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法と正義と政治の不協和音

 日本のオーヴァルは毎日のように地下鉄駅や地下街の襲撃を繰り返していて、警察庁内には重い空気が漂っていた。警察庁の指示による水攻めの結果、多くの子供のオーヴァルが地下調圧水槽を抜け出して人間を襲う結果になったことは、もはや自明だったのだ。


「昨日の襲撃も、体長1メートル強のオーヴァルが多かったようですが、調圧水槽から逃げ出したやつとは限りません。他の場所にも卵があった可能性があります」


 事務官から襲撃事件の連絡を受けるたびに吉村次長は気休めを言ったが、それで浜村が喜ぶことはなかった。


「親と子供が合流したようだね。地下鉄の出入り口は自衛隊が守備していたと聞いていたが……」


 自衛隊の名を出し、調圧水槽の件に触れなかったのは責任転嫁の習性だ。


「地下街や運行している路線の出入り口には自衛隊の監視が立っています。その網にかからないということは、オーヴァルは運行を中止している路線の連絡通路から侵入し、線路伝いに移動しているものと思います」


「思いますではいけないのだよ。国民の命がかかっているのだ。地下鉄も長く止めていては、経済活動の大きなダメージになる。早急に侵入経路とアジトを特定しなさい」


 浜村が吉村と事務官を長官室から追い出すと、時宗警備局長が面会を求めてきた。

警備局は公安部を所管する部署で、インフェルヌス研究所内のファントム殲滅作戦を度々進言していたが、オクトマンと杏里が約束したファントムと人類の共存の実現を期待した浜村は、警備局の提案を都度はねつけていた。


「インフェルヌス研究所内のファントム殲滅を実行したいと考えます。もし、それがむりなら、SETがインフェルヌス傘下に入るよう、政府から圧力をかけていただきたく……」


 時宗は、再びファントム殲滅作戦を口にした。


「その件は、先週にも答えを出したはずだ。人類がファントムとの約束を破ってしまっては、信義に反する」


「状況が変わりました」


 時宗は自信に満ちた態度で浜村に異議を唱えた。


「どういうことだ?」


「オーヴァルによる地下鉄襲撃が続いた結果、警察が実行した地下調圧水槽でのオーヴァル殲滅は失敗だった、と明確になったということです。警備局は、公安の総力を動員して日本警察の汚名をそそぎたいと思います」


 それは遠回しに浜村のミスを責めると同時に、新たな成功を収めて失敗を帳消しにしてやろうと恩を着せる話だった。


 浜村は瞑目めいもくした。作戦が失敗したのは事実だが、それは自分のミスなのだろうか……。無能な者を現場のリーダーに据えることを承認したという点では責任があるのは認めよう。しかし、オーヴァルの生態がわからない現在、自分に作戦失敗の責任があるとは思えない。


「過失の有無の問題ではないのです。58名の人命が失われたのです。誰かが責任を取らなければなりません」


 時宗が浜村の思考をさえぎった。


「責任の取り方にはいろいろある」


 浜村は、目の前に立っている官僚臭い男を厳しい視線で見上げた。


「ですから、ファントムを殲滅して、僅かでも日本の治安を回復させようというのです」


「SETの株主総会以降、ファントムは人を殺していない。それを承知の上で、我々の方から約束を反故(ほご)にしようと、君は言うのか?」


「あれから、まだたったの43日しか過ぎていません。これから先もファントムが約束を守ると、どうしていいきれますか。そもそも、ファントムと〝不殺協定〟を結んだのはSETであって、日本政府ではありません。世界の諜報機関の中では、日本の企業がファントムと取引を始めたにもかかわらず、日本政府はそれを止めることもできない腰抜けだ、と馬鹿にされています。アメリカもイギリスもフランスも、軍を出してファントムと対決しているのです。日本だけが平和的解決を目指すなど、いい笑いものです」


 時宗は強い口調で言った。


「君のあげた国々は、企業の要請で軍を出している。しかも、最近ではファントムによる経済界の要人殺害は散発的で、ターゲットはリベラルなメディア関係者に移っているというではないか。そのことについて、公安部の見解をもう一度聞かせてくれないか」


 浜村は以前にも聞いた公安部のファントム・テロ分析の説明を求めた。それは自分が知りたいからではなく、公安部の自己矛盾を時宗に知らしめるためだ。


「ファントムが当該国の保守的傾向を誘導しているということでしょうか?」


「その先は」


「インフェルヌスグループの意思に沿った政治経済の運営が行われれば、ファントムの活動は沈静化していく。それが公安部の分析です」


「そのとおりだ。私はそう聞いた。その時、君はファントムの活動を抑えるためにSETをインフェルヌス傘下に入れるべきだ、と主張していたな。それを今更、ファントムそのものに手を付けようとは、どういう風の吹き回しだ?」


「それはファントムが変わったということです。……SET側に取り込まれてしまった」


「おかしなことを言う。まるで、SETが敵だとでもいうようだ……」


 浜村は笑った。


「そうではありません」


「SETがファントムを取り込む。それで平和になるなら、良いではないか?」


「そんなことでは警察のメンツが立ちません。ファントムが我々との共存を望むなら、出頭して多数の命を奪ったことに対する法の裁きを受けるべきなのです。そうしなければ社会秩序は保たれません」


「ファントムは人間ではない。その彼らに、我々の法律を主張できるのだろうか?」


 浜村は座りなおして時宗に冷たい目をむける。


「もちろんできると考えます。日本の国土の上に立つ限り、人間はもとより、犬猫も樹木も我々の法に従うべきなのです。いや、従わせなければなりません」


「なるほど。君の言う通りなのかもしれない。大航海時代。ヨーロッパ人は、アメリカ、アフリカ大陸に、そしてアジアに進出して土地をもぎ取り、自分たちの法を布いた。ファントムたちがそんなことをしていると考えたことはないかね?」


「ファントムが日本を支配しようとしていると……、それなら尚更、妥協できません」


「私が言っているのは、法律のことだよ」


「法の支配のベースには、力による支配があるとおっしゃりたいのですか?」


「そうは言わんよ。生物というものは、本来、必要なものしか取らないし、危害を加えてこないものには牙をむかないものだ。力による支配よりも共存という共通した本能があると私は信じている。百獣の王も腹がいっぱいなら、目の前をシマウマが歩くのも許してくれるものだ」


「国民の間には、ファントムが虐殺を行ったという共通認識があります。政府が国民を納得させるためには、ファントムに法の裁きを受けさせることが必要です」


「ならば時宗さん。オーヴァルも、日本国の法に従わせてもらえるのかな?」


「それは……」時宗の視線が泳いだ。


「法というものは、係るもの全てが共通の認識を持って初めて法になる。その認識が無ければ、法の執行は暴力と同じだ」


「長官のおっしゃるのはもっともです。しかし、現実の社会は、理論と違います。権力は解釈を曲げてでも法を使いこなし、多くの国民は長いものに巻かれて生き残ることを選びます。オーヴァルに対して人間の法は無力。それをどう巻き取っていくのかは、これからの課題です」


「オーヴァルは無理でも、ファントムは巻き取る時期だということかね?」


 浜村は身を乗り出した。


「理由は分かりませんが、ファントムはオーヴァルの出現にうろたえ、人間との共存を言い出したのです。つぶすなら弱っている今が好機です。自衛隊はオーヴァルに手を焼いていましたが、上層部の方針が変わって特殊火力兵器を利用することが決まったようです。明日にも地下のオーヴァルを焼き払うと気勢を上げています。そうなってはファントムが態度を強気に変えるかもしれません。自衛隊が動く前に、ファントムは我々警察の手で処理すべきです」


「どうやら、状況を変えたのはファントムではなく、自衛隊のようだね。君は、自衛隊と手柄の奪い合いをしているつもりなのか……」


 時宗が自衛隊と治安活動の影響力を争って強硬策に出ようとしていると知って失望した。


「実は、もう河上総理の許可は得ているのです」


「なんだと……」


 自分の頭越しに話を進められることを権力者は嫌う。好々(こうこうや)然とした浜村も権力者の端くれだった。時宗は根回しのつもりで総理に話を通したのだろうが、順番が違う。


 浜村の瞳が怒りに燃えるのを見て、横柄に構えていた時宗が身を縮めた。


「弱っている、か……」


 浜村は怒りを一旦のみ込み、真顔でも嘲笑でもない、とぼけた顔を作って時宗を見上げる。


「確実につぶせるのかね?」


「もちろんです」


 時宗が胸を張る。そう応えるしかない状況だった。


 浜村は時宗の大きな鼻を見ながら考えた。河上総理の許可を取った計画を止めては、総理の顔に泥を塗ることになる。だからと言って自分の頭越しに事を進めた時宗は許せない。作戦が成功すれば自分の手柄とし、失敗したら立坑の水責めの失敗も含めて全ての責任を時宗に取らせよう。決断すると怒りが解消した。


「それならば、私は目をつぶろう」


「よろしいので?」


 時宗が問い返す。それは、以前、警備局が提案したときに拒絶した浜村の判断を、間違っていたと認めるのかという質問と同義だ。上司が嫌うことを口にしたのは、浜村の意図を察知し、責任を認めさせておきたかったからだ。


「ああ、あの時とは状況が変わった」


 浜村はそう言って前回の判断に誤りはなかったことを強調し、時宗の責任転嫁を受け流す。


「失敗してはいけませんよ」


 浜村の念押しは、自分に反抗した男に対するプレッシャーだ。


「承知いたしました」


 長官室を後にした時宗は大きなため息をついた。

SETの知らないところで、日本政府はインフェルヌスの事務所に潜むファントム討伐に舵を切っていた。

その判断が、日本最大の惨劇の原因になるとは、この時は誰も気づかなかった。

いよいよ物語は終盤に入ります。最後の最後まで、ご贔屓によろしくお願いします。

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