第1話:裏切りの初夜
ローランシアの城門が見えてきた頃、王子は足を止め、振り返った。背後にはサマルティアの王子とムーンベリクの王女が並び立っている。三人とも旅の傷跡を刻んだ装備をまといながら、どこか晴れやかな表情を浮かべていた。
「ここでお別れだな……」
ローランシアの王子が静かに呟く。彼の声には寂しさと達成感が入り混じっていた。
「そうだな。でも、また会えるさ。」
サマルティアの王子は微笑みながら、肩にかけた剣を軽く叩いた。その仕草は、まだ戦いの余韻を引きずっているようだったが、どこか肩の力が抜けている。
「いつか、この平和な世界でね。」
ムーンベリクの王女が静かに答える。その瞳には、これから訪れるであろう穏やかな日々への希望が宿っていた。
三人は互いに言葉を交わし、固く握手をした。長い旅路を共に歩んだ彼らにとって、この瞬間は単なる別れではなかった。絆は永遠に続くものであり、どれほど遠く離れても、心の中で繋がっていると信じていた。
王子たちはそれぞれの道を歩み始めた。しかし、彼らの物語はここで終わらない。魔王を討伐した英雄たちが帰還したその先に、さらなる試練や新たな運命が待ち受けているとは、まだ誰も知らなかった。
これは、戦いを終えた後の彼らが、それぞれの人生を歩む物語である。魔王討伐という大きな使命を果たした後、人々の希望の象徴となった三人の英雄が、どのようにして新たな日々を紡いでいくのか。その足跡を辿る物語の幕が、今、再び上がる。
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サマルティア城の一室。豪華な調度品が並ぶ中、ムーンベリクの王女は窓辺に立ち、月明かりに照らされた夜空をじっと見つめていた。
ローランシアの王子への想いが、胸の奥に疼いていた。旅の中で見せた彼の強さ、優しさ、そして揺るぎない決意。それらすべてが、彼女にとって理想の伴侶像そのものだった。しかし、目の前に広がる現実は、彼女を別の道へと導いた。
「結婚は国のため。個人の感情を超えた義務なのです。」
父王の遺言が耳元に蘇る。ムーンベリク家の復興と平和を支えるためには、サマルティア家の協力が必要不可欠。その象徴としての結婚。ローランシアとの同盟も重要だが、ムーンベリクとサマルティアの地理的な結びつきが決定打となった。
サマルティアの王子と結婚し、男子を儲け、その子にムーンベリクを継がせる。それが亡き両親、強いては国民から彼女に託された使命であった。
王女はため息をつき、振り返った。豪華な婚礼衣装をまとい、煌びやかに輝く自分の姿が鏡に映る。しかしその瞳には、わずかな曇りが見え隠れしていた。
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婚礼の儀式は盛大に行われた。ムーンベリクの復興を祝う人々の笑顔と歓声が城内を満たし、花の香りが広がる中、サマルティアの王子は満面の笑みで王女に手を差し出した。
「王女様、いや、これからは私の妻となる貴女へ。」
彼の瞳には、純粋な喜びが宿っていた。王女は一瞬のためらいを抱えながらも、その手を取る。暖かい。彼が自分に寄せる真剣な愛情が、その温もりから伝わってきた。
「よろしくお願いします、王子様。」
形式的な言葉。しかし、彼の優しい眼差しに触れた瞬間、王女は旅路での記憶を思い出す。彼の不器用ながらも献身的な行動、無邪気な笑顔、時折見せる真剣な表情。嫌いなわけではない。むしろ、愛すべき友人としては大好きだった。
夜が更け、二人だけの時間が訪れた。寝室に入ると、サマルティアの王子は緊張した面持ちで立ち尽くしていた。
「その…今日は、貴女にとっても特別な日なのに、無理をさせているのではないかと心配です。」
彼の声は震えていたが、誠実さに満ちていた。王女は微笑み、小さく首を振った。
「いいえ。私も、この結婚が国のためだと理解しています。それに…貴方と過ごした旅の日々を思えば、不安だけではありません。」
そう言いながら、王女は自分に言い聞かせるようにしていた。しかし、いざ彼の手が自分の肩に触れた瞬間、旅路で感じたローランシアの王子の温もりが鮮明によみがえり、胸が張り裂けそうになった。
王女の瞳には涙が浮かんでいた。サマルティアの王子が気づき、驚いた表情で尋ねる。
「どうしたの?何か辛いことがあるのなら、教えてほしい。」
王女は声を震わせながら答えた。
「ごめんなさい。あなたが優しいことは分かっています。でも、私の心はまだ……ローランシアの王子のことを忘れることができないのです。」
その言葉に、サマルティアの王子はしばし沈黙した。彼の瞳には悲しみが浮かび、それでも彼は無理に微笑みを作った。
「そうだったのか……君がそう感じているなら、無理をする必要はない。僕は君の気持ちを尊重するよ。」
王女はその言葉に救われる思いがした。しかし、自分がこの結婚で彼を傷つけてしまったことへの罪悪感が胸を締め付ける。
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その夜、二人は別々に眠ることを選んだ。王女は月明かりに照らされた天井を見つめながら、静かに涙を流した。自分の心が過去に縛られ、目の前の現実を受け入れられないことを痛感していた。
サマルティアの王子は寝室の隅で、王女に背を向けたまま、彼女を傷つけることなく寄り添う方法を模索していた。彼にとっても苦しい夜であったが、彼は彼女の笑顔を取り戻すためならば、時間をかける覚悟ができていた。
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月明かりが差し込む寝室の天井を見上げながら、ムーンベリクの王女は胸をかきむしられるような感情に襲われていた。結婚式では微笑み、忠誠を誓い、覚悟を決めたはずだった。国のため、家族のため、そして旅で築いた絆を尊重してこの結婚を受け入れると心に決めたのに――それでも、自分は逃げてしまった。
彼の手が触れた瞬間、記憶の中のローランシアの王子が蘇ったのはなぜだろう。彼の強い背中、迷いのない瞳、そして誰よりも自分を守ろうとしてくれた優しさ。彼に惹かれる心が完全に消えることはなく、それが現実の前に自分を弱くしている。それを分かっていながら、なぜ結婚を承諾したのだろう。
王女は手を握りしめ、自分の行いを悔いた。サマルティアの王子に向けて、自分の胸の内をあのように打ち明けたこと。それは、彼の気持ちを踏みにじるような行為ではなかったのか。不誠実だった。彼の優しさに応えようともせず、自分の弱さだけをぶつけてしまった。
「私はなんてひどい女なのだろう……」
王女は小さく呟いた。どれだけ相手が誠実であっても、ローランシアの王子への想いを消せない自分が許せない。彼女は自らの行為を思い返し、涙を流した。彼女の口から漏れた言葉は、サマルティアの王子にとって耐え難いものだっただろう。自分のことを好きだと告げてくれた相手の心に、どれほどの痛みを与えたか。思い至るほどに胸が苦しくなった。
さらに、女性である自分が彼に「拒絶」という形で恥をかかせたことが何よりも許し難かった。初夜を迎える新郎新婦として、男性としての彼を立てるべきだったのではないか。彼がどれほど勇気を出して自分に触れ、心を開こうとしたかを思うと、自分が取った行動がいかに彼を傷つけたかを感じずにはいられなかった。
「私は、結婚を受け入れた責任を果たせなかった。」
その言葉が、彼女の胸に突き刺さる。どれだけ自分が苦しくても、結婚という契約を結んだ以上、彼を敬い、受け入れるべきだった。それができなかった自分は、彼を傷つけた自分は、どうやって償いをすればよいのだろうか。
彼女は涙をぬぐい、静かに決意を固めた。
「私は、この結婚を無駄にしない。サマルティアの王子にもう一度誠意を示し、私の弱さを償う方法を見つける。」
そう胸に誓ったものの、彼女の心にはまだ揺らぎが残っていた。ローランシアの王子への想いを完全に断ち切ることができるのか。この結婚を心から受け入れることができる日が来るのだろうか。
窓の外には、月が静かに輝いていた。その光は彼女の心に安らぎを与えるどころか、彼女の苦悩を浮き彫りにしているようだった。