思春期少女の嫌悪譚
「
――――ふと、過去を想起する瞬間がある。
暇な時。なにもすることがない時。ぼんやりと景色を眺めているような時。とにかく、それは突然にやってくる。
私はその瞬間が好きだ。たった一人、ページを捲るように過去を懐かしむ。穏やかで満たされた気持ちになる。
けれど、その時は少しいつもと違っていた。
記憶の中で誰かがこう言った。
『人は一人では生きていけない。だから、今となりにいる人を愛しなさい』
と。
当時の私は、生意気で賢しらで可愛げのなかった私は、その言葉にひどく反発したものだ。
この発展した現代社会に限りそんなことはありえない。昨年度におけるこの国の生涯未婚率を見よ! およそ18パーント――つまり4人か5人に1人は孤独に生きているじゃないか、と。そんな具合に。
私の反撃を受けたその人物はこう返した。
けれど、君は国という組織に属しているし、学校という枠組みの中にいるし、最も根源的なこととして家族という共同体から恩恵を得ているはずだ。
なるほど。その通りだ。――なんて、当時の私が素直にそう思ったかは分からないけれど、少なくともうまい反論は思いつかなかったことだろう。
当時を思い返して、そういうこともあったなと思う。いつもならばそれで終わりだ。過去は過去のことでしかなく、だから今とは無関係なのだ、と。
けれどその日、私の喉には魚の小骨のようにあの人が言った言葉が引っかかっていた。
「人は一人では生きていけない。だから、隣の人を愛しなさい、か。愛するってどういう意味なんだろう……?」
確かに、私は過去もそして現在も、なにかしらの組織に属しているし、その恩恵も受けている。けれど、組織から愛を受けてはいないはずだ。
これは妙だ。では、愛するとはなにか。
私は少しばかり考えを巡らせた末に、愛することとは価値を認めることだと解釈することにした。
例えば、教師と私。
私は教師から様々な教えを享受している。けれど、それは決して愛などという形のないものではない。私が教師にとって価値のあるもの――つまりお金を支払っているからだ。
私が授業をする教師に価値を認め、教師がお金を支払う私に価値を認める。そうした関係性によって私たちの共存関係が成り立っている。
それはきっと国家でも企業でも友達でも同様だ。
国家に保障されるかわりに税金を支払っているし、企業から給料をもらうかわりに労働力を売っている。そして、友達は一緒にいて楽しいから友達なのだ。
互いに価値を認めることで共存する。それが愛することなのだと私は思った。
それから少しばかり時は流れる。
中学二年生の時だ。私は膝を故障した。
当時の私にとって、私の価値とはバスケが上手いことだった。一年生の時から三年生に混じってプレーしていたし、強化選手に選ばれたこともある。自分で言うのもこそばゆいけれど、私は結構バスケが上手かったのだ。
それが私の誇りであり、私の認める私の価値。
それを失った。
幸いにして膝の怪我は治療が可能なものだった。ちょっとばかし後遺症は残るけれど、普通に生活する分には問題がないし、激しいスポーツも、まぁ、酷使しなければプレー可能だ。
膝から固定用のギプスが外れた時の歓喜は筆舌に尽くし難いものだった。また私の価値を示すことができる。私の価値を認めさせることができる。
体の内側の熱が溢れて高揚感が世界に色を与えた。
色づいて、けれどすぐに闇に包まれた。
私はたった5kmの距離を走っただけで、膝を地面につけて動けなくなってしまった。体は水を吸った布のように重く、肺は酸素を求めるように喘いで止まない。
半年もの間、地面にぴったりと足の裏をくっつけていた私の体は、すっかり鈍ってしまっていたのだ。
それは私の知る限り初めての挫折だった。
私の認める私の価値。私だけの価値。絶対の価値。
それがなくなれば終わりだ。それがなければとても生きていけない。――というのは少し大袈裟に聞こえるかも知れないけれど、当時の私にとってはそれくらいの絶望だったのだ。
だって、そうではないか。
愛することが価値を認めることだとするならば、価値のない私はこれから一生一人で生きていかなければならないのだから。
己より価値の低い人を見下したことがある。価値のなさをせせら笑ったこともあっただろう。だが、いつしか私こそがその立場になってしまっていたのだ。
私は逃げた。なにもかもを投げ捨てて、放り出して、そうやって逃げ出した。閉じこもって鍵をかけ、片隅で肩を抱いてただ時が過ぎるのを恐れた。
それからのことはあまり覚えていない。なにがきっかけかは分からないけれど、どうやってか私は外に出て、流されるままに高校入学の手続きをして、なし崩し的に今この場に立っている。
だから、挫折から立ち直ったわけではない。
もし、この経験からなにかしら教訓を見い出すとするならば、私はこう答えるだろう。
――――私のようにはなるな。
以上だ。
」
講壇に立つ制服姿の少女は億劫そうに一礼する。
会場は沈黙に包まれていた。誰一人言葉を発することなく、下げられた少女の頭を見つめている。
それは少女と同じ学生のみならず教師や外部から招かれた賓客も同様だ。ただ呆然と少女のスピーチの内容に言葉が見つからないといった様子で傍観している。
会場には微妙な空気が流れていた。
「……あっ。は、発表者の方は降壇してください!」
我を失っていた司会進行を務める生徒が、ようやく自らの役目を思い出し再起する。それを皮切りに会場はざわめき出した。
少女はその光景を一瞥することもなく粛々と舞台を降りると、壁際にいた担任の教師に一言告げる。
「気分が優れないので休んできてもよろしいでしょうか?」
「あ、あぁ。ご苦労様。教室で休んでいなさい」
少女は担任の教師に目礼する。
「えー続いてのプログラムは――……」
そうして少女のいない集会は続いていく。
「…………なんで生きてんだろ」
――己の価値を見失った少女は一人そう呟いた。
気が向いたらテキトーに続編書きます。