていた。窓際には冷たい月明かりが差し込み、床には長い影を落としていた。その影の中に佇む王子の姿が、彼女の目に飛び込んできた。彼は机に腰掛け、手には何かを弄びながら、こちらを振り向こうともしない。


「……サマルティアの王子様……。」


震える声でそう呼びかけると、王子はようやく顔を上げた。その瞳には、かつての温かさや優しさは微塵もなく、冷たい光が宿っていた。その視線に押されるようにして、彼女は震える足取りで進み、王子の前で膝をついた。


王女の瞳からは、堪えきれない涙がぽつりぽつりと零れ落ちた。声を震わせながら、彼女は搾り出すように言葉を紡いだ。


「……なんでもします……。だから、もうこれ以上はやめてください……。どうか、元のあなたに戻ってください……。」


彼女の言葉には、哀願と罪悪感、そして失ったものへの渇望が滲んでいた。その願いは、彼女の心の底からの叫びだった。


王子はその言葉に、一瞬だけ表情を曇らせた。眉間にわずかなしわが寄り、瞳の奥にかすかな葛藤が浮かんだようにも見えた。しかし、その感情はすぐに冷酷な笑みに押し殺された。彼は椅子から立ち上がり、ゆっくりと彼女の前に歩み寄ると、見下ろすようにして冷たく言い放った。


「元の僕に戻れ?今さら何を言っている。お前は、今でもローランシアの王子を愛しているくせに、何を被害者ぶっているんだ?」


その一言は、彼女の心に深く突き刺さった。彼の言葉はまるで刃のように鋭く、彼女の心を引き裂いた。王子が無情にも真実を突きつけるたびに、彼女の内に秘めていた希望や自尊心は音を立てて崩れていった。


彼女はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。涙は止まらず、声にならない嗚咽が喉の奥から漏れ出た。しかし、そんな彼女を見ても、王子の態度は揺るがなかった。彼の瞳には冷たい輝きが宿り、その姿は人間味を失ったかのようだった。


彼女の涙は、冷たい床に吸い込まれるようにして消えていった。彼女の言葉も、その涙も、王子の冷酷な仮面を動かすには至らなかった。彼女は絶望の中で、ひたすら祈るように涙を流し続けた。





王子は無言のまま机に近づき、その上に置かれていた水晶玉をゆっくりと手に取った。その動作には余裕があり、どこか挑発的な空気が漂っていた。冷たい光を放つ水晶玉を指先で弄びながら、彼は何事もなかったかのように平然とした声で言葉を続けた。


「お前が本当にローランシアの王子を愛しているのなら、この録画を持って行け。そして僕がお前を脅迫していることを人々に告発しろ。」


彼は水晶玉を王女に向けて突き出した。その中には、ローランシアの王子との情事が映し出されていた。水晶玉の輝きは、王女の絶望をより際立たせるかのように淡く光っていた。


「さあ、やってみろ。お前にそれをする勇気があるならな。」


その冷たい声には、挑発と侮蔑が混じり合っていた。彼の瞳は、まるで彼女の内面を抉り出そうとするかのように鋭く、逃げ場のない威圧感を放っていた。


王女はその言葉に衝撃を受け、震える手で口元を押さえた。彼女の瞳は涙で曇り、全身が小刻みに震え始めた。王子の言葉の意味を理解しようとしたが、あまりに残酷であり、到底受け入れがたいものだった。


「……そんなこと……できません……。」


絞り出すように発せられたその言葉は、彼女自身の悲しみと無力感を如実に表していた。彼女はうつむき、涙がぽたりと床に落ちる音だけが部屋に響いた。


「なぜだ?」


王子の問いは冷酷そのものだった。まるで彼女の心の奥深くを暴き、さらなる苦痛を与えることを楽しんでいるかのようだった。その声には、答えを聞きたいという願望よりも、追い詰めようとする意図が明らかだった。


王女は震えながら顔を上げた。その表情には恐怖と苦悩が刻まれていたが、それでも彼女は自らの想いを伝えようと、震える声で言葉を紡いだ。


「……ムーンベリクの民たちが……私を信じてくれているんです……。ムーンベリクの再興が私の使命なのです……それを裏切るわけにはいきません……。不貞を犯したなど知られるわけにはいかないのです……。」


その言葉には、かすかな決意と使命感が込められていた。しかし同時に、それは彼女が自らを犠牲にすることでしか守れない希望であることも暗示していた。


王子はその言葉を聞くと、薄く冷たい笑みを浮かべた。その笑みには、彼女の葛藤を楽しんでいるかのような嘲りの色が滲んでいた。


「不貞を働いた段階で、その民をもう裏切っているんだがな。自分の民を裏切り、僕を裏切り、サマルティアを裏切る。君は大した嫁君だよ。」


彼の言葉は、彼女の心を深く抉り、傷つけた。真実を突きつけられた彼女は、もはや何も答えることができなかった。言葉にならない痛みが彼女を覆い尽くし、ただ涙が静かに頬を伝うばかりだった。


彼女の沈黙は、王子にとっては勝利の証のように思えた。彼は水晶玉を再び机の上に置き、そのまま背を向けて歩き出した。


王女はその場に崩れ落ちるようにして座り込み、拳を握りしめた。使命と自己犠牲の板挟みの中で、彼女は何もできない自分の無力さに打ちのめされていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ