救出作戦
擬態を使って環境に溶け込んだホワイトは、建物の陰を選んでゼットのアパートに向かった。警察のヒューマノイドが出動しているので助け出せる確信はなかったが、成功する可能性は十分にあると計算していた。
通りを渡ればゼットのアパートにたどり着くという場所で空を見上げた。指示したとおりルミルのドローンが野次馬の上空に浮かんでいる。
今よ!……心で念じた。
それが届いたのかどうかわからない。ルミルがゆっくりと動き出した。現金をまきながら、警察官が包囲するアパートに向かって……。
最初は硬貨が地面で跳ねる金属音に野次馬が気づいた。それから紙幣が木の葉のように宙を舞うのを目の当たりにした。
「金だ!」
現金がまかれたと知ったスラム街の住人達が、決して多くはない紙幣と硬貨を奪い合って武装警官隊の規制線を突破した。アパート周辺は大混乱に陥り、ヒューマノイドのセンサーも精度が落ちた。その混乱を利用し、ホワイトはゼットの部屋のバルコニーに移動した。
――コンコン……、窓ガラスを軽くたたく。すると閉じられていたカーテンが割れて真黒な瞳が現れた。
「ゼットとお母様。あなたたちなら、私が見えるでしょ」
彼らがファントムだという確信のもとに声をかけた。カーテンの隙間にある瞳は二度三度と瞬きするとカーテンの向こう側に消えた。
私の姿が見えなかった?……彼らがファントムだという推理が外れたのかと疑問に思った時、窓が静かに開いた。
「良かった……」それは自分自身に言ったことだった。「……姿を隠してついてきてください」
全てを悟ったゼット親子がベランダに出てくる。
「あなたは?」
ゼットの母親が訊いた。アパートの周囲は金を奪い合う住人と、それを沈めようとする武装警察官たちの喚き声で祭りのようだった。
「それは後程。とにかく、安全な場所へ」
ファントムの身体能力からすればベランダの手すりを乗り越えることも、そこから地面に飛び降りることも難しいことではない。ましてベランダの手すりを数軒先まで歩くことなどお茶の子さいさいだ。3人はバルコニーの手すりに上がると猫のように4軒隣のベランダに移動し、そこから平屋の物置の屋根に飛び降りた。
「ん?……」
視覚に頼る武装警官は、ホワイトたちの気配を感じても周囲をきょろきょろと見回すだけで、捜索活動には移らなかった。
3人はスラム街のはずれに無事たどり着いた。ホワイトは胸の袋から衣類を出して身に着けたが、ゼットと母親はあたかも衣類を着ているように、肉体の表皮を衣類に似せた。
「お疲れ様」
警察を振り切って来たルミルが声をかけてくる。彼女は意味ありげにゼットを見つめた。彼は眼を逸らした。
2人の間に何があったのか、もちろん、彼が杏里を殺そうとしたことは聞いていたが、詳しいことはわからない。ただ、ルミルが少女らしい憧れの気持ちを持っていることはわかった。
「ルミル、何とか成功したわよ。これからどうするの?」
ホワイトが問うとルミルが首を傾げた。
「ご迷惑をかけて申し訳ありません。レディー・ミラといいます」
ゼットの母親が改めて礼を言った。
「彼女が助けたいといったのです」
眼でルミルを指すと、ミラが彼女に向かって頭を下げた。
「本宮ルミルです」
ルミルが名乗るとミラの表情が歪んだ。しかし、ルミルが手を差し伸べると躊躇いなくその手を握った。
「湯川ホワイトです」
ホワイトが手を差しだすと、ミラは眼を細めた。
「助けてくれてありがとう」
ミラはホワイトの手を取らず、いきなり抱きしめた。その眼もとに涙が浮かんでいる。ホワイトは戸惑い、しばらくされるがままにじっとしていたが、それにも限度があった。
「早くこの場を離れましょう」
ホワイトはミラの身体をそっと押して距離を取った。
「そうですね。私ったら、はずかしい」
ミラが目尻の涙をふいた。
結局、ルミルには何の計画もないというので、ホワイトは彼らを自分の家に連れて行くことにした。
「ゼットとお母さんも擬態が使えるんですね。うらやましいわ」
タクシーの中で、ルミルは呑気な声を上げた。
ゼットは眉間に縦皺を作ったが、母親は優しく微笑んで見せた。
「所詮、人の目を誤魔化すだけの目くらましですよ。ヒューマノイドのセンサーからは逃げられません」
「でも、今日は逃げられたじゃないですか」
「人が入り乱れていましたから。お金をばらまいてくれたルミルさんのおかげです」
ルミルはミラにおだてられて喜んだ。
タクシーは20分ほどでホワイトの家に着いた。それは3階建てだがルミルの家ほど大きくない。とはいえゼットが住むアパートほどの大きさがあった。広い庭は豊かな芝生で覆われ、桜や樅の木が木陰を作っていた。
「ご家族の方は?」
招き入れられたミラは、まるでホワイトの暮らしぶりを探るように、3階まである玄関ホールの吹き抜けを見上げた。
「母は大学の研究者で、研究所に泊まることが多いのです。明日まで帰らないはずです。父親はいません。ずっと母娘だけの2人暮らしです。なんの気兼ねも要りませんから、ゆっくりと休んでください」
「大学の研究者というのは、儲かる仕事なんだな」
ゼットの素直な感想は嫌味に聞こえる。彼はすでに吹き抜けに面した階段を上っていた。
「ゼット、失礼ですよ。ホワイトさんが良くしてくださっているのに」
ゼットはそっぽを向いた。母親の態度が卑屈に感じられているのだろう。
階段を上った3階のホールに、何の変哲もない緑の森の大きな写真パネルが飾ってある。その樹木は、大空洞のある土地に一本だけ立っているものと同じ葉を茂らせていた。
「これは、オーヴァルの森?」
ゼットが森の写真に目を止めた。
「昔のサハラ砂漠よ。母と視察に行ったときに撮影したの。美しいでしょ。その木のおかげで地球の温暖化ガスの濃度は低下しつつあるし、核兵器や化学兵器が使われた大地も蘇りの兆しを見せているわ」
ホワイトはゼット親子を自分の部屋に招き入れた。3階の全フロアを占めている部屋は高級マンションのような内装で、中央の大きなローテーブルを囲むようにの4人掛けのソファーが3つ並んでいた。部屋の隅にはキッチンセットも据えつけてある。
「先生の部屋はいつもきれいにしてあるのね。マンションのモデルルームみたい」
ルミルが呑気な声をあげた。彼女がホワイトの部屋に入るのは4度目で、いつも同じことを言っている。
「ルミルはモデルルームなんて見たこともないでしょ。あなたの家の方がよっぽど立派だもの」
ホワイトは笑った。
「立派過ぎて、なんだか気おくれしてしまいます」
ミラが感心しながら広い部屋を見回し、興味深そうに調度品に眼をやった。サイドボード上にホワイトと母親の麗子が写ったフォトフレームを見つけた時には、小さな溜息をついた。
「遠慮はいりません。どうぞ、好きな場所にかけて休んでください」
客にソファーをすすめて自分はキッチンに立った。紅茶を淹れながら、杏里を裏切るようなことをしてしまったが、これからどうすべきどろう、と考えた。
§
ゼットが一番奥のソファーの端に掛け、一つ離れた席にミラが座った。
ルミルはゼットの斜め前のソファーに座ると、ゼット親子に向かって声をかけた。
「今日は、私の不注意のために迷惑をかけて、ごめんなさい」
ミラが少し驚いた表情を作った。ゼットは表情を変えなかった。
「私の方こそ謝罪しなければならないのです。ゼットが、あなたのお母さまを刺そうとしたそうですね。大変なことをしました。申し訳ありません」
ミラが深く頭を下げるのを見て、ゼットが顔をしかめた。
「教えてください。ママがゼットの敵というのは、どういうことなのですか?」
ルミルは率直にたずねた。
ミラは表情を曇らせたが、すぐに何かを決意したようにルミルを見つめた。その瞳には助けられた遠慮などは無く、怪しげな力が宿っている。
「話さなければならないでしょうね。……ゼットは、あの廃墟がオーヴァルと人類の戦いのあった場所だと聞いて、そして、初等教育の歴史で、先住者である人類が侵略者の異種族と戦った末に受け入れたと学んで、誤解しているのです」
彼女はそう話してから大きく息を吸い、「長い話になります……」と話を継いだ。
「……私は、スピリトゥスという者に創られたキマイラなのです」
昔の事件の記憶を整理するためだろう。ミラは窓の外に広がる高級住宅街に視線を移し、再び深呼吸した。
「キマイラって?」
ミラの発言に驚いたのはルミルだけだった。ゼットもホワイトも、それが何なのかを知っている。
「遺伝子操作によって創られた人工生命体です。……人口が120億に達し、地球環境が悪化した時代、それはほんの数十年前のことですが、限界世紀と呼ばれていました。人類の発展が限界に達した時代ということです。人が富に食料に、そしてエネルギーを求めて日々の生活が振り回されるように、国家も経済と環境問題、国家間の格差問題に振り回されていました。富を独占する僅かな人々が、貧しい者の命にも世界の行く末にも強い影響を及ぼし、一部の国家の肥大化した経済が発展途上国を圧迫していたのです。……今でもそうですが、科学技術の進歩は大国や大資本にとって有利です。そんな社会の中で、小さな国家、遅れた国家は悲惨です。まして個人が何かを得るのは難しいものです。希望を失った人々は自殺やテロに走り、貧しい地域では紛争が絶えなかった。地球環境も悪化の一途をたどっていました……」
ミラの話に、うわー、社会科学の勉強みたいだ、とルミルは吐息をついた。
いよいよ第2章、異種族が暴れまくります。
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