純朴な好奇心
土曜日のこと……。ルミルはシンゴさんを連れてスラム街に入った。もちろん、スラム街に入ることは、母親には内緒だ。
「いた!」
ルミルが見つけたのは、超悪魔団の赤い髪の青年だった。彼は人気の少ない裏通りを、肩を怒らせながら歩いていた。その頬にはホワイトに蹴られた足形がくっきりと打撲傷になって残っていた。
「ねえ、ねえ、ねえ」
ルミルは目の前を通り過ぎた青年に声を掛けた。
「馴れ馴れしいやつだな」
振り返った青年は、声の主がルミルだと気づいて腰を抜かしそうになった。
「な、なんだよ。お前……」
スラム街で危険な目にあったルミルが、再びそこに足を踏み入れるとは、想像も出来なかったのだろう。彼は意表を突かれたかたちになった。
弱いルミルがスラム街に入る以上、ホワイトが一緒かもしれないし、警官を連れてきたのかもしれないと思ったに違いない。怯えた顔で周囲を見回した。
「おまえ、この前のやつだな。あんな目にあって、また来るなんて馬鹿か?」
「うぅーん。そうかもしれない」
君子危うきに近寄らず、と教えてくれたホワイトの顔を思い出し、ルミルは笑った。ホワイトの能力と比較すれば、馬鹿だという自覚もある。
「ちぇっ」
彼は唾を吐くと頬を押さえた。
「まだ痛むの?」
「当り前だろう。下手をしたら、首が折れて死ぬところだったんだぞ」
「そうなんだ。大丈夫?」
ルミルは小首を傾げながら、彼が隠した打撲傷を覗きこんだ。
青年はしかめっ面をつくり、ルミルを見下ろした。
「それで、今度はなんだ。やっぱり俺たちとやりたくなって来たのか?」
「お兄さんも馬鹿だね」
ルミルは笑った。
「犯すぞ!」
彼がガンを飛ばしたが、ルミルは平気だった。
「今日は、シンゴさんが一緒だからね。安心だよ」
「シンゴさん?」
赤い髪の男は、ルミルの後ろに立っている老人に目をやった。どう見ても70歳前後にしか見えない年寄りだ。
「ただの老いぼれじゃないか」
「年寄りは敬うものじゃよ」
シンゴさんはにっこりと笑った。
「バカバカしい」
彼はシンゴさんに背中を見せると、突然、その胸に向かって右足を蹴り上げた。強烈な後ろ回し蹴りだ。
――ガツン――
鈍い音が空気を震わせ、青年が満足げに笑った。
「やったぜ」
満足げにつぶやいた彼が、顔色を変えた。シンゴさんに背中を見せたまま、脚を下ろすことができない。
「な、なんだ……、足が……」
彼の右足はシンゴさんの左手のひらで受け止められ、しっかりと握られていた。
「なかなか良い蹴りじゃったよ」
言いながら、シンゴさんが足を握った手にジワリと力を入れる。
「いててて……ギブ、ギブ、放せよ」
シンゴさんは、彼の足を放した。
青年が、ト、ト、ト、とたたらを踏んで転んだ。
「ねっ、シンゴさん、強いでしょ」
ルミルは彼の隣に屈んで言った。
「くそが!」
青年は座り込んだままシンゴさんを見上げた。
「こいつ、ヒューマノイドだろう?」
「当たり」
「ちぇっ。お前、どこの金持だよ」
「ないしょー。個人情報だからね」
「くそが。それで、俺になんか用か? この前の件で謝れとでもいうつもりか? それなら謝らねえ。もちろん、慰謝料なんてものも持ち合わせがない」
青年は立ち上がり、パンパンと尻を叩いて埃を払って歩き始める。
「ねえ、ねえ、ねえ」
ルミルは、彼について歩く。
「なんだよ。ついてくるな。疫病神」
「ねえ、ねえ、ねえ。ゼットの家を教えて」
ルミルの頼みに驚いた男は、背中を丸めて振り返った。
「ゼットの家?」
「そう。ゼットの家」
「なぜ?」
「わかんない」
「馬鹿か?」
青年は天を仰いで嘆いて見せ、再び歩き出す。
「教えて」
ルミルはあきらめなかった。
「教えてほしかったら、1万円払え。それが資本主義社会というものだ」
「はーい」
ルミルの気持ちの良い返事に、青年が足を止める。ルミルに目を向けてほくそ笑んだ。
ルミルは、シンゴさんに持たせているバックからクレジットカードを取り出す。
「待て。カードはだめだ。スラムではそんなもの信用されない」
彼が拒否した。
「もう、仕方がないわね。現金なんてあったかしら?」
バッグの中をガサゴソ漁り、ポケットティッシュに紛れていた現金をみつけた。
男は差し出された紙幣に目を落とし、それからルミルの顔に目を移し、最後にシンゴさんの顔を確認した。
「いいんだな?」
「ちゃんと教えてよ」
「毎度あり」
彼は満面の笑みを浮かべた。意外に可愛らしい笑顔だった。
「ついてこいや」
青年は背筋をそらすと、つま先から先に歩くような格好でスラム街の路地に入った。その後をルミル、シンゴさんの順で進む。
「ねえ、ねえ、ねえ。あなたの名前は?」
「個人情報だからな。知りたかったら、1万出せ」
金持ちの甘ちゃんから、むしり取れるだけとっておこうと考えているようだ。
「それなら、聞かない」
ルミルは口を閉じた。彼はむっとしたが、道案内は止めなかった。
「ジェイだ。レッドヘッドのジェイ。かっこいいだろう」
突然、彼が言った。
「ふーん」
「なんだよ。話し甲斐のないやつだな。あんたは?」
「私の名前は、前の晩に呼ばれたわ。覚えていないの?」
「当り前だ。こんなに蹴られたら、クソと一緒に流れちまう」
ジェイは、自分の頬を指した。
「ふーん、ルミルよ」
「ルミル……。そんな名前だったかな? 変な名前だな」
ジェイが振り返り、ルミルの容姿を改めて確認した。
「そう?」
「そうだ。乳酸菌飲料みたいな名前だ」
「そうか。知らなかった」
「まったく、とぼけたガキだ」
それからしばらく、ジェイは歩くことに専念した。
「ここだ。ゼットは母親と住んでいる」
ジェイに案内された場所は、3階建ての公営住宅の2階だった。建物は最低限のコストで作られたシンプルなものだ。
スラムという言葉の持つイメージとは異なり、建物は壊されたり落書きがされたりすることなく清潔だった。それは防犯カメラで監視されているし、公共施設の破壊は罪が重く、もし、それを行ったのが住人ならば、居住資格を失い刑務所に送られることになる。
刑務所で与えられる食料や衣料品はスラム街とあまり違いがないが、そこに入れば貧民層を抜け出す貴重なチャンスと自由が奪われる。それでスラム街の住人は、公共施設を大切にしていた。
ルミルはインターフォンを押した。
「返事はないと思うよ」
ジェイが言った。
「どうして?」
「2人とも仕事に出ているからさ」
「ひどい! 知っていて、連れてきたのね」
ルミルは掴みかからんばかりに詰め寄った。
ジェイは抵抗せずにルミルの反応をニヤニヤしながら楽しんでいる。
「どうしてさ?」
ジェイが訊いた。
「ゼットのところに案内してくれるんじゃなかったの」
「おまえがゼットの家を教えろと言ったんだぜ」
「あ……、それはそうだけど。普通、たずね人のところに案内してくれるものじゃないの?」
「俺は、人を案内するのが初めてだから知らないよ」
ジェイがルミルをからかって面白がった。
「ゼットはどこにいるの?」
ルミルがたずねると、ジェイは手を出した。
「情報料、1万」
「ぼったくりだわ。いい、ここで待つから」
ルミルは頬を膨らませてドアの前にしゃがみ込んだ。
シンゴさんがルミルを見下ろして困惑していた。少女の気持ちは、シンゴさんの量子コンピューターでは計算しきれないらしい。
「まったく……。こんなところにいたら、エンジェル団に拉致されるかもしれないぞ」
言ってから、シンゴさんに気づいて言葉を変える。
「警察に補導されるぞ。この辺りは、監視が厳しいんだ」
ジェイが脅かしてもルミルは動かない。ジェイとシンゴさんは困惑し、目と目を合わせた。
「わかったよ。ただで案内するよ」
赤い髪を掻き上げ、ジェイが階段をはねるようにして下りた。
「サンキュー」
ルミルはジェイを追った。
「しかしなぁ。後で恨まないでくれよ」
ジェイが歩きながら言った。
「どうして?」
「行けば分かるけどな。そこは俺たちが大空洞と呼んでいる危険な場所なんだ」
「お化けでも出るの?」
「えっ! 知っているのか?」
ジェイが目を丸くして振り向いた。
ルミルは、プルプルと頭を横に振った。
「ジョークのつもりだったのよ」
「そうか……」
「どんなお化けが出るの?」
「誰も見たことはないんだ。ただ、誰もいないのに人の声が聞こえたり、物が動いたりする」
「ポルターガイスト現象ね」
「難しいことは知らないが……」
ジェイは言葉を濁し、黙々と歩いた。
20分ほど歩いたところに高い塀に囲まれた広い空き地があった。塀には、至る所に亀裂や穴がある。
ジェイが塀の大きな亀裂から敷地内に入っていく。
かつて、そこに大きな建物があった痕跡があった。閉じられた門から敷地の中央に向かって幅広く貼られたタイルは通路の跡で、敷地の中央が盛り上がり山を作っているのは、倒壊した建物の瓦礫がそのまま埋まっているからに違いなかった。堆積した土の上には雑木が茂っているので、建物が倒壊してからそれなりの年月が過ぎているのだろう。
敷地の奥には温室があったらしく、日本では見かけない樹木が成長していて足元にはガラス片が散乱していた。樹木の中に、一本だけひと際高い樹木がある。秋になっても肉厚の葉が変色しない珍しい木だ。
「あら、これってオーヴァルの木?」
「知っているのか?」
「ホワイト先生の家にオーヴァルの森の写真があったわ。自然科学のテキストにも載っている。異種族オーヴァルの主要輸出資源よ。日本では、育たないと思っていた」
ルミルは、背伸びをして葉を一枚むしり取った。切り口から、白い樹液が流れ、甘酸っぱい香りがした。
「こいつは冬にも葉を落とさない。代わりに花も咲かせないし、実もつけない」
2人は青々と葉の茂ったオーヴァルの木を見上げた。
「どうしてこんなところに育っているのかしら?」
ルミルは小首を傾げる。
「さあな。もう少し大きくなったら、金に換えられるかもしれない」
ジェイが真面目な顔で言った。
「切ってしまうの?」
「それは無理だろうな。見てみろよ」
木の側に強化プラスチックのパネルが立てられていて、【英雄オクトマンここに眠る】と書かれていた。
「お墓なの?」
「さあな。これを立てたのはゼットだ。どうやらゼットにとってはオクトマンが英雄らしい。この木はゼットが大切にしているから、切ったら殺されるかもしれない」
ジェイは冗談のように言ったが、彼がゼットを恐れているのは間違いないと思った。
「オクトマンって、だあれ?」
「俺は知らない。あいつは、ほとんど話をしないからな」
ジェイはガラス片をじゃりじゃりと踏み砕きながら進み、崩れかけた建物に案内した。残っているのは柱や梁ばかりで、壁はほとんど崩れていた。
広い廊下だった場所を歩き、部屋であったはずの場所に足を踏み入れる。廃墟となった部屋の中央に、地下へ続く階段がパックリと口を開けていた。
「ここが地下への入り口だ。中は広い空洞だが、ほとんど瓦礫で埋まっている。その瓦礫の中を、狭い通路が網の目のように広がっているんだ。ゼットはその奥で遺物を掘り返している。あいつ以外、そこまで下りた者はいないそうだ。耳を澄ませてみろ。音が聞こえるだろう?」
ルミルが屈んで暗闇に頭を近づけてみると、カーン、カーンという固い物で岩を砕くような音がかすかに聞こえた。
「うん、聞こえる」
「あれがゼットの仕事だ。中は瓦礫や壊れた機械が積み重なっていて危険な状況だ。迂闊に物を動かすなよ。崩れるかもしれない」
「分ったわ。それじゃぁ、行きましょう」
ルミルが促すと、ジェイは首を振った。
「俺はここまでだ。怖いからな。中は迷路状になっている。ゼットが見つからなかったら、自分の足跡を頼りに戻って来るといい。ライトはあるな?」
「ウエアラブル端末のライトはあるけど、中にエネルギー波は届いているの?」
世の中の機械のほとんどは、空気中を飛び交う極超マイクロ・エネルギー波を受信し、電気に変換して動いている。だから電線もバッテリーといった装置も、ほとんどこの世からは消えてしまっていた。
宇宙空間で発電し、地球全域に極超マイクロ・エネルギー波を送り届けているのはスマートエナジーテクノ社、通称SET社で、ルミルの祖父の鈴木大和と祖母のカンナが40年ほど前に設立した企業だ。祖父母の亡き後、SET社は杏里が経営している。
「ああ、それは心配ない。ゼットがいくつか中継アンテナを置いているはずだ。それがないと、この爺さんも動かないだろう?」
ジェイはシンゴさんを指して微笑んだ。
「一緒に行きましょうよ」
ルミルはジェイを誘った。
「おれはお化けと警察が嫌いなんだ」
レッドヘッドのジェイは、右手をひらひらと降るとルミルに背中を向けた。