第一章 第一話
四月七日 火曜日
朝、目を覚ますと隣りに見知らぬ中年男が寝ていた。
黒いスーツを着た、新宿駅で石を投げれば当たる類のどこにでもいそうな中年の男である。
道理でベッドが狭いはず――。
じゃなくて!
なんでここに男がいるんだ!?
…………思い出せない。
全てを半透明のガラス越しに見ているような感じがする。
夕辺のことはさっぱり思い出せないし考えがまとまらない。
頭は窮屈なヘルメットを被せられたみたいに痛む。
胸はムカつくし吐き気もする。
頬に油を皮下注射されたみたいに顔がむくんでいる。
二日酔い初体験である。
だが、別の初体験を男としてしまったとは思いたくなかった。
まだ女の子と付き合ったこともないのに。
高校二年でそれもどうかとは思うが。
一応服は着ている。お互い。
特に乱れてもいないようだ。
何もなかったことにしよう……。
そう思った時、男が猫になった。
文字どおり猫になってしまったのだ。
推定身長百七十センチの人間が、体長六十センチほどのイエネコになったのである。
耳はチョコレート色で顔と背中はミルクコーヒー色、長い尻尾はチョコレート色に白い縞模様、足と腹は白い。
「うわぁーーーーー!」
俺は悲鳴を上げながらベッドから転がり落ちた。
自分の悲鳴が頭に響く。
鍋をかぶらされて金槌で叩かれているような頭痛が襲ってきた。
猫がうるさそうな顔でこちらを向いた。
階段を駆け上ってくる足音が聞こえた。
「孝司! うるさい!」
姉ちゃんがドアを開けて入ってきた。
今日の姉ちゃんは白いブラウスにピンク色のスカートをはいている。
もう化粧もばっちり決めてあった。
胸まである髪は後ろでまとめている。
「ね、姉ちゃん! ば、化猫が……」
「寝ぼけてるんじゃない!」
姉ちゃんは俺の頭を拳で殴った。
拳骨と頭痛の二重攻撃に俺は頭を抱えて倒れ込んだ。
死ぬ……。
もう酒なんか飲むものか……。
二十歳になるまでは……。
その時、俺の指の先を見た姉ちゃんが猫に気付いた。
「可愛いぃー!」
姉ちゃんの甲高い声が脳天を貫いた。
ぐはっ……!
死ぬ……。
今度こそ死ぬ……。
俺は激しく痛む頭を抱えた。
「姉ちゃん、逃げろ! そいつは化猫なんだ!」
いくら凶暴な姉でも化猫の餌にするわけにはいかない。
俺は姉ちゃんの足にしがみついた。
「近付いたらダメだ!」
「うるさい! いつまで寝ぼけてるの!」
姉ちゃんが俺を蹴飛ばす。
「ダメだ、姉ちゃん!」
「いい加減にしないとホントに怒るわよ!」
もう怒ってるじゃないか、と言う突っ込みはしても無駄だろう。
姉ちゃんは猫を抱いて階下に降りていった。
俺はふらふらしながら姉ちゃんの後を追った。
姉ちゃんは俺の朝飯の鮭を別の皿に載せて猫の前に置いた。
母さんが猫の背を撫でる。
「母さん、そいつから離れて! それは化猫なんだ!」
「孝司ったら寝ぼけてるの?」
母さんが呆れたように言った。
「違うよ! ホントにそいつは化猫なんだ!」
俺がいくら言っても母さん達は信じてくれなかった。
仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
家族の中でこの世ならざる者――化生が見えるのは俺だけなのだから。
「イジメにでも遭ってるんじゃないだろうな」
父さんが言った。
「違うってば」
「病院に連れてった方がいいのかしら?」
母さんが俺の額に手を当てた。
あんまり近付かれると酒の臭いに気付かれる。
俺は慌てて母さんから離れた。
「でも、何科に連れてったらいいのかしらねぇ」
母さんが考え込む。
「精神科よ」
姉ちゃんが冷たく言い放った。
「とにかく、こいつは捨てないと」
「一度拾ってきた動物を捨てるなんて無責任でしょ!」
「俺はこんなの拾った覚えないよ!」
「じゃあ、どうしてあんたの部屋にいたのよ!」
「それは……」
思い出せない……。
部屋の窓は開いてなかった。
いくら酔っぱらっていたとはいえ、大の大人を担いでくるのは無理だ。
いや、酔って足下が覚束ない時の方が尚更難しいだろう。
猫の形で連れてきたに違いない。
「ほら、答えられないじゃない」
「孝司、本当に大丈夫なの?」
「平気だって」
これ以上言ったらホントに病院に連れていかれてしまう。
猫は相変わらず鮭を食べていた。
それ俺の分だぞ……。
こうなれば実力行使だ。
俺は猫を抱き上げて玄関へ向かおうとした。
けれど二日酔いのせいで動きが緩慢だった。
猫は軽く身体を捻ひねって俺の腕の中から逃げ出すと、何事もなかったかのように鮭のところへ戻っていく。
とりあえず鮭を食っていると言うことは今は人間を喰う気はないと言うことだろうか。
しかし化猫というのは、人を喰ったり寝ている時に踊ったりするものではないのか。
踊るのは構わないが人を喰うのは困る。
学校から帰ってきてみたら家族が皆喰われてしまっていたなんて嫌だぞ。
もっとも、俺が学校へ行っている間、家にいるのは母さんだけだ。
だから喰われるとしたら母さんである。
しかし母さんが喰われることで俺の言葉が証明されても時既に遅し、だ。
母さんは死んでしまっているのだから。
けれど話を信じてもらえないのでは仕方ない。
母さんは大丈夫だと信じて学校へ行くしかない。
鮭無しの朝食を食べて部屋へ戻ると、窓の外に西新宿の超高層ビル群が朝日を受けて輝いていた。
家は超高層ビル群の近くにあり、俺の部屋の窓からはすぐそこに見える。
超高層ビルの窓ガラスに反射した光が差し込んできて真昼のように明るかった。
日差しが二日酔いの俺を叱るかのように眩しく輝いている。
俺は着ていた服を脱いで標準服に着替え、時間割を確認して鞄に教科書とノートを放り込んだ。
夕辺は酔っぱらっていてとても学校の支度どころではなかったからだ。