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卵調査チーム、顛末

 水沢と麗子がベビー・オーバルから逃げて螺旋階段に続く水密ドアの前にたどり着いた時、麗子は水沢に守られて無事だった。しかし、水沢の身体には数体のオーヴァルが取付いていて、身体のあちらこちらから出血していた。


「逃げなさい」


 血まみれの水沢は言うと、麗子をドアの外側に押し出した。


「あなたも……」そう口にした時には、扉は閉まりはじめていた。


 彼は、ベビー・オーヴァルをむしり取りながら、背中で水密ドアを押していた。その英雄的な行動はあまりにも素早く、麗子が止める間も、礼を言う間もなかった。


 扉が閉まると、そこには静寂があった。


 麗子はドクドクと鳴る胸を押さえ、冷静になろうと努めた。


 ――ハー、ハー、ハー……、自分の呼吸音だけが閉塞した空間に反響している。そのために、安全な場所に逃げたにもかかわらず、緊張はますます強まり、壁や天井に押しつぶされるような圧迫感があった。


 その時だ。


 ――ギー……、鋸を引くような音がした。


「エッ?」


 その音は、ベビー・オーヴァルのものだった。壁面をよじ登ったそれが肩に飛びついてきた。


「いやっ……」


 麗子は慌てて白いベビー・オーヴァルを手に取った。腹を両側から摑まれたベビー・オーヴァルは、まるで微笑んでいるような可愛らしい顔のまま、手足をじたばたさせた。その顔には、感情が表れないのだと気づいた。バッタのような昆虫を見ているような気分になった。


 驚いた勢いで殺さなかったのは研究者のさがだ。思わず夢中になり、ベビー・ファントムをこねくり回して調べた。


 身体こそ小さいが、手の中の生き物が人間そっくりの外観をしているのに感心してしまう。じたばたする手足の指は5本、ギーギー鳴く口にはすでに鋭い牙がずらりと並んでいて、両足の間には肛門。……そして不思議に思う。生殖器らしいものがない。卵は肛門を通じて出てくるとして、どうやて……。


 脊椎せきついらしいものがなかった。それはファントムも同じだ。しかしファントムは、哺乳類同様の生殖器があった。感触では、背中側の外皮が固く、腹側が柔らかい。


 骨格的には、昆虫に近いらしい。……そんなことを考えた時だった。


「痛い」


 観察に夢中になって油断していた。ベビー・オーヴァルは親指の付け根に咬みつくと、見かけによらない強い力で手の中から脱出、麗子の腕を蹴って首筋に飛びついた。


「イヤ!」


 ベビー・オーヴァルの恐怖を思い出した。水密扉の向こう側では50名を越える人間が、小さなベビー・オーヴァルによって殺されているのだ。あの水島も今頃は……。


 彼を思うと怒りが力になった。小さな身体をしっかり握ると、全力で床にたたきつけた。それから間髪入れず、ひっくり返ったベビー・オーヴァルの腹を全力で踏みつけた。もし、オーヴァルが昆虫に類する生物なら、弱点は腹しかない。頭や背中は盾のような強度を持っているはずだ。


 結果は期待通りだった。ベビー・オーヴァルは口から白い粘液をはくと、嫌な臭いを発して溶けだした。


 麗子はオーヴァルが溶ける様を凝視していたが、床からすべてが消え去ってしまうと安心感から放心した。扉に背中をつけて、ずるずると座り込む。腰が抜けていた。


 どれほどの時間、座り込んでいたのか、時刻を確認することさえ思い浮かばなかった。それでも生きようとする本能が深呼吸をさせ、身体に酸素を送り込んだ。何度か深呼吸を繰り返すと、理性が働き出して記憶の整理が始まる。


 最初に浮かんだのはオーヴァルの子供のかわいらしい顔だ。そして凶暴性。次に浮かんだのは水島の声だ。顔は思い出せない。背をつけた分厚い扉の向こう側に水島がいるとわかっているが、考えないことにした。今、ドアを開けるわけにはいかない。


 ゆっくりと周囲に目を配り、螺旋階段の行き止まりの場所で自分だけが生きているのを再確認する。気密性の高い水密ドアからは、わずかな音も漏れ聞こえないが、その向こう側には調査チームの悲鳴や助けを求める声が飛び交う地獄があるはずだった。


 いや、もう、みんな死んでしまったにちがいない。そう思うと、自分だけが生き残った罪悪感にさいなまれた。


人類は、蟻に食われる芋虫に変わった。理性が自分に向かってそう言った。小さな蟻が、いずれ巨体に変わるのだ。もう人類に対抗する手段はないだろう。……嗚咽が漏れた。


§


 卵を排除に向かったチームが襲われたことは、リアルタイムで警視庁に届いた。


「助けてくれ」それが警官たちの最後の報告だ。ウエアラブル端末から送られる複数の音声と映像は、彼ら自身が襲われ、惨殺される様子を克明に伝えていた。麗子が生きていることは水密扉と配電盤を監視している防犯カメラの映像で確認できた。


「すでに孵化しました。生存が確認できたのは、湯川博士1名だけとのことです」


 不幸な事件の報告を受けた浜村は、すぐさま苦渋の決断をした。


「地下調圧水槽へ注水しなさい。水で満たし、ことごとく窒息死させるのだ」


 多くの国民を守らなければならないという使命感がそう言わせた。たとえ卵の調査チームを犠牲にしても……。


「オーヴァルは水生の動物だという話もありますが、水などいれてよろしいのでしょうか?」


 浜村の片腕と評される吉村次長が疑問を投げた。


「評論家の言うことを真に受けるのか。陸上で長時間活動し、乾いた調圧水槽に卵を産んだオーヴァルが水生生物などであるはずがあるまい。つまらない推測に怯える暇があったら、時間を無駄にせず行動しろ。……万が一にも、生まれた子供らが調圧水槽をでたら始末に困る。自衛隊のようなへまをして、警察組織までも国民の信用を失ってはならん」


 浜村は険しい視線を吉村に向けた。


 国土交通省が警察庁からの依頼に戸惑っていると、浜村の意を受けた河上総理から同じ指示があった。


 国土交通省は取水口の下流の水門を閉め、水位を上げて調圧水槽へ水を送り込んだ。取水口の周辺は武装警官が包囲して、生き残ったベビー・オーヴァルが逃げ出すのを警戒したが、その姿を見ることはなかった。


 翌日からポンプがフル稼働して調圧水槽から排水を行った。


 排水完了後、警察庁長官付の深町警視を捜索隊長とし、武装警官と自衛隊合同の捜索隊が組織され、調査チームの遺体の収容が始まった。


 調圧水槽内は、立坑もトンネルも川から流れ込んだ土砂やゴミが堆積していて、遺体の収容は困難を極めた。


 瓦礫の中から発見される遺体はどれも無残な状態だった。オーヴァルに襲われただけでなく、注水時の水圧でコンクリート壁に強打されていたからだ。


 作業に当たる警官たちは、吐き気をこらえて遺体を探した。


 そんな中でも参加した鑑識官は、オーヴァルの遺留物の収集に余念がない。オーヴァルの死骸を含め、遺留物は生態を解明するために必要なものだ。


「オーヴァルの死体が無いな。あるのは卵の殻だけだ」


「オーヴァルは死んだら酸で溶けてしまうだろう。仕方がないさ」


「水死なら、酸が洗い流されるだろう。全部溶けるか?」


 鑑識官たちはひそひそと疑問を口にしながら手掛りを探した。


 調圧水槽で遺体の収容が行われているとき、近くの地下鉄駅構内に多数のオーヴァルが現れて市民を襲った。


 オーヴァル出現の一報は捜索隊にも入り、緊張が走る。


「遺体の収容は済んだか?」


 深町は誰よりも捜索隊の安全を気遣った。


「頭蓋骨の数はそろいましたが、遺骨全部とは言えません。部分の欠損したものが沢山あります」


 遺体を袋に入れていた鑑識官が報告する。


「よし。それでは捜索終了。撤収する」


「もう少し、遺留物の調査をさせてください」


 命令に抵抗したのは、たった1人だった。


「だめだ。オーヴァルの子供は死んだのかもしれないが、姿の無かったオーヴァルが地下鉄を襲っている。すぐ近くだ。ここが巣なら戻ってくる可能性が極めて高い」


 鑑識官の要望を深町は認めなかった。二次被害は、無能力、無責任のそしりを免れない。


「おい、側壁に亀裂があるぞ」


 立坑を見上げた自衛官が言った。


 数個のライトが集中すると亀裂はくっきりと闇に浮かぶ。その隙間は30センチほどだ。


「手抜き工事でもあったんだろう。補修が必要かもしれないから、国交省に伝えておけ。オーヴァルが片付かないうちは誰も入ることはできないだろうがな」


 深町は部下に命じて水密ドアをくぐった。


生き残ったのは一人の科学者のみ。彼女を救ったのは頼りなさげな中年男性だった。

調圧水槽には注水されたが、それでベビー・オーヴァルは全滅したのか?

事件は終わっていなかった。

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